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真田歴史館・真田氏館跡・御屋敷公園から、次に行ったのは長谷寺(ちょうこくじ)。曹洞宗真田山種月院長谷寺天文16年(1547年)、真田幸隆が上州の長源寺から伝為晃運和尚を招いて創建。開基は真田幸隆。標高880mある山深い場所なので、桜が咲いていました。遠路はるばる来てくれたねと言っているかのように桜が綺麗に咲いていました。本堂真田幸隆戦国時代の武将。信濃國小県郡真田の領主、武田氏の家臣で武田二十四将の一人。真田家中興の祖。海野平の戦いに敗北で上野國へ逃亡。武田晴信の誘
☆主は変わってもそこに咲く桜の花*天下一・高遠(たかとう)の桜(伊那市)高遠城址1500本の「コヒガンザクラ」その美しさと南アルプスを望む眺望は”天下一”二代将軍・徳川秀忠には、三代将軍となる「家光」のほか、側室に男児がいたが、極秘裏に信州・高遠城で育てられていた。家光は、将軍になってから始めて、弟の高遠藩主「保科正之」の存在を知る。
群馬県安中市上後閑にある曹洞宗青木山長源寺ですこちら平和への祈りと禅語に親しむ巡礼第11番札所です。安中市の県道125号線を後閑川沿いに上り、、、、道が終わったとこあたりにあります。(安中市最奥地????)駐車場からは石段と山門鐘楼堂御本堂室町時代嘉吉3年(1443年)、信濃国御嶽の城主「依田信濃守源政知」により創建。依田氏は嘉吉元年(1441年)信州より上州に進出し、当地の下後閑に後閑城を築城、以後三代約百年間居城し当寺を庇護したそ
戦国時代の大悪役といえば、松永弾正久秀の名前が良く上がります。ところで、この名前の真ん中にある『弾正』って、他の戦国武将も沢山名乗ってますよね。ざっと思いつくだけで・・松永弾正久秀織田弾正忠信長真田丸で大人気の真田家ですが、その祖に当たる、真田弾正幸隆(真田昌幸の父親)そして、この真田幸隆の外にも、武田信玄に仕えていた弾正を名乗る武将はいて高坂弾正昌信保科弾正正俊彼らをして『戦国(武田家)の三弾正』なんて言われていて逃げ弾正…高坂昌信槍弾正…保科正俊攻め弾正…真田