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こんにちは、元気ですか(・・?ここ最近Xで移民問題を取り上げている記事が多いですね。前回までの元寇の考察は、一様我々が習った教育に基づくのとWIKIを参照として考察していきました。その考察が本当に正しいかどうかもう少し深堀してみますか。元に服属していた女真族に対して日本のある程度外交特権のある人物、若しくはグループから元とのよしみを求めたことがはじまりだった。元のクビライの演説を信じればね。とりあえず、何故江南軍范文虎が、兵卒10万人を見捨てて逃亡、そしてその後死罪を逃れ、その
※2023年12月5日書き直し大平高砲台は、大平低砲台ととともに布設水雷の側防を任務として浅茅湾(浅海湾)南部に構築されました。明治37-38年(1904-05)の日露戦争では斯加式十二糎速射加農4門をもって戦闘配備に就きましたが、戦勝後は海岸防御の見直し気運が高まり、明治43年(1910)から始まった要塞整理議論の結果、大正2年(1913)に砲台の廃止が決定されました。◆起工:明治31年(1898)10月20日◆竣工:明治34年(1901)10月5日◆備砲:斯加式十二糎速射加
「何度でも謝れ!何度でも賠償しろ!」と、朝鮮半島の方々が、声高に叫んで来られました。朝鮮半島を植民地化していたのは事実ですから、至極、もっともなことです。それに対して、日本のトップ以下が何度も謝罪を繰り返し、国家予算に匹敵するほどの賠償金を支払ってきました。これも当然なことです。ところで、中国の元王朝の時代に、元の属国となっていた朝鮮の高麗王(忠列王)が、元皇帝(フビライ)の歓心をかうために(要するに、胡麻をすって)、日本への侵攻を建言したために起こったのが、鎌倉時代の
※2023年11月23日に書き直し大平砲台は対馬要塞で最初に起工された砲台です。(竣工は2番目)布設水雷の防御を任務として浅茅湾(浅海湾-あそうわん-)南部に構築され、明治27-28年(1894-95)の日清戦争では他の3砲台(温江、芋崎、大石浦)とともに戦闘配置に就きました。戦後には新たな対馬防御計画に基づき、大平砲台の後方高地に大平高砲台が明治34年(1901)に構築されました。おそらく高砲台建設が決まった時点で大平砲台に“低”の文字を付与して大平低砲台と区分けされたと思われま
1/14日から対馬のSSボートさんへお客様と同行しました先週からの強烈な寒波で心配していましたが当日は予定通り大阪空港から福岡経由で対馬にお昼前に到着しましたこの造船所は高速プレジャーボートを生産する国産メーカーとして注目されていますSSボート特有のロングノーズの高速艇ですヤードは2か所あり、メインヤードでは27メートルの艇の建造中です、ヤードからはみ出して造船中です、凄い今回の目的はお客様がオーダーされている11メーター級フィッシングボートの艤装品の供給です次回に続く
対馬(つしま)という美しい島が日本海に浮かぶこの土地には、自然の美しさとともに恐ろしい伝説が数多く存在します。その中でも特に恐ろしいのが「オソロシドコロ」と呼ばれる場所にまつわる話です。今回は、この呪われた土地についてお話ししましょう。背筋が凍るような恐怖に包まれることでしょう。オソロシドコロとは、対馬の山岳地帯に広がる不気味な森のことを指します。この場所は、昼も夜も不気味な雰囲気に包まれ、多くの人々が立ち入ることを避けています。その理由は、オソロシドコロにまつわる恐ろしい伝説によるものです。
裏八丁郭:長崎県対馬市厳原町豆酘表八丁郭を訪れたなら、裏八丁郭にも行かねばなるまい。多久頭魂神社、赤米神田、雷神社を経て、龍良山の麓、鮎もどし自然公園へ。昼食は、近くの「らん亭」でとる。「ろくべえ」という郷土料理を食べてみた。大雑把に言えば蕎麦と水団の中間のような麺類で、不思議な食感の食べ物である。ろくべえの原料は甘藷の澱粉を取り出して乾燥させた「せん(澱)」と呼ばれるニョッキのような団子。これを臼で粉状にして湯を加えて捏ね、さらに短いトコロテン状にしたものを、地鶏やメジナでとった出汁でか
※2023年11月29日書き直し後編では掩蔽部と両翼の観測所を見て行きます。第1砲座の後方に半地下式の掩蔽部が3つ設けられています。堡塁砲台ではお馴染みのレンガ造りの掩蔽部ですが、明治21年の対馬要塞築城第1期ではほとんど石造りでレンガは使われていませんので、これら掩蔽部と観測所は明治30年代の改築で造られた物だと推測されます。角度を変えて。掩蔽部の間の隙間は右翼観測所に上がる階段です。=================左側の掩蔽部です。3つのうち一番小さいですが
壱岐島5億円プロジェクト小口融資ご参加ありがとうございました😊皆様のお陰様で5138000円が集まりました!!さやちゃんにご了承いただき端数もそのままお渡しできることになりました。合計52名の方が参加くださり、荒川真理からのリターンも今月から始まります。25名の方が希望された対馬の季節の贈り物...「ひとつでもいいから自分でつくってみたい」と思いたち農業を再スタートいたしました。きっかけは「リターンのため」ですが自分の置かれた環境心惹かれる人たちパズルのピ
農業再開しました。小口融資の有形リターン季節の野菜を贈るべく応援金を募っています。ただいま、五万七千円集まっています❤️ありがとうございます😭防護柵を含め、種苗代や人件費...ザクッと見積もってもまぁまぁかかる!なので、まずは50万円目指しています。今回は融資という形ではなく、寄付金でお願いしています。いくらからでもかまいません。私の畑を一緒に作ってくれませんか???防護柵を作って、、、お野菜も作って、、、と、妄想しながら畑を耕してるうちに、私もここを
ピンクムーンのつぶやき。自分のど真ん中射抜きたい!!畑の寄付やら、ライブレストランのオープニングパーティー券やら、情報が散らかっているので参加してくださる方にわかりやすくまとめようと思います。その名も対馬REBORNプロジェクト!!めっちゃドキドキする!!w私の対馬島おこし関連の募集はただただ、対馬プロジェクトって言うのがこわいんだ、って気付いて...それを聞いたさやちゃんの言葉は「あたしだってこわかったよー」だった。そっか。そうなんか。そうやって
”対馬やまねこ空港”着陸直前に撮影@長崎県対馬市【長崎県日帰り観光備忘録】対馬旅行■旅の目的以前、壱岐には行ったことがあるので、いつかはお隣の対馬も、とぼんやり思っていたところ、すっかり忘れてました偶然2022年10月に”ブラタモリ”の対馬編を見ていて、いきなりどーーんと背中を押されましたお天気と仕事の都合を調整して、ブラタモリ対馬編(前編)放映日から数日後に行って参りました後編は、旅の後で拝見いたしました(#^.^#)これ、実は絶妙なタイミングで
おはようございます出雲大社の系列の神社の巫女を経まして。教派神道の神職の資格を習得した占い師、白川葵です本日もお忙しいところ、ご訪問ありがとうございます。初めての方も、よろしくお願い致します。今の時代は、観光化している聖地が多いですが、来訪者を、歓迎してくれるとは限らない所もあります日本には、古くから神聖な地として、大切に守られてきたので侵入が許されず、禁足地となっている場所が残っています対馬は、長崎県の玄界灘に浮かぶ自然豊か
※2023年12月1日書き直し大石浦砲台は浅茅湾(浅海湾)北部の大石浦北西ピークに構築された砲台です。対馬要塞築城第1期4砲台のうち最後に築造されました。任務は芋崎砲台と同様に湾口および湾内一帯を射撃して敵艦の侵入と碇泊を妨害することで、明治27-28年(1894-95)の日清戦争では対馬警備隊が動員され本砲台も二十八糎榴弾砲6門にて配備に就きました。日清戦後、新たな対馬防御計画で四十八谷砲台と大平高砲台が新設されることになったため大石浦砲台は不要となり、明治31年(1898)1月に廃
※2023年12月21日に書き直し上見坂(かみざか)堡塁は、対馬中部の厳原町上見坂の標高390mピーク周辺に構築された陸正面防御の堡塁です。「佐須阿連、小茂田及び厳原方面より侵入せんとする敵を防止し、根緒堡塁と相待って鶏知平原を援護」することが任務とされ、明治37-38年の日露戦争では戦闘配置に就きました。◆起工:明治34年(1901)8月1日◆竣工:明治35年(1902)11月30日◆備砲:九糎加農4門、三十一年式速射野砲(※諸説あり)4門◆設置標高:390m/386m
今日は。B.T.です。いつも読んでいただいてありがとうございます。というか、もう半年も更新をサボってしまったので「また読んでいただいてありがとうございます。」と言うべきでしょうか。今回は年一回の遠征に行って来たので重い腰をあげて頑張って記事を書こうと思います。(長文ですがご容赦下さい。)今年の遠征の行き先はタイトル通り対馬です。対馬は2年前に行った奄美と同様に興味深い固有種がいることで有名ですね。奄美はのりちゃんさんとご一緒しましたが、今回はソロ。頼れるアニキはおりません!(汗)
一部内容を変更し、加筆修正いたしました。私は歌が好きです。いつも歌っている。起きてすぐでもご飯つくる時も、茶碗洗う時もシャワー浴びる時も爪を切る時も。私はいつも歌っている。お客様の髪の毛を切る時もシャンプーする時も運転する時も嬉しいことがあった日も大切な人が死んだ日も私はまるで息するようにいつも通りうたってしまう。学生時代何の夢も持てなかった私...歌だけは大好きだったから「私はいつか歌手になりたい」とたった1人だけに打ち明けた。そして、そのたった1人に
私のブログ「ママ、遺書かきました」最初の投稿2020年4月2日「私の本ができるまで」書きたいことを書きたい時に書いていたら4年が経って数えてみたら全部で記事数1352件\(^o^)/一緒のタイミングで息子が始めたYouTube「ビデムービー」も通算405本になっていてチャンネル登録者数2030人お互い続いて良かったね(⋈◍>◡<◍)。✧♡ステイホームで手持ち無沙汰で軽いノリ気軽に始めた発信活動お喋り感
、、、、、はるばる行ってまいりました!!!長崎県は対馬。福岡から135km,韓国釜山までわずか50kmという釣りロマンに溢れる島です。今回はアングリングソルトさんのエギング特集取材ということで詳しい釣果は控えめに。。!という事でダイジェスト的なブログにしようかなと思います。協力してくれたのはご存知谷口テスターと山田テスター。対馬へは僕達含め全員が初めての挑戦。自ずと胸が膨らみます。四国から岡山に渡り、新幹線で博多駅ま
※2023年12月3日書き直し明治29年(1896)に策定された「対馬第2期防御計画」に基づき明治31年(1898)から堡塁砲台の工事が始まりましたが、四十八谷(しじゅうやたに)砲台は築城第2期において最初に起工された砲台です。浅茅湾(浅海湾)の湾内中央に位置する島山島に構築され、湾口を縦射して敵艦の侵入を防ぐことを任務としていました。明治37-38年(1904-05)の日露戦争では二十八糎榴弾砲6門をもって戦闘配備に就きましたが、戦勝後は海岸防御の見直し気運が高まり、明治43年(191
※2023年11月27日書き直し芋崎砲台は浅茅湾南部の芋崎に構築された砲台です。湾口および湾内一帯を射撃して敵艦の侵入と碇泊を阻止することを任務としました。明治27-28年(1894-95)の日清戦争で戦闘配置に就いた後、明治30年(1897)から明治33年(1900)にかけて大改築を行いました。さらに明治35年(1902)にも改築されたのち、明治37-38年(1904-05)の日露戦争で動員されました。日露戦勝後の要塞整理議論において廃止砲台の部類となり、大正6年(1917)に防
ハイ、なんだかんだブログ書くのを忘れているうちに2024年になってました1年前はしっかり60キロあった私も今や41キロ(本当はキリよく40キロになってからUPしようと思っていたのだけど、絶賛体重停滞期多分40キロなるの待ってたら2月入っちゃうなって思って)目標の38キロまであと3キロのとこまでやってこれました2023年は毎日運動する習慣がついただけでも、ほんとに大成功な1年でした運動はたとえ38キロになったとしても、これからもずっとずっと続けますッえーっとクリスマス前
ナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)の花ナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)という木は不思議な分布を持っており、日本では対馬。岐阜県の東濃地方。愛知県の木曽川流域、になぜか点々と分布をしているのです。にほんブログ村
『2023(令和5)年度東京対馬会定期総会・懇親会のご案内』日頃より東京対馬会の活動に対しまして、温かいご支援とご協力を賜り心から感謝申し上げます。さて、長らく新型コロナウイルスの影響で開催を中止しておりました「定期総会・懇親会」でございますが、2019年以来4年ぶりに開催いたします。ご多用の折、誠に恐縮に存じますが、何卒ご臨席のうえ激励を賜りたくご案内申し上げます。(どなたでもご参加いただけます)1.日時2023(令和5)年7月23日(日曜日)受付開始
平成29年12月20日、福岡県福岡市の福岡空港から離陸した福岡空港始発大韓航空KE784便韓国・釜山/金海国際空港行き11時00分発(福岡空港)担当大韓航空ボーイング737-900機体番号HL7728は、11時29分にシートベルト着用サインが消灯し安定した水平飛行となるやいなやそれを待ちかねていたかの如く、それまで着席していた客室乗務員の方々が立ち上がり、ギャレーから運び出した機内食を配り始めました(*´ヮ`)ノよー!日本出国前にいろんな方々のブログを拝見してい
▲干潟雨上がりの泥ヒラタ再びの対馬2日目、この日は相変わらず雲は垂れこめているが雨の心配はなさそうである。私は昨年得た土地勘を頼りに樹液を探す。本道から枝道に入ると栗の木が1本斜めに倒れながら生えていた。「樹液の臭いだ!!」根際は土砂で埋まっている状態で幹にはカナブンが群がっていた。そっと近づくと土砂と幹の間に隙間があり、スズメバチ2頭が樹液をむさぼっていた。「うん
対馬到着〜✈️午後から展示会〜♬準備出来ました…!良かったら~毛利呉服店のホームページも覗いてね毛利呉服店ホームページ��http://www.mourigofukuten.co.jp/
古書の師匠が高円寺に行く、と言うので、その言葉に誘われて高円寺へと向かう。日曜日の午後ということで混雑も無く、探し始めると、ガレージで10冊ほどの『対馬風土記』を見つける。目次を見て、生き物関連の記事が掲載された2冊を購入する。各100円。1冊は「対馬の植物採集家故原友一郎のこと」が掲載された第18号、もう1冊は「対馬のラン科植物」が掲載された19号。館内では師匠が見つけてくれた『野鳥』の上海の鳥・臺灣の鳥特集号500円を買い求める。古書会館を出た後は、INCredibleCOFFEEで
※2023年12月3日書き直し後編では後方施設群を見た後で観測所に向かいます。砲座の後方には複数の削平地が設けられていますが、建物自体は残っておらず瓦礫と化しています。さらに建物の基礎も不明瞭ですので、どのような用途の建物がどこの削平地に建っていたのかも推測できません。史料に書かれている建物は以下の通りです。・兵舎:33m×5mが2棟、9m×3mが1棟、木造洋式切妻屋根・将校室・炊事場・弾廠(装薬調整所、炸薬填実所込み)・砲具庫・糧食支庫・監守衛舎:18.
SSボート製作所訪問の続きです今回はお客様が発注された艇の艤装について部品供給をさせていただいていますベースはこの艇と同型です、サイズは11mの36フィート、ビームは2.85mのフィッシングボートです、エンジンはいすゞ360馬力のシングルエンジンで最高速は45ノットオーバーを誇る高速船です、今回この艇の発電機、マリンエアコンを当方で供給させていただき、あと外装金物のクリート、ロッドホルダー、ハッチヒンジ、アンカーローラーなどのご相談を受けています確かにクリートやロッドホルダーハンドレー