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秦、新羅、百済、高句麗は原日本語を喋った同族である(参考)。春秋戦国時代の秦、羌族、斉なども同族である(参考)。漢民族は3000年前に中原に侵入してきた(参考)もので、それまでの東アジアは秦の始皇帝の祖先のものだった。国名の秦の字そのものは漢の時代の史記に秦と書かれたためで、以降、秦と呼ばれたのである。秦人たちは秦を原日本語(訓読み)で「支那」とか「震旦」と読み書きしたのであろう。紀元2世紀前後にインドで中国を指して「チーナ・スターナ"Chinastaana"」と呼んでいたが、これが秦の国名
日本列島の旧石器時代から縄文時代の民、すなわち縄文人は東アジアの大陸にも居住したが、この民は漢字のルーツである甲骨文字を発明した殷民族であり、古代の日本語を喋っていた。この殷民族の末裔の行方については分かっていなかった。実は、春秋戦国時代に漢民族の国々と相争った秦と同族の国々の民であった。そして、後漢が滅んだ後、卑弥呼が朝貢した魏と、その後を継いだ西晋が殷民族の末裔の国であった。その後の殷民族の末裔の行く末について、Y-DNAハプログループDの男性とパートナーのほぼ全員が日本列島に渡来(帰化
秦の始皇帝が中国大陸に初めての統一帝国を樹立する前の多くの国々が互いに争いあっていた春秋戦国時代の一時点、春秋時代、紀元前500年での漢民族のルーツ周と同族グループと、秦の同族のグループ、そして、その他の西域の異民族にグループ分けすることが出来た。その他の西域の異民族も羌族が主に広範囲に活動していた。すなわち、漢民族のルーツの周の同族の国々は黄河流域(中原)に存在しているが、これを取り囲むように秦の同族の国々が存在したことを示唆する。そして西域の異民族の羌族も実は秦と同族であったので、中国大陸
月桃の花染めのショールお手製梅干しとショール、植物のエキスで描いた絵をKちゃんにお見舞いにいただきました。ピンクっぽい茶色の柔らかい色合いの月桃の花染め首に巻いたら、感染症予防してくれそうなショールです。梅も塩気が効いてて体にも効きそうな味です。わー書いててよだれがでる。昨日一昨日はプチ断食き昼ごはん一食だけだったので梅と一緒にお供食事を抜くと断然調子が良く動けますが、食欲があって体調悪い時は治りにくい。元気に過ごすには用事がある時は食事を抜くに越したことがない。
昨日は筋肉痛で昼過ぎ3時頃まで私は寝てしまい、娘が映画のゴーストバスターズを見にいきたいと言い出した、うわ〜、全然観たくない。長女がいてくれたら2人で観ていてくれるのに、道中の車中でもどっかで待ってるから1人で観てきてとお願いするが、嫌だ!!!、携帯電話持ってないから迷子になったら困るなどと言って一緒に来てくれと言う。最近電話が欲しいアピールもしつこいのだ。結局2人で映画を見ることに。娘はお年玉で貯めたお金で、ポップコーンとジュースを奢ってくれた。案の定全く面白く
著者は、12000年前頃から始まった日本の縄文時代は内陸の狩猟採集民の縄文人(D2)と漁労民の海人族安曇氏(C1)によると想定しており(参考)、日本列島が大陸から分離しても彼らは海を越えて自由に東アジア全域と交流していた。現在の漢民族(主にO3系統)のルーツの周が中原に侵入する紀元前1000年頃以前の中国大陸(新石器時代、紀元前7500から1500年前)には、秦の同族のルーツ(D系統、縄文人と同族)のほか、河姆渡文化(O2系統、呉・越系の稲作農民)、そして沿岸部の漁労民(C1)が居住していた(
写真は喪黒福造が出てくるようなとんでもなく細い路地裏の奥の奥へと繋がる秘密基地入り口付近にて。ドーン待ち合わせの場所へ行くと、全然入口がわからない。たみさーんと声かけられたのは、山原でしかあったことのない人がたまたまその隣の飲み屋で飲んでいたので、一緒に探してもらった。わかりにくい場所だからと直前に付近の動画を送ってくれていて、確かにあっているのに入口がわからない。衝撃の部屋が待っていた。すでに全員集合していて、とあるクリニックの先生が持っていらした波動測定器で、い
九州に渡来して縄文人と同居し弥生時代を開始し、紀元前400年ころから吉野ヶ里に入植した人々はミャオ族の祖先でした!彼らは日本に稲作をもたらしました!彼らは魚、獣何でも蛋白源にしてお米を食べる。自給自足の稲作弥生人でした。和服の原点、呉服は彼らの衣装でした!彼らは、山陰地方に渡来するヤマト政権につながる斉系弥生人の祖先チャン族(Y-DNA遺伝子D2系)と生存をかけて争った歴史を持つ、Y-DNA遺伝子O2bを持った民と確信している(参考)。また、呉越同舟で知られたライバルの越人(O2a)は現在の
最新報告「参考:①日本人のルーツ3集団小竹貝塚(富山)など6遺跡で人骨ゲノム解析」を見ると、日本人のルーツに三重構造モデルを提案し、従来の二種構造モデルを発展させている。しかしながら、「参考:②ゲノムが明かす日本人のルーツ」で明らかにされたように関西から四国の人が渡来系のゲノムを持ち、周辺の人々は縄文時代からの在来系のゲノムであったことと整合性が悪い。さらに、「参考:③-1と③-2稲作を伝えた渡来系弥生人は東南アジアから揚子江中下流域が起源」の結果が反映されていない。すなわち
(世界史の窓より、参考)古代の中央アジア、タリム盆地より西に大月氏という国があった。この国の人々が、どうも縄文人と同族で原日本語を喋っていたようだ。その理由として、大月氏を月氏の大部分とすると、一部分の小月氏が羌族と同族のようで混住・同化していること、この羌族が当時の秦の人々と同族で、そして秦や後の魏の人々は縄文人と同族の殷人の末裔でもあった。(注:ここでの同族とはY染色体ハプログループDを共有して、言語・気性・価値観・習俗・文化がそんなに違わないことである)また、邪馬台国の女王卑弥呼が
表博耀出版記念講演会in沖縄のご案内です!表さんとのご縁から沖縄に神楽、wsなどの案内人となりました。開催日:令和6年5月18日(土曜)場所:タイムスギャラリー[沖縄県那覇市久茂地2-2-2沖縄タイムスビル2F]時間:(開場)13:00(開演)13:30参加費:(事前申込)3,500円(当日申込)4,000円※事前申込は、本参加申込フォームにて登録し、5月17日までにお振込みをお願いいたします)申し込み
日本語は他によく似た近縁の言語が無く、どの語族にも属していない孤立した言語であると言われている。wikiに日本語の起源について多くの説が紹介されているが、どの説もうまく説明していなく、互いの説を否定・矛盾し合って定説が無い。このような日本語について、旧石器時代以来の古い言語であると考える研究がある!また、日本語は2200年前に大挙してやって来た渡来人から始まっており、以前の言語は置き換えられたと考える研究もある。以上の2説は互いに矛盾している。しかし、共に正しい科学的な研究である。すなわち、互
日本の縄文人と渡来人の違いは方言のアクセントの違いにしか過ぎなかった!(Wikiより)参考縄文人の痕跡を現代人に探るゲノム科学で迫る先史時代日経サイエンス(2023年12月24日、参考)かつて日本列島の縄文文化を支えた縄文人の遺伝子は今どこにあるのか。現在の日本人集団は、縄文人の子孫と大陸からの渡来人の混血で生まれた。東京大学の渡部裕介特任助教と大橋順教授らは、日本の現代人ゲノムから縄文人に由来するとみられる変異を特定した。ゲノム上に散らばる"縄文人由来変異"の保有率を手がかりに、
ヤフー知恵袋に『遣唐使などがありましたが、唐(トウ)という字を「から」と読みますよね。どういう経緯で、こういう読みになったのか疑問です。』と言う質問があった。例えば、・唐芋(からいも、薩摩芋(さつまいも)、またはトウイモとも呼ばれ、熱帯アメリカの原産で日本には17世紀に伝わった)・唐揚げ(からあげ、江戸時代初期に中国から伝わった普茶料理にあった)・唐衣(からごろも・からぎぬ、万葉集にも出てくる唐の衣装や平安時代の十二単の上衣)・唐傘(からかさ、洋傘に対する和傘の総称。唐より舶来したもの
渡来系氏族、秦氏は朝鮮半島の任那から渡来してきたことは、史実として認められているところであるが、ルーツは中国、朝鮮の何処かであろと通説では考えられていた。しかし、男性のY染色体のD2系統に着目すると日本人は元々、アジアを飛び越えて地中海、中東の人々に近い。縄文時代以前からユーラシア大陸の北のモンゴル経由、南回りで日本に渡来し、またはD系統以外の民族に駆逐され、中国大陸や朝鮮半島の他の民族と混血・定住することはほとんど無かった。弥生時代、O2b系統のY染色体を持った渡来系弥生人が西日本を中心に定
中国大陸本土の漢民族の中で最も由緒あると言われている人々に客家人がいる。彼らのルーツは中原にあり、彼らの喋る客家語は漢字の漢音に近い発音であり、漢民族の先祖に当たると見られている。すなわち、中国の歴史区分で春秋戦国時代の戦乱で勝利して漢帝国を樹立したのが当時の漢民族である客家人であった。そして、この争いに敗れて日本列島に渡来したのが秦氏(秦人の末裔、縄文人と同族)であったことになる。春秋戦国時代の戦乱は寒冷化などの気候変動により減る食料を求めての殺し合いであった(参考)。最近の朝鮮半島やバル