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今回は結論から書きます。Q・ピンク・レディーはなぜ解散したか?A・最も大きな理由は、メンバーの一人が当時の交際相手との結婚を望み、解散を申し出たことによる。加えて、背景には当該メンバーと所属事務所の関係の悪化があった。紅白歌合戦出場辞退、アメリカ進出など話題作りを優先する事務所の強引な手法や、交際を巡って「仕事を取るか結婚を取るか」と迫る上層部のハラスメント行為などによって、事務所に対するメンバーの不信感は極限にまで募っていた。ただし、上の事情は2000年代にメンバーが著書で明らかにするまで
日本中を席巻した二人の女性「ピンクレディ」のデビューは、歌謡界、芸能界で衝撃を与えるものでした。デビュー曲の「ペッパー警部」は60万枚売れたそうです。その後数々のヒット曲を生み、それらの曲に合わせた振り付けは、こぞって真似たものでした。さすらいも、仲間たちとスキーに行った時に、スキー場に有ったディスコで、カミサンと二人で「UFO」を踊ったほどでした。そんなピンクレディーも、1981年に解散宣言をして、後楽園球場(現東京ドーム)で解散コンサートを行い、その時のラスト曲が、舟木さんの「
先週の事ですが会社で神田に広島お好み焼きを食べに行きました。思いっきり昭和テイストだし、物心ついて後楽園球場に野球を見に連れて行って貰った頃のメンバーですね。コースメニューですがけっこう美味しかったです。特にがんす。これこそ広島のB級グルメの最たるものだと思っていますので、また食べられて嬉しく思いました。
イースタンリーグのアトムズ戦でついに復活した飛雄馬と大リーグボール1号これを見た川上監督は飛雄馬の一軍登録を即決その頃オズマと一徹コーチも一軍昇格を果たしたが中日戦は、あえて飛雄馬は先発させずバックネット裏からの偵察を指示一方一徹コーチとオズマは、飛雄馬の大リーグボールはすでに死んだと予告したいよいよオズマのデビュー戦となる後楽園の巨人中日戦が始まった巨人の先発は試合前の予想通り城之内邦雄まあこの頃は予告先発などなかったからねバシッ「ストラーーー
プロ野球史上、前代未聞の大騒動を巻き起こした末に、念願の巨人入団を果たした江川であるが、この江川騒動の渦中に巻き込まれ、とばっちりを受けた人物が居る。それが、一旦阪神へ入団した江川との交換トレードで、巨人から阪神へとトレードされた小林繁投手である。<小林繁という男>小林繁は、1952年11月14日、鳥取県に生まれた。小林は、学年でいえば江川よりも三つ年上、という事になる。中学校で本格的に野球に目覚めた小林は、由良育英高校-大丸を経て、1971年秋のドラフト会議で巨人にド
飛雄馬と大リーグボール1号は復活しただが飛雄馬には一抹の不安があった中日コーチに就任した父一徹とオズマの存在だそんな時、飛雄馬と伴は中日戦をバックネット裏から偵察せよと川上監督から指示されるそして始まった巨人中日戦試合前、一徹コーチは記者を前にして「大リーグボールはもはや死んだも同然」と公言するそして初回の中日の攻撃時ベンチから出てきたオズマはついに秘策の見えないスイングを披露するだが飛雄馬はそのスイングが何故打倒大リーグボールなのか全くわからず、それ
打倒消える魔球を宣言した一徹コーチその運命の開幕戦が始まった二死満塁で飛雄馬をマウンドに送った川上監督すかさず中日も伴を代打に送ってきたここで川上監督が指示した秘策とは大リーグボール1号だったしかしこれも一徹コーチは見抜いておりことごとくファールで粘る伴ついにしびれを切らせた川上監督は消える魔球を投げろと指示を変更するがファールと同時に土煙封じもしていた一徹作戦に引っ掛かり、消える魔球は打たれてしまった今回は巨人の星栄光の星編第154話「敗れ
再稿させてもらいます🥰1968年8月12日後楽園球場で日本初の球場コンサート、単独開催したのが、人気絶頂ザ・タイガース🐯日本初、タイガースは単独日本武道館もそうでした❗️途中で、雨も降り、アンプが壊れたとかハプニングあり、間延び感も持ちながら🤣タイガース登場まで、なが~く感じた😞タイガースを観にきたのだから早く出して~😣待ちに待った登場は一人ずつ🥰かっこ良い登場はトッポの白バイに紛れて❣️駕籠のタロー、御輿のピー、一人サリーだけは歩いてましたね🤣でも、ゾウサンと一緒
こんばんは🌙😃❗\(^_^)/今日の東京都心の最低気温は16.9℃で、最高気温は今年いちばんの28.9℃と7月上旬の雲が多いながらも晴れて蒸し暑い日になりました😱☀️(今日は小学校開校の日)小学生の頃の思い出で1番印象に残っている事は?↓小学校6年間は楽しすぎて数えきれませんが…1973年小学6年の夏休みがいちばん楽しかったですね‼️\(^_^)/クラスの友人に読売新聞販売店の子がいて、よく家から「後楽園球場ジャイアンツ戦外野席無料入場券」や「後楽園ジャンボプール無料招待券」を持っ
1972(昭和47)年のシーズンオフ、「東映フライヤーズ」の経営権を買収した「日拓ホーム」は、1973(昭和48)年のシーズン、「日拓ホームフライヤーズ」として活動したが、僅か1年足らずで、球団経営に行き詰まった。その「日拓」に救いの手を差し伸べ、球団経営権を買ったのが、「日本ハム」であった。という事で、今回は「日本ハム」が球界に参入して以降、「日本ハムファイターズ」の歴史を、「日本ハムファイターズ」のマスコットやペットマークなどを中心に、振り返ってみる事としたい。なお、日本ハ
座骨神経痛ふたたび・・・でございます。なんせ、この病気一番悪いことは座り続ける事・・・なのでブログも細切れに書いては放置し、更新できず。気づいたら今日はもう大晦日なんだわすみません今年は、宮崎と言えど例年よりもずいぶんと寒い。それでいて、夜間と昼間の気温差が10度くらいあるので、オババの体調には酷というものかもしれませんwまぁ、こんな状態で大したことは書けないと思いますが、どうか暖かい目で見