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昭和50(1975)年8月。早くも秋の新番組を一挙に宣伝する日本テレビの番宣広告。注目は右下。まだ(仮)マーク付きの俺たちの旅の配役が、カースケ=中村雅俊、オメダ=田中健はそのままとして、グズ六役が津坂まさあき(秋野太作)ではなく、レッツビギンこと河野武先生こと村野武憲になっている。この人気青春ドラマ、企画段階では中村雅俊はそのまま、オメダ=水谷豊、グズ六=村野武憲となっていたそうだが、諸般の事情で立ち消えとなり、おなじみのメンバーとなったらしい。『俺たちの旅』は10月5日放
観測機器の確認のため田所に代わって阿蘇に向かった小野寺現地で沖田というバイク乗りの青年と出会う沖田は病床の弟のために日本全国の自然の音を録音して回っていたしかしその弟は余命が限られていたのだ小野寺の忠告も聞かず、噴火する阿蘇山に録音に行った沖田だったが、結局溶岩流の中に転落し命を落としてしまった第11話京都にオーロラが!!阿蘇の大噴火はとどまる事を知らずついに山頂崩壊観測史上最大の噴火となった小野寺はそんな中、測候所からデーターを集めて必死に逃げる帰り
九州南部が水没し、更に函館と札幌が相次いで沈没そんな中、D計画本部を解雇された小野寺は失意のまま東京へ帰京田所にD計画本部復帰を願い出て許可されたその直後に今度は伊豆大島がカルデラ噴火で消滅いよいよ日本沈没に拍車がかかっていた人工衛星からの観測写真から、フォッサマグナに異変が起こる事を察知した田所予告通り、静岡県御前崎で地震が発生し御前崎灯台に所長夫婦が取り残されてしまった灯台には巡視艇とヘリが向かっていた「よっしゃー、これで父さんと母さんは助かるぜ」
函館、札幌と沈む様子を目の当たりにした小野寺はD計画も解雇され、失意のまま東京に帰京しかし東京でも、太陽の蜃気楼や温泉が湧きだすなどの異変を目撃更に今度は伊豆大島で三原山が噴火した田所に詰め寄り、D計画に復帰した小野寺は伊豆大島に向かったそこには日本救護センターの一員となった玲子がいたがそれに気付く事はなくすれ違うそして伊豆大島は大爆発と共に消し飛んでしまった第22話折れ曲がる、日本列島天草から打ち上げられた監視衛星の写真を分析する田所博士は、
田所の予想通り、京都に大地震が発生した事前に田所の予想から京都市民に避難命令が出されたため死傷者は信じられくらい少なかっただがその地震で田所の親友木村は被災して死亡する東京に呼び戻された田所は緊急防災会議に出席だが、そこで田所を待っていたのは日本沈没を否定したがる無能な閣僚たちとそれに取り込まれ、御用学者と化したかつての親友ダグラスの冷ややかな視線だけだった「小野寺はん・・・・木村はん、もううちの母と会うとるやろか・・・あの世とやらで」「うちはもう何にもあらしまへん
こんばんは。相変わらずの真夜中更新、すみません。今日はアラ還、アラフィフがワクワクする青春ドラマ二つの紹介、【飛び出せ!青春】と【われら青春!】です(o˘◡˘o)まずは【飛び出せ!青春】からね。どちらも私はまだ小学生だったんだけど高校生って言うか、青春ドラマに憧れを抱いてましたね。実生活は女子高に行っちゃったからちょっと違う感じの想い出にはなりました。【飛び出せ!青春】のオープニングは青い三角定規が歌う【太陽がくれた季節】でした。【飛び出せ!青春】は、村野武範さん主演による日本テレビ系で
明日の愛五木ひろしTBSドラマ「日本沈没」の主題歌でした一斉を風靡しましたね「日本沈没」小松左京の小説はベストセラー映画は、藤岡弘といしだあゆみテレビは、マシッソヨ村野武範と由美かおる明日の愛昭和49年(1974年)♪さようならと泣かないで最后(いま)はほほえみをいつかまためぐり逢える太陽(ひかり)と風のように他人(ひと)はみな遠ざかり希望(ゆめ)は褪せようと花は咲く春がくれば地の果て続くかぎり作詞・山口洋子作
「十八歳、海へ」の藤田敏八監督が湘南を舞台にシラケ世代を描く1971年公開のロマンポルノ前の最後の日活映画です。夏の朝の海辺。バイクでやってきた高校生の清は不良学生たちに暴行された車から投げ捨てられる少女を目撃する。清は彼女を兄の海の家に連れていくが服を取りに行っている間にどこかへ消える。数日後、その少女早苗の姉が海の家で働く清の前に現れ早苗のことを根掘り葉掘り聞いてくるのをからかっていると警察に連れて行くと脅され…清がバイクや車を乗り回していたりスナックで酒を飲んだりして、とても高校生には
Wikipediaにおける1974年の日本のページ内の、その年に起こったできごとの項目のなかに「日本が沈没する。」という記載がある。思うところあり、ここ最近は過去に書いた記事をちょっとずつ見返す作業をしている。といってもそれほど丁寧に読み返してるほどでもなく、1日1記事程度のペースではあるんだが。それで気づいたことがある。最初のころの当ブログは、特撮と観劇の占める割合が異常に高かったのだなということに(苦笑)。あの当時はお世話になってる伴大介さんの集い=通称“伴さん会”や出