ブログ記事637件
文吉を連れ去ったのは土佐勤王党でした。その一員であった五十嵐幾之進がのちにこんな談話を残しています。(閏)八月末日の晩の目明し文吉の絞殺一件、これには少し私も関係しております。瑞山(武市半平太)先生の木屋町の宿所に集まりまして協議をしましたが、斬りに行くという人が多くて仕方がない。そこで籤(くじ)取りをして決めますと、清岡治之助、阿部多司馬、岡田以蔵の三人が当たりました。島村恵吉が、あのような犬猫同然の者を斬るのは刀の汚れである。絞め殺すがよろしいと申しますと、皆それが良いということ
のどかな城下町の風景……ですが、ひとりの女の子が突然腹痛を訴え倒れます。近くにいた医者の見解では、おそらく盲腸のためすぐ蘭学医の元へ行かねば命が危ないとのこと。しかしそこへ運悪く上士が現れ、人々は道を空けるため脇に控えます。一刻を争うため、女の子の母親は医者の元へ行かせてもらおうと上士たちに直談判しますが、上士は母親を殴り訴えを退けます!大洲藩出身の母親は、「土佐はおかしい」と怒りを露わにしますが……腐りきった性根の上士に嫌気が差していた龍馬は報いを受けることを覚悟して
①岡田以蔵の逮捕「人斬り以蔵」と畏れられた以蔵は、文久3年(1863)2月、突然土佐藩を脱藩し、京都長州藩邸の寄寓して、高杉晋作の庇護を受ける。(江戸の長州藩邸の説もあり)文久3年2月頃より再び坂本龍馬と交流を持ち、以蔵の将来を心配した龍馬の依頼で3月に伏見で勝海舟の護衛を任せているそのとき以蔵は、勝海舟を襲撃した3人の刺客から勝を守り、さらに、勝の命令で、ジョン万次郎を護衛し、6人の襲撃者を撃退したという。勝海舟や龍馬の思いに応えた以蔵は、天誅という名目の暗殺を禁じた。しか