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先日、ある女性(仮名ユリさん)の祓いを手がけた時のこと...ユリさんは、神仏大好きっこ視えない世界の色んな事に興味があり、全国各地を旅歩いていますこういう方が、ここ数年爆増しましたね~コロナが早く根絶するといいのになぁ...そんなユリさん...大量の未成仏霊に憑りつかれてる?!しかもその未成仏霊達は、因縁まみれで魔物化し真っ暗で巨大な霊団になっているのですこえー普通に生きていて、これほどの霊団に憑りつかれることはまずありませ
丹沢山塊には第二次世界大戦中に墜落した戦闘機、輸送機、米軍機の残骸が未だに残されている。今回はその一つ、丹沢に眠る戦闘機疾風の慰霊碑に向かった。過去数回、訪れているので今回で4回目か5回目になるだろうか。私の過去記事にも探せば出てくる記事であるが過去記事では零戦と明記しているが当時は知識もなく、ネット上に出回っていたのが丹沢零戦というので零戦と信じていたのだが、ここ数年で専門家の意見で疾風というのが濃厚となった。昨今、おかしな骨董ブームに乗り疾風の部品を切り取り盗む不届き者がいる
1981年(昭和56年)10月16日夕張市清水沢の「北炭夕張新炭鉱」で大規模なガス突出事故が発生しました。。当時の建物は解体され殆ど残っていませんが通洞口は現在も残っています。鬱蒼としていますね。近づいてみると頑丈そうな鉄格子で閉鎖されていました。通洞口の中を撮影。ここから約3000メートル先にある坑道で事故が発生しました。わずかに鉄の扉が開いていますね。坑内に続く通洞口内はヒンヤリとしていました。亡くなった方のほとんどが、突出したメタンガス大量に吸い込んだことによる酸欠死で
25歳の時に発症して、現在の病院で診断されている病名は双極性感情障害である。病院が変われば、統合失調症と診断された事もあった。そんな自分なので、幻聴や幻覚による妄想によって、ブログに支離滅裂な事を書いている🖋️今でも、自分の体験から、①自分が原爆死没者の慰霊碑に貼り紙をしたから、マイアミのビルが倒壊し98名の死者が出た。②自分が原爆死没者の慰霊碑に紙飛行機を投げ入れたから、韓国の梨泰院の群衆事故が起き、158名の死者が出た。この2つの妄想が頭から離れない。自分の中では①と②は事実で
洞爺丸沈没事故の慰霊碑に行って、手を合わせてきた。眼下に函館山を望む海岸沿いに、ひっそりと佇んでいた。右側には、松の木。さながら、鎮守の森のような清浄感。慰霊碑。台風による嵐で、乗客乗員1155名の命が奪われた。いまだに謎が多く、生還者には、厳重な口止めが行われていたとの証言も。本日、快晴。澄み切った青空が、なんだか物悲しい。背後では、今日も津軽海峡フェリーの運行。安全運転。すぐ向かいは、七重浜海津見神社。忘れてはいけない。毎日を大切に生きていく。
山の里加子母。今朝は晴れ。スマホ予報では今日一日『曇り」とのこと。最高気温は真夏日を予報しています。今日から6月。梅雨の季節に突入です。岐阜県白川町内の飛騨川沿いを走る国道41号線は、土砂崩れなどの危険地帯を抜けて飛騨高山~富山に至る主要幹線です。国はこの土砂崩れや落石などが多い国道の危険地帯を避けるため、この付近を迂回するための
1945年1月9日、敵はリンガエン湾に上陸を開始。リンガエン湾で揚陸作業中のLST-469約6個師団175000人がこの日に上陸を果たしました。16日夜、第23師団及び独混第58旅団の一部と戦車第2師団の重見支隊が夜襲をかけますが、圧倒的兵力の元次第に消耗していき27日には奮闘していた重見支隊がサンマヌエルで全滅。ルパオやサンホセなどで戦車第2師団主力が敵の侵攻を押し留めてる間に北部の日本軍は山地へと物資を輸送
前記事で載せた10年前の佐世保、長崎まで旅した時の様子をアップしてく(^-^)👌2009年2月27日、しまなみ海道→尾道→広島経由→防府市まで長距離移動(^_^;)三津浜〜柳井へ抜けたら近いし早いやろけど、色々計算したら遠回りでしんどいけど、しまなみから行く方が安かったのよ(^_^;)結果的に疲労を考えたら柳井へ抜けた方が良かったけど後の祭り(^o^;)この旅の最初の目的地は防府市の江泊山に建立されてる慰霊碑👍大戦末期の昭和20年4月初旬、戦艦大和を旗艦とする帝国海軍最後の艦隊は防府市
愛知県三ヶ根山の山頂にある『殉国七士廟』に行ってきました。西田先生の「天運の法則」で、行った方がいいと言われていた場所でした。A級戦犯7人の方の遺骨が眠る場所です。しかしながら、A級戦犯という名は、あくまで連合国軍側が付けたもので、恥ずかしながら僕自身も、戦争を仕掛けた日本が悪いのかなぁと幼い頃に何となく思っていたのを覚えています。戦後75年経ち、諸先輩方に教わり、今や色々な史実も判るようになってきました。そういう意味で、日本の一番の敵は、日本人の自虐史観だと感じます。
日暮らし日記2024年3月22日(金)高野山(10)奥之院中の橋駐車場に駐車(無料)土木建築殉職者之墓親鸞聖人の墓東日本大震災物故者慰霊碑阪神淡路大震災物故者慰霊碑英霊殿落書塚花菱アチャコ句碑これより樹齢数百年の杉の大樹へ※一の橋からの合流地点つづく
地元の戦争で亡くなった方の慰霊碑階段を数十段上がると別世界でした。とても神聖なところにいる感じました。嫁に来て29年になります。はじめて、慰霊碑に手を合わせて感謝しました。私たちが今ここに自由に生きていられるのも日本🇯🇵ために、アメリカと戦った戦士のお陰です。今回地元の〇〇市の戦争体験談をホームページで見ることができ、読んだ瞬間から、涙が止まらなくなりました。戦争の悲惨さを目の当たりにした方の文章は、辛いです。もしまた、日本が戦争などおかしなことをやってしまったら
皆さま、こんにちはアンザックデーの4月25日は平和のために戦った兵士たちの慰霊・追悼式典が各地で行われます式典が行われる公園やシティーホールにある慰霊碑に彫られている「lestweforget」というフレーズ「lest」には「~しないように」という意味があり、「lestweforget」は「私たちは忘れない」というニュアンスで使われていますアンザックデー当日は各地で追悼イベントが行われるので、機会があれば参加してみてくださいねそれでは今日も良い1
ブロ友のなるちゃんの依頼で、土地の浄化を、させていただきました今回の依頼は、刑場跡の浄化あらかじめ、なるちゃんが浄化をしていた場所だったので総仕上げのつもりで向かいました⬆️泣坂刑場跡に向かうには、まず『泣坂』を上ります罪人が処刑場まで泣きながら歩いたと言われています坂の入り口には、稲荷神社がありましたなるちゃんの守護神獣である金狐のランレさまが派遣した九尾の白狐さまに、ご挨拶をさせていただきました(^_^)⬆️泣坂を上りきってから、さらにこの坂を上ります上りきった
長崎駅裏側にあるJR長崎運転所の建物の傍らに長崎機関区の原爆殉難者之碑があります。所在地:長崎市尾上町1建立年月日:昭和56年3月2日管理者:JR長崎機関区右側面の碑文昭和二十年八月九日午前十一時二分原爆投下による殉職者名林田汐太吉田登姉川達律中村久夫吉田浅市外山節雄北原勇甲斐敬雄安木五三郎吉田力一瀬正春平田安則小野末雄田栗富士市中山優野田芳雄樋渡義実吉村美衛片岡善二説明板この碑は浦上の上
神奈川県横浜市青葉区の心霊スポット・こどもの国防空壕こどもの国の近くにあることからこどもの国防空壕と呼ばれている。防空壕というだけあって、戦時中に事故や空襲で亡くなった方が多くいることから心霊スポットとして扱われている。防空壕の脇には横浜第二中学校の生徒6名を弔う慰霊碑が建っている。また、こどもの国防空壕は車通りの激しい大型道路に面している為、くれぐれも轢かれないように注意してもらいたい。