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五稜郭タワーを堪能した後は本命へ・・・「五稜郭跡」へと向かいます。五稜郭は江戸時代末期に、江戸幕府が蝦夷地の箱館郊外に築造した稜堡式の城郭です。元が湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから「柳野城」の別名があります。ここは箱館戦争の中心地。旧幕府軍の土方歳三・大鳥圭介・榎本武揚や、新政府軍の参謀黒田了介(黒田清隆)らの円柱の何か。こういうのってなんて言うんだろ??一の橋半月堡の石垣武者返し(刎ね出しとも言います)がありますね。
昨日の続き会場入り口の案内。なんとなくテンション上がりますよね当日のレジュメ新八っちゃんの年表や、家系図も添付されていましたお話は、主に新八っちゃんの明治以降の足跡。そして戸籍簿や樺戸集治監に、剣術師範として奉職していた時期くらいの、職員の集合写真!というものもでも残念ながら新八っちゃんは写ってるかは確認できなかったとの事。いやいや、もしかしたらどこかにひっそりと…あと、やっぱり新選組の為に板橋に碑を建てる為に奔走したお話は、感動です
幕末が続きます150年前のこの頃、新選組では「合言葉」が決められていた様子。そういえば「天満屋事件」の時応援に出た新選組と紀州藩とが互いに味方とわからずに衝突したというエピソードもありましたよねやっぱり「合言葉」は必要だったようで…十二月二十七日夜、新撰組の者門外へ出ると、手討ちいたし参る。よって土方歳三と永倉新八相談いたし、今宵は市中巡羅に罷り出で、士体と見れば用捨なく切り捨て申すべく、合印は晒鉢巻を用い、合言葉は月星と永倉新八組へ相達す。…(浪士文久報
板橋駅のすぐ東ですこの日のウォーキングのスタートは、JR埼京線の板橋駅です。以前は池袋・赤羽間は赤羽線とよばれ折り返し運転をしていましたが、埼京線の開通にともなってとても便利になりました。駅の東側に出て、最初は近藤勇のお墓に行きます。近藤勇・土方歳三の墓と彫られています。新選組局長だった近藤勇は1868年に板橋刑場で処刑されました。こちらの墓所は、1876年に永倉新八が設立しました。関東には各地に近藤勇の足跡が残されています。ウォーキングを続けていると、その数の多さ
①よりさて、その襲撃された場所はどこか約3年前にあの辺りを歩いた時の事を思い出します…阿部さんの証言によりますと、☆伏見尾張藩屋敷の脇の、街道が屈曲して、曲がりますところ島田魁日記ですと☆伏見墨染の辺篠原さん談話でと☆伏見街道御幸(香)の宮下そして「戊辰之役実録」では☆京街道墨染手前丹波橋辺と、様々阿部さんの「尾州の屋敷の近くで道が湾曲している場所」というと、「丹波橋筋」か「下板橋筋」のどちらかになるそうです。で、「戊辰之役実録」は結構具体
龍が如くSS・真島吾朗SS「おっ、新入りの斎藤一ちゃんやないか。ええとこに来たなぁ、ちょっと肩揉んでくれや」「沖田か……嫌だ。他をあたってくれ」「なんでや!ええやろちょっとくらい!今他に誰もおらんやろが!」「チッ……なんで俺がこんなことを」「なんやお前、文句あんのか?言うこと聞かなあの秘密バラすで」「秘密だと……?あんた、何を知ってる」「ヒヒ、アレやアレ。バレたら困るやろぉ?ワシはお前のことなんでも知ってんねん」(……アレって何だ?まさか、俺の正体が坂本龍馬だと
龍が如くSS・真島吾朗SS「ゲホゲホ……ゴホッ」「大丈夫か、総司?背中さすったろ」「大丈夫や……移るから近づいたらあかん。早よ出てった方がええ……」「せやけどお前、飯もほとんど食わんしその風邪ちっとも良うならんやないか……栄養つけな治るもんも治らへんで。人の心配より自分の心配せえや」「…………」「……粥食ったら薬飲んで安静にしとけや。ええか、ちゃんと食うんやで!」「……なあ、新八」「なんや」「はじめちゃん、元気にしとるかな?」「あ?なんや急に。……そうや
坂本龍馬が斎藤一として新選組に入隊する以前のこと……すでに宿には偵察を送り込んだとのこと。何してたんだか知らないけど永倉は相当遅刻したようですね(笑)今回は七番隊の仕切りだと張り切る谷。鈴木は少し羨ましそうな感じですが、永倉と松原は全く興味なさそう新選組の戦いぶりは凄まじく、宿には死体の山が築かれた……脂まみれ……なんだか血まみれより生々しくて嫌だ任務完了し、それぞれ引き上げていきますが永倉はその場に留まります。乱戦が始まり出るに出られなくなった、と。しかしそこへ忘
読者のみなさまへいつも永倉のブログを読んでいただき誠に、誠に!ありがとうございます!先日、あるブロガーさんからメールをいただきました。その内容とは永倉さんのブログいつも楽し