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「みごろたべごろ笑いごろ」に登場したベンジャミン伊東の愛人で相思相愛。バケツを逆さにかぶったような頭と巨大な2つの乳房を持つマーカー星人。電線音頭コーナーの前に突如出現し、ベンジャミンを誘惑するだけして、どこかに去っていく。石ノ森章太郎がデザインを担当。
通天閣の足元にある王将碑、これは将棋の名人、坂田三吉翁の偉業を称え、昭和44年10月、新世界町会連合会により建立されたものです。坂田三吉は大阪府堺市の生まれ。生業の草履表づくりを手伝いながら、将棋を覚えました。1886年(明治19年)ごろ、新世界からすぐ近く、、通天閣が見える場所(西成区太子町あたり)に住んでいたらしく、日本橋の履き物問屋に丁稚奉公をしていました。町角の縁台将棋によく顔を出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せていました。しかし、将棋に夢中になるあまり背負っていた
はい!本日二回目のブログ更新は‥朝の記事↓父の血統に「近衛十四郎懐かしー!」と言ってくださったkukkukukkupenさんあしながチビ太さんMuttaさんけいちゃんかあさん解説の福本さんリオさんにゃん太さんそして、そんなのぜんっぜん知らないよ!世代にも捧げます!!昭和40年代テレビはまだ白黒厚いブラウン管ガチャガチャチャンネル故障すると叩いたら蘇ってくれた愛すべき創成期のテレビテレビのチャンネル権は当たり前のように父にありそんな中ブラウン管狭
あこがれのクルーズ旅行を申し込んで気分はルンルンだった数日間から一転申し込んだはずの旅行はキャンセルになっているという正男は電話でクルーズ主催会社と話を続けている「はい、ええ、申し込みをして申込書を送ってくれるという話でしたが?そんな話は聞いてないけど?」「じゃあ、もう一度申し込めばよいのですか?」とどうやら、まだその日程には空きがあるようで再申し込みはできる様子幸子はどんな話になっているのか??と正男のやり取りを見守っていたら正男が突然「え?カード番号で
画像は昭和40年代後半頃の絵葉書「沖縄ヒルトンホテル」ウィキペディアの記述によると「沖縄ヒルトンホテル」は米軍統治下に米国人向けとしてヒルトン直営で営業していた。その後、1970年代に「沖縄シェラトン」に改称したあと廃業。建物は約30年間廃墟に近い状態になっていたという。2005年に「コスタビスタ沖縄」として営業を再開、現在も外観上は画像とほぼ同じ姿のまま営業している。2枚目の画像は米国人向けだった当時の姿がよく現れている。下記のホームページに「廃墟」時代の様子が載っている。沖
いったんキャンセルになったクルーズ旅行だがもう一度申し込みをし、とりあえず支払いをすることにした正男夫婦正男は「旅行代金の76万円をカードで支払うには電話で番号を伝えるかネットで手続きなんだって」という幸子は正男よりはカードのネット決済を利用頻度があるもののそんな高額をネット決済した経験はなかったましてや口頭でカード番号を伝えるのは抵抗がある2人は相談して振込用紙を送ってもらうことにした「昭和世代はなにせ紙ベースじゃないと落ち着かないのよ!!」「申込書だって
ガチ湯とは、ここんの私的に印象が強い湯。今回は、温泉マニアの方に、ここは行ってみてほしいところでもあります。昭和40年代、漫画家つげ義春氏が、日本の鄙びた温泉地を訪れ、作品の舞台になっている。残念ながら、まだ未読なんですけど…。時代は半世紀流れ、彼が訪れた地も変化している。それでも、当時の面影が多く残っている温泉の1つが北温泉でしょう。ここんが初めて、北温泉に訪れたのは平成なので、間違っていたら申し訳ないのですが…。豊富な湯量を活かした温泉プール。ここって清掃したことあるん
ボクの母親方の祖父が亡くなったのが昭和45年でした。事故で寝たきりになっていたのですが内科的な疾患もあったようで、あるお医者さんが月に一回程度往診に来てくださっておりました。当時のボクは小学1年生またはそれ以前の保育園児でしたので、細かなことは記憶になかったのですが、往診に来られた先生のことはなんとなく覚えておりました。宮川町の大前タイヤさんの向かいにあった「高見医院」の高見先生です。祖父の死亡の確認および宣告をしていただいたのが高見先生で最後までお世話になりました。このたび高
みなさま、こんばんは。本日もご覧頂きありがとうございます。今日もコンテナのお話をさせていただこうと思います。コンテナ輸送がスタートしたのは、昭和34年11月にその取り扱いを開始した「たから号」ですが、この列車が誕生した当時は、道路の整備等も進んでおらず、陸上輸送の基本は鉄道、そんな時代でした。それでも、荷主の中では、下記のような不満が募っていたのも事実のようで、昭和39年10月に国鉄線の記事では、下記のような記述が見られます。これまでの国鉄の貨物輸送が、輸送需要の増大に対処
クルーズ主催会社との電話が終わった正男によると料金の支払いがなかったからキャンセルになったらしいとのことそれでカード番号を聞かれたらしい。幸子には、正男がクルーズ主催会社の説明を聞き逃したのかクルーズ主催会社の説明不足だったのかもはやわからない。幸子は申し込みを正男に任せきりにしていたことを少し後悔したとにかく、申し込みをしたら支払いをして、それから詳細が届くという段取りらしい。2人で76万円ほどの旅行代金だったが支払は電話口でカード番号を伝える、またはネ
仁義を切る。一度だけ、その場面を見た事があります。客人が我が家を訪ねて来た時の事です。江戸時代ならまだしも、昭和に?と思う方もいらっしゃると思いますが、実際にありました。客人が我が家の玄関を開けると、早速、仁義の儀式が始まりました。「おひかえなすって」と中腰で右手のひらを返して客人が言うと父も「おひかえなすって」と同じく手のひらを返して返事をします。そこから仁義の向上が始まります。「早速のおひかえありがとうござんす。手前、生国と発しまするは〇〇です。〇〇と言っても広うござんす。
ジャンジャン横丁を北側に出たところに、服屋さんがあります。「浪花福服堂じゃんじゃん店」です。大阪最大のスカジャンのお店とも言われてるそうです。和柄や様々なキャラクターコラボのスカジャン。オリジナルご当地Tシャツ・キャラクターTシャツなども豊富に取り扱っています。赤ちゃん用よだれかけ(スタイ)やキャップ、それに、お魚サンダルまで、個性的なおもしろいデザインのグッズです。福服堂じゃんじゃん店は、2012年6月に開業だそうで、新世界100周年を機に開業したお店です。福服堂じゃんじゃん
ピンチの場面では「ムッシュメラメラ❗️」と叫ぶ強いヤツ「ガンロック」❗️我々、昭和40年代に子ども時代を過ごした世代にはハンナ・バーベラプロダクションのアニメ番組でおなじみ。「宇宙忍者ゴームズ」の岩男であり、関敬六の吹き替えで「ムッシュメラメラ❗️」と叫ぶ「ガンロック」として記憶に残っています。現代のマーベル映画を観て育った世代にはファンタスティックフォーの「ザ・シング」として知られており、「宇宙忍者ゴームズ⁉️ガンロック⁉️」な感じでしょう。「宇宙忍者ゴームズ」のタイトルはファンタステ
京都の思い出話の途中ですが、今回は懐かしい物シリーズを久しぶりに。このシリーズ実は今回で9回目です。私が小学生の頃、今のようにパソコンやスマホ、ゲーム機のない時代。昭和40年代に生まれた私は、こんなもので遊んでいました。これは、カミカン鉄砲の玉。鉄砲の画像はないのですが、父と近くの神社のお祭りに行った時、出店で買ってもらった記憶があります。リール状に巻かれた紙テープには、粒粒の火薬が付着しており、おもちゃの鉄砲にこれを装着して、引き金を引くと、撃鉄が火薬の粒を叩く事で破裂音が鳴ると
いつも当ブログをご覧いただきありがとうございます。弊社3代目社長、重徳(しげのり)は若い頃から写真が好きで変わりゆく街の風景などを撮影し、年毎にアルバムに整理しておりました。今回ヒストリー&ストリートと題し、昭和40年頃に撮影した写真21点を店内22ストリートで展示しています。メインの22ストリートでは丸之内商店街の様子当時の国道23号。この頃は中央分離帯がありません。津まつり当日の津市役所です。現在のセンターパレスの場所です。松菱百貨店屋上に遊園地が見えます。左
昨今の飲料水はペットボトルが主流になった感があるが昭和40年代は瓶が主流であり、缶が主流になるのは50年代になってからだ先日記事にした仮面ライダースナックが発売になったのは1971年(昭和46年)の12月の事だが当時コカ・コーラがいくらだったか覚えてますか?調べてみるとレギュラーサイズ(190ml)が35円ホームサイズ(500ml)が50円、ファンタやスプライトが30円だったようだその後1973年(昭和48年)にレギュラーサイズは40円に値上げされたあの時代、空
カラーテレビが普及し始めた昭和40年代はテレビアニメや特撮ヒーローの草創期から成長期という事で数え切れないくらいの作品が矢継に放送された毎日夕方の再放送を含め夜のゴールデンタイム、日曜の朝にも放送があり当時の子供はテレビアニメや特撮ヒーローに夢中だったアニメにおいてはサザエさんやカルピスマンガ劇場作品のように男女を問わない作品男の子向け、女の子向けという作品も数多かったが僕を含め当時は男の子だって女の子向けの作品も観たし、女の子だって男の子向けの作品も観ていた個人的に思うの
こちらは私達がよく行く酒屋さん昭和40年代ぐらいに戻ったような感じがします。日本でも昔はビールは瓶ばかりでケース買いして持って行くか取りに来てもらって1ケース分の金額を引いた金額を払ってました。ドイツでも缶ビールはありますが少ないです、瓶ばかり。ジュースや水はペットボトルも多いけど、瓶も多いです。あっ因みに私達はビールは、ほぼ飲まないのでこちらにはミネラルウォーターを買いに来てますか
昭和40年代の話です。NHK総合テレビで放送されていた『受信相談』という番組がありました。テレビがやっと全国に普及した頃に「テレビが映らない」「ラジオがちゃんと聞こえない」といった問題を解決していた番組です。毎日、放送していたのとメロディーのテンポがよかったので、テーマソングは今でも口ずさみます。歌詞は、以下の通りです。4時5分、4時5分楽しくテレビを見るために楽しくラジオを聞くために覚えておけば便利ですテレビもラジオもいつでもOK受信相談4時5分YouTubeにメ
せたな町の須築(すっき)漁港。道央や道南の釣り人には知られた漁港かもしれません。西防波堤の付け根から船道を撮影。こちらは北防波堤と船着き場です。西防波堤をドローンを使い撮影。赤い灯台のある先端が一番釣れるようです。島牧側には茂津多岬。西蝦夷三険崎の一つです。せたな町側。こちらも険しい断崖です。昭和40年代の初め頃までは陸の孤島でした。今回は風が強いのでドローンを高く揚げませんでした。