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第6回は広島東洋カープの本拠地、MdzdaZoom-Zoomスタジアム広島(広島市民球場)から、外野ライトスタンドのバックスクリーン脇にある、セブンイレブンシート寝ソベリアグランデをご紹介。こちらのエリアには、6人用のマットが敷かれた寝ソベリアグランデが3組分用意されています。現在はコロナ禍の影響で、1マット3人1組で販売されているため、少人数でも利用可能です。こちらが寝ソベリアグランデのマット1枚2名がけが3セットの計6名現在は1人1枚のマットが利用できます。背もたれとマットの間に
初の女子プロ野球選手となった水原勇気は10年二軍捕手の武藤兵吉と共に新魔球ドリームボールの開発に励んでいたが、頼りの武藤はカープにトレードに出されてしまったドリームボールは未完成だが、開幕3戦目のカープ戦に初登板した水原は、まずカープの大下を打ち取りプロでの第一歩が始まった大下を打ち取った後、衣笠も打ち取りツーアウト続くバッターは、あの清原も恐れた当時若武者の高橋慶彦((゚m゚;)うふふ大下と同じく女を武器にする意外と計算高い水原(^▽^;)しかし硬派の高
1975(昭和50)年、広島東洋カープは、球団創立26年目にして、悲願の初優勝を達成し、日本中に、爆発的な「赤ヘルブーム」を巻き起こした。そして、それは広島の栄光の時代の幕開けでもあった。今回は、「マスコットで振り返るプロ野球史」の、広島編の「中編」をお送りするが、広島カープの黄金時代と、その後に長く続いた苦闘の時代を、「カープ坊や」と「スラィリー」という個性的なマスコットは、どのように見守って来たのであろうか?それでは、早速ご覧頂こう。<1970(昭和45)年に、スタ
1977年のドラフトで女子選手水原勇気を1位指名した東京メッツ野球協約の壁も乗り切り、無事メッツに入団女性プロ野球選手第1号になったメッツの寮に入寮した水原の教育係は10年二軍選手の武藤平吉武藤は自らの夢から思いついた魔球ドリームボールを水原で実現しようと奮闘するが、メッツのチーム事情からカープにトレードを通告されてしまった魔球ドリームボールが未完のままメッツを去らなければいけなくなった武藤ドリームボール未完は、水原にとっても心残りだ(T_T)武藤がいよいよ広島