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徳川信康は、静岡県浜松市天竜区の二俣城に居た。天竜区には、信康に関連した物が多い。家康→「浜名湖のうなぎ」が頭についている。袴は「ピアノの鍵盤」。信康→「天竜の名産、しいたけ」が頭についている。袴は「天竜杉の木目」。二俣城は、この橋を見下ろす(写真右の)山の上にありました。では、また。
徳川家と二俣城関連年表徳川信康は秋葉八尺坊権現となった武田氏との内通を疑われ、織田信長の意向により二俣城で自刃した徳川家康長男の信康は城の峰続きにある小松原長安院に埋葬される。家康は湧水が小さな滝となって流れ落ちるこの寺を清瀧寺と名付けたが、徳川家康長男墓所のある寺にしては家康存命時代の処遇が今一つであったため、信康切腹の原因は父子の不仲が原因であったとする説の根拠にもなっている。然し、地元天竜区には信康が実は生き延びて逃がされ、秋葉山奥之院で修験僧になり、死後は八尺坊権現
気持ちの整理がつかない。なんで同時に愛する家族を2人も。弱虫泣き虫鼻水垂れの殿の表情が嗚咽が叫び声が抜け殻の殿が苦しくて苦しくてせめて信康でもと思う、信康の最後。平岩七之助は、「信康の不行状は傅役である自分の責任なので、自分の首をはねて織田に届けて下さい」と申し出て、殿に断られて泣き崩れたような人なんです……なんで二俣城にいるの、可哀想でしょ可哀想でしょ#どうする家康#如何なさいますか家康公—りおん(@Rionn_unosarara)2023年7月2日しかも七の刀で…息子と
徳川家康には、十一人の男子がいました。長男信康1559/4/12〜1579/10/8享年21才織田信長の娘と結婚するも、信長の命令で切腹。次男秀康1574/3/1〜1607/6/2享年34才豊臣秀吉の人質、養子となる。関ケ原の戦いでは、会津の上杉景勝、水戸の佐竹義宣の南下を防いだ。初代福井藩67万石の藩主。長男の忠直は素行に問題があり、次男の忠昌に交代させられた。三男直政は出雲国松江藩主、五男直基は結城松平家、六男直良は播磨明石藩主になるなど、将軍家の兄の