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京都方々手分の事11後鳥羽院は、「押松が話した事は、その通りであろう。臆(おく)してはならない。たとえまた、味方に志がある者が、鎌倉を出たときに北条義時方だと名乗っていることもあろう。日月は未だ地に落ちてはいない。早く、こちらからも討手を向かわせよ。北陸道には仁科次郎盛遠、宮崎左衛門尉定盛、糟屋右衛門尉有久、あわせて一千余騎(ここでは大勢の意味)を下らせよ。重ねて、東海道、中山道の二つの道に討手を下せよ」と命令した。三浦胤義、大江広親は以下の兵どもに、各々覚悟するよ
*:..。o○○o。..:*梶間和歌プロフィール小説梶間和歌YouTubeチャンネル歌集『生殖の海』のご購入はこちら歌をやり取りするfacebookグループ*:..。o○○o。..:*我こそは新じま守(もり)よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ後鳥羽院後鳥羽院御百首雑97【現代語訳】我こそはこの島の新たなる島守、神であるぞ。沖の――隠岐の海の荒き波風よ、我が意に逆らうことなく心して吹けよ。(訳:梶間和歌)【本歌、参考歌、本
二位殿口説き事並引出物の事08押松丸を探しだされた。笠井谷(かさいがやつ)から連れられてきた。所持していた宣旨が七通あった。足利、武田、小笠原、笠井、三浦、宇都宮、筑後入道、以上七人に宛てられたものだった。この宣旨について人々の文書が多かった。権大夫(北条義時)が駿河守(義時の子・泰時)を連れて二位殿(北条政子)に参上した。大名、小名が多数参上していた。庭にも隙間無く人が溢れていたように見えた。二位殿が妻戸の簾を押し上げさせて、まず、宇都宮を呼んで、その後、千葉介足利殿を呼んだ