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抵抗しない肩ひじはならい緊張しない真面目にしない勉強しない学ぼうとしないわかろうとしないヒーリングしないチャネリングしない癒そうとしない直そう(治そう)としない感情をコントロールしない外界に惑わされない体があると思わない名前があると思わない生きようとしない死のうとしない自然の摂理に抵抗しないわたしたちは大きな何かに生かされている委ねる委ねるサレンダ
3月5日(火)ミナミの中心地に引越したわけで夜は騒がしいと思いきや意外なことに、思いのほか静か。大通りから1本外れてるのもあって車の音も全くしなくて、寂しいほど静か。以前のマンションのあのやかましさから逃れることができたのは、この上ない幸せ。おかげで、ぐっすりよく寝れた(笑)引越しの翌日に雨降り。結構降ってる・・・。気が滅入るけど、今日の休みで部屋を完璧に片付けたいし転入届けやマイナカードや免許証等の住所変更も済ませたいし前のマンションの明け渡しの立ち合いなどやら
悟りを開くために、昔から修行というものが行われてきました。しかし、悟りを開くのに、猛烈な修行は必要ありません。悟りを開くということは、覚醒するということです。つまり、目覚めるということです。覚醒する前は、私達は夢にどっぷりと浸かっていて、この世界が夢(幻想)だとはつゆも思いません。しかし、ごく一部の人が、深い苦しみや悲しみに出会ってしまうことによって、突然悟りへの道(真我探求の道)へ入ります。以前も書きましたが、私(この肉体)の場合、ラマナ・マハルシに出会うことから悟りの道へ入ることが
思考のすべてが、真我から自動的に発生します。これは、徹底的にすべての思考がなのです。私達(自我)は、心の中の言葉のすべてを、絶対にコントロールできません。まるで私が自ら考えてるかのように、真我によって思い込まされています。真我は偉大な力ですべてを顕現し、そしてまた、顕現した世界や思考を観照しています。この偉大な力に気付いた(真我によって気付かされた)イエスは、これを神(父)と呼びました。また、ラマナ・マハルシはシヴァ(或いはアルナーチャラ)と呼びました。ニサルガダッタ・マハラジは、
覚醒する(悟りを開く)ための方法として、最も近道なのは真我探求です。真我探求の具体的な方法は、内観です。しかし、内観が難しい人もいますし、状況が悪く内観に徹することができない人もいます。そのような人には、真我探求よりも明け渡しが近道と言えます。明け渡しとは、世界の自動性に完全に任せてしまうということです。以前から何度も書いてますが、この体の中に思考をコントロールしている司令塔はいませんし、行動をコントロールしている司令塔もいません。私達の行いはすべて、すでに自動的に行われてきました。