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46年間生きてきた幼い頃から憧れていた芸人になったウケない、売れない敗北を叩きつけられても僕は闘い続けたそれは僕の夢だから僕は芸人という夢を一生追いかけると思っていたそこに突然現れた運命の人知ってしまった、見つけてしまった夢より大切なものを君は五十嵐聡が私の人生そのものと言った僕は必死で言葉を探したが君以上の言葉は何処にもなかったただ、僕は君に僕の人生を捧げると決めた君のいない人生はもはや僕の人生じゃない僕の最期を看取るのは君で君の最期を看取るのは僕だ
病室に入っておはようと声かけると、お母さんが目を開けていた!え?目開いてる!お母さん??お母さん!!ダンナさんが、おかーちゃん!わかる?わかったら目パチパチして!って言うとパチパチと2回瞬きした。聞こえてる!わかってるわ!お母さん!お母さん!わかったら目パチパチして!って私も声掛けたらパチパチと2回瞬きした。娘もあーちゃん!私わかる?パチパチしてって言うとパチパチと2回瞬きした。呼吸は相変わらずゴーゴーいびきみたいな呼吸してるけど間違いなく私たちの言葉を理解し、応答してくれた。
たくさんあまねへそしてわたしたちの分までコメントやメッセージをありがとうございます。すべてコメントを返したい!と思っています。どのコメントもメッセージも開く度泣けてきて暖かくて…嬉しいです。本当にありがとうございます。つづきを書いていきます。先生に確認をしてもらってから持続で入っていた点滴を外してもらいました。そして去年の12月ぶりに膝に乗せてあまねをだっこしました。12月から脊椎神経への転移で痛みがあったため車椅子への移動、お風呂への移動その時に持ち上げ
いっちゃんの記録年中さんの運動会《借り物競争》でいっちゃんの借り物は【おかあさん】笑そこになぜかゴボももれなく付いてくるw亮ママゴボをありがとう🤣いっちゃんを後部座席に乗せ、病院へ車を走らせた。外は真っ暗。私もいっちゃんも、外の景色を楽しむ余裕なんてあるわけもない。FMラジオから楽しそうな会話が流れてくる三代目JSBのメンバーがケラケラ笑いながら喋ってたが、内容はほとんど記憶にない。でも、かかった曲はハッキリ覚えてる。メロディアスなノリのいい曲だったか
そうちゃんがとってもご機嫌だったこの日、夜勤の担当の看護師さんは、そうちゃんが転院する時には涙を流してくれたほどにいつもそうちゃんのことを可愛がってくれていた、とても優しくて好きな看護師さんでした。調子の良さそうなそうちゃんにも安心していた私たちは、この日は何の心配もなく「また明日ね~」とそうちゃんに挨拶をして足取り軽く笑顔で帰ることができました。家に帰ってからも、両親とこの日のご機嫌なそうちゃんの映像を見返し、この日は家族みんなが笑顔で眠りにつくことができました。ところが翌朝、病院へ行く
平成30年11月30日(金)病室のベッドで静かに息を引き取りました。ネネちゃん、満3歳6ヶ月でした。亡くなる4、5日前くらいから呼吸が苦しくなってきてて、唯一取れていた水分も少し飲んでは吐くを繰り返すようになりました。家で看るのは限界だね。木曜からオプジーボ投与で入院予定だったので夜中に救急で行ってそのまま入院にしてもらいました。酸素マスクをしてると少しは楽になったようでした。木曜にオプジーボ投与をして痛み止の点滴をして痛みはほとんどなかったけれど、身体全体で呼吸してました。
前回更新したのは1月16日。それから、約半月後の2月3日、父は希望通り、自宅より旅立ちました。それから半年が経ち、新盆も終わりました。父との思い出が多い家で暮らしていると、ふとしたときに思い出して涙が出るけれど、最期まで父らしくあった立派な旅立ちでした。このブログを読んでくださっている方には、まさに今、胆管癌に立ち向かおうとしている方もそのご家族もいらっしゃると思います。亡くなるまでの経過も書いていくので、メンタルが弱っていたり、今既につらければこれ以上は読まなくてもいい
お久しぶりです(*ˊᵕˋ*)੭ੈKooのブログ転載から1ヶ月・・・我が家ではバタバタといろんなことがありましたまず、宣言通りゴボのスーツを買いに行きました通勤スーツ➕礼服も揃えまして・・・いやはや、給料1ヶ月分が飛んでゆきました仕方ねぇ・・・そうや、これはお祝いやからなめでてぇやないかいな、いっちゃんお昼寝ちう。偶然の同じポーズその後ゴボはいくつかの卒業旅行に忙しくバイトで貯めた小遣いをじゃんじゃん放出しておりました「なぁ、お母さん。やっぱ3
22日、妻が救急処置室へ連れて行かれて数時間後、医師から感染症になったことを聞かされた訳ですが僕はこの先家に帰れる可能性があるのか尋ねました。答えは「難しいと思います。」それを聞いて絶望しました。地獄の底に突き落とされたような衝撃。もう妻に会えないかも知れないと思い待合室で涙が溢れてきました。7月初めに入院して数日後、担当医師から病状の説明がありました。その時言われたのが心臓が健常者の4割ぐらいしか働いていない。不測の事態が起こる可能性があり、それは一年以内か、2年後かは分からない、妻
いつもいつも暖かいコメントありがとうございます。通知が来て読む度に涙が出たりあまねこんなことしてそう!!と微笑んだり感情が忙しいです。笑あまねがいなくなって7日目。日に日に寂しさが強くなっています。ぼーっとしていると涙が溢れてきます。市役所の手続きや保険の手続き。やらなきゃいけないことを終わらせてしまって手が空く時間が増え何も無い時間が寂しくて辛いです。GW明けに仕事に復帰予定なのですが家に一人で居るより精神的に絶対良いなと始まる前から思っています。前回の続きです。
おはようございます。人間より動物好きの獣医シワ神シワ男です。先日、来院した15歳の猫ちゃん慢性腎臓病だった。キャットフードを食べなくなって他の病院に行って治療してるけどよくならいって来院された。脱水がひどくて粘膜が真っ白で目も陥没していて、はきがなくてよだれも出て、気持ち悪そうな状態だった。血液検査、レントゲン検査、超音波検査、尿検査をしてみたら腎臓の値のBUN、Cre、Pの値が当院の機械では振り切れて測れない値で、
6/22(月)朝の検温や血圧はいつも通りでした吸入、吸引、薬を通して栄養ポンプ袋を交換しました時間をおいてから浣腸して清拭をして清拭中にspo2が96でいつもより低いなと思ってつけ直したり吸引したりしても96体交したり吸引したりして様子を見てましたが変わらずお昼の薬を入れる前にいつもよりお腹が膨れてるのも気になったので在宅医に電話して相談を再度浣腸13:00いつもより唇が白いため、血圧測定73/37,心拍数117在宅医に再度電話酸素を1リットルスタート14:30
お母さんお母さーん何度呼んでも目を開けてくれなかった。ごーごーといびきをかいて寝てる。もともといびきがすごく大きくて、入院中も同じ病室の人からクレームあったくらい(笑)なので、ホントに普通に家で寝てる時と変わらないので不思議な感じだった。いつもと同じように寝てる。ただ呼んでも起きないだけ。そのうちパッと起きそうなそんな感じだった。ダンナさんと末っ子と娘がきてくれて、末っ子と娘がずっと手を握ってた。時々声掛けながらお母さんの話をしながら、涙流しながら4人でお母さんとの時間を過ごした
11月3日付ブログ「私の病状、そして今の思い」に少し追加して私の病状と思いを書かせていただきます。病気の話ですから面白くないっすけど・・・自分のがんが進行して具体的にどんな最期になるのか・・・そんなこと、闘病の始めには考えたりしませんでした。でも、最近は良く考えます。この先、腫瘍はどうなるかそれに伴ってどんな症状がでてくるかどんな痛みや苦しみがどんなふうに経過して、いつころ最期に至るのか・・・そんなことを考えても仕方ないそんなこと縁起でもない!と言ってしまえばそれま
お昼の時間になって、レストランへ混んでいて、席をとるのが大変でしたジンギスカン食べ放題は、空いていたけど、こぶたレース見たかったし、そんなにお腹空いていなかったから、普通のレストランで食べましたそして、こぶたレース抽選で当たれば(子ども)、こぶたを追いかけられるんだけど、ハズレたけど、追いかけたくなかったらしく、ホッとしてた菜の花畑を散歩して濃厚なソフトクリーム食べて最後、またフォトスポットで撮影して帰路につきましたサクラちゃんのお迎えもあったからね楽しか
涙あり爆笑あり膵臓がん闘病110日最期の最期まで闘い抜いたパパのブログです愛するパパとの最期のツーショット写真4月4日午前1時37分この時すでにパパの意識はない私はパパの隣でずっと声をかけていた目の前には3人の子供達が見守っている娘が最期のツーショット写真を撮ってくれた呼吸の回数が速くなったり遅くなったり大きく激しい呼吸と小さく小刻みな呼吸を何度も繰り返す呼吸の間隔が少しずつ少しずつ長くなる子供達みんなでパパの手を握り続けるパパ…パパ…聞こえるか…パパ…
2018年10月28日16時15分。キロロが永眠しました。その日の朝、いつもの投薬と皮下輸液を、行うのをやめました。午前中、寝室からリビングに、よろよろとふらつきながら、それでも自力で移動してきたキロロ。ホットカーペットの上でぐったりと体を投げ出し、時折、私と連れ合いを呼ぶように、鳴きました。そのたびに、応えました。「大丈夫だよ、そばにいるよ」ふわふわの猫ベッドや膝の上に抱え上げるも、キロロはしばらくすると嫌々をして、これまた自力で降りてしまいました。
今日は、とても風が強い家の最寄り駅の隣に大きなソメイヨシノがありホームに立ってたら桜吹雪🌸この頃、何を見ても主人の最期の時に繋げてしまうまだ、主人、存命です。でも、昨年11月に再発と知り術後からは、歩けなくなり自分で何も出来なくなり話せなくもなりもう、脳は半分なくもう、寝たきりの骨と皮しかない身体になり緩和ケアに入りました意識レベルも、どんなものか昏睡ではなく、昏迷状態と聞きましたがこちらの声はわかってるのかも、手を触ってもわかっているのかも、何も返事はなく
前に娘が「お父さんは最期のとき、頭に何を思ったんだろうね…」って、そう言って来たことがあった。この部分、それは私にとって、そこに気持ちが行き留まってしまうと、今でも気の狂いそうな部分と思ってます。これはもう、人から何を言われても決して変わらない、変えられない自分の苦しい部分。わからないから…わからないが故の苦しみも大きいと思っています。主人の最期がどんなだったのか、どんな状況で逝かなければならなかったのか、その前後のことを考えるだけであの頃の絶望に満ちた自分に戻ります。どんな亡くな
そうちゃんの最期は、とても悲しいのにとても温かくて、涙が出るのに笑顔にもなれて、とても不思議な穏やかな時間でした。寂しくてたまらないはずなのに、思い出すのは嬉しかった思い出ばかりで、心の中はただただありがとうでいっぱいでした。そうちゃんと過ごした8ヶ月と30日は、苦しいことや不安なことも沢山ありましたが、それを忘れてしまいそうになるくらいに沢山の幸せな時間を過ごしてきました。そして、毎日そうちゃんと充分すぎるくらいに向き合うことができたのは、そんな環境を整えてくださった病院の皆さんや家族が
こんにちは。人間より動物好きの獣医シワ神シワ男です。LINE@のご質問が続きますが、これはよくあることなので、お答えしますね。「獣医さんに怒られる」これ、飼主さんとしてはあるあるだよね。当院に転院されてくる方もよく言われる「先生に怒られるんです」ってやつ。他の先生と自分は全く考えが違うからどっちがいいとか悪いとかじゃなくって変な考え方をする獣医もいるぐらいに思って。エビデンスも無視してるし、治療も無視した考え
11月3日、21:22ぞろりと主人と腕の中で、トマくんはながい眠りにつきました。主人を呼んでから最期には間に合わないかもと思われたけどお兄ちゃんもおばあちゃんもみんなが来るまで最期まで必死に生きてくれましたブログで知り合った天使ママ達のおかげで沐浴をしたり手形、足型をとったり家族で写真を撮ったりお乳をあげたり最期にたくさんの事をしてあげられました。今まで、たくさんたくさん頑張ってきたもんね!チューブも外してもらって本当に綺麗なお顔でぞろりの横に眠っています。
父は、老健に入所して半年で肺炎で入院その半年後に息を引き取った。結局、在宅でない時期は一年ほどでこれは、父がそのように決めたことに思えてならない。
こんにちはまあこです。夫がステージ4bの胃がん余命3ヶ月と言われてからの闘病記を綴っています。昨日夜ブログをあげてしばらく写真探してました。正直いって写真うつりが悪いんですそれでも夫らしい笑顔の写真を見つけました。家族写真を見ていたらやっぱり色々思い出しちゃいますね結局写真探しに区切りがついても全然眠れず朝を迎えました。(4人でリビングで雑魚寝)あー、昨日ちゃんと起きていられたらちゃんと最期を見届けら
12月、寝てる間に乾燥しないよう加湿の機械いれてもらう。機械につながれて寝るようになる気管孔の周りに肉がついてこない。広がっていく穴。気管孔の中は気道の隣の壁が見えるようになってきた。後にわかるがこれが「壊死」だ。痛み止めのフェントステープ2mgから4mgへ。強い抗生剤を入れる事になった。2週間。肩にルート造り心臓近くまでカテーテルを持っていき強い点滴をする。この頃、家族・恋人には「覚悟してください」と、伝えられていた。私がそれを知ったのは・・・この時か
「手遅れ」なんてあるのかな?病気がね見つかった時にはもう遅くて…なんていう言葉が出るけど本当に「遅い」かしら。どんなシチュエーションなら「遅く」ないの?自身の最期まで誰かの納得が必要ですか?世間一般に言われる様なことがわたしやあなたに当てはまるとは限らないしそこに?を持つことも大切だと感じます。今ここで起きるのは全てナイスタイミング✨✨✨✨✨「私」を信じていこ👌だって全部ここにあるんだから❤️明日の夜はメディテーション⬇=========chihoyogainfo
一通りの手配が終わって、少しだけ気持ちも落ち着き始めましたので、最後の状況を少しお話させていただきます。5/4までは、いつもどおり夫とlineや電話ができてました。と言っても、こちらから連絡しても返事が来るのは日々遅くなってきてました。返信を待つ時間が今日は一時間、翌日は二時間、、と増えていき、5/4は5時間以上経ってからの返信。でも、連絡さえ取れればいつもどおりの夫でした。呼吸はつらそうだったけど、酸素が繋がれてからは苦しくないと言ってました。ただ、2日からはご飯が食べられなくなっ
ご注意ください。余命宣告を受け入れ、死を覚悟している、がん患者の真面目で、大切なこと、正直な気持ちですが、読んで不快に思う方もいらっしゃると思います。がんで余命宣告を受け入れた、私、末期がん患者の気持ちを知りたい方のみ、読み進めてくださいませ。私のがんは、直腸がんステージⅣ、肺、肝臓転移、肺に100以上のがんが散らばり、手術は不可能。余命宣告は2023年7月に「3か月は大丈夫、短ければ6か月、1年生きるのは難しい」と言われました。抗が
こんにちはまあこです。夫がステージ4bの胃がん余命3ヶ月と言われてからの闘病記を綴っています。いつもいいねや励ましのコメントありがとうございます^^たくさんの方に応援していただいて励みになっています!ありがとうございます。退院支援のK看護師さんと電話で話したあと面会に行きました。夫の方は声をかけると時々は目を覚まし私が来ているのは分かっているようですがやはり、辻褄の合わないことをつぶやいたりしていました。しばらくする
長男は山の上の小学校に通ってた。最期の場所として選んだのは小学校をさらに上に登った小高い丘。二本並んだ桜の木のひとつにロープをかけて、みずから溢死した。結婚して4駅先に嫁と子供と生活してたのに自分の幼い頃に過ごした場所に戻って最期をむかえた。途中のホームセンターでロープとナイフを購入して駅から小学校のある山の上まで結構な距離を歩いて行った。途中に実家もおばあちゃん家も何軒も友達の家もあるのにすべて素通りして山に向かった。長男はこのとき、何を思って坂道を登り続けた