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消える魔球の秘密保持のため巨人は伴のトレードを拒否したが、中日一徹コーチはまだ諦めていなかったオズマの手紙から新外国人選手獲得に方向転換しようとした中日球団に対し、一徹コーチは猛反発3日以内に伴を獲得してみせると宣言したその頃花形は六甲山中で雪玉を打つ特訓を開始これこそが打倒消える魔球の第一段階だった一徹コーチに頼まれてそれを偵察する新聞記者この特訓内容を川上監督に知らせる事こそが一徹コーチの狙いだったのだガタゴロゴロガタゴロゴロ突然山中に不気味な音
1970年(昭和45年)を迎え、いよい各球団がペナントレースに向けて動き出した消える魔球に絶対的自信をもつ飛雄馬ではあったが花形左門の執念に不安も覚えるそんな中ついに花形は消える魔球の残り20%の秘密を暴いてしまった更に左門も残り20%の秘密に近づきつつあった消える魔球でかろうじてつながった友情を守るため飛雄馬は伴に対する方針を変えると宣言そしてフリーバッティングを開始、伴が打席に入った時飛雄馬の投球は伴を直撃飛雄馬はそれを故意にやったと言う二
ついに大リーグボール3号は完成したしかしその魔球は存在する事すら世間や相手選手は認識しない謎の魔球だったオールスター終了後のアトムズ戦でリリーフ登板した飛雄馬は、コントロールに苦しみながらもアトムズ打線にかすらせる事すらさせず抑えた次はライバるの一角、左門のいる大洋戦での先発を命ぜられる一方父星一徹は、息子の独り立ちを喜びつつも打倒大リーグボール3号に執念を燃やしはじめた今回紹介するエピソードは巨人の星栄光の星編第170話「覆面魔球」という回ですいよいよラス
伴のトレード問題は解決したかと思われたが、中日星コーチは諦めておらず、飛雄馬の不安はつのるもし大リーグボール2号が打たれたら、戦力としての価値を認めていない巨人から伴が放出される恐れが残るからだ実際花形左門は、打倒消える魔球の秘策を編み出しつつあった飛雄馬は伴を打者として鍛えるため、鬼の特訓を開始しかし二代目一徹と新聞に書きたてられたのを見て一徹コーチは「わしのために伴をわざわざ鍛えてくれておるわ」とほくそ笑むだがその頃、中日はオズマの手紙から新外国人選手
大リーグボール2号、消える魔球を完成させた飛雄馬にもはや敵はいなかった連戦連勝、まさに無双状態そんな中、ライバルの1人左門は打倒消える魔球のためにコツコツとデーター集めを行っていたしかし消える魔球がなぜ消えるのか、全く見当もつかず内心は焦っていた一方、大リーグボール2号が完成しても戻ってこない姉明子の事を気に病む飛雄馬明子は偽名を使ってまたもガソリンスタンドで働いていた川崎球場(?)の大洋巨人戦は、0-0この試合の巨人の先発は飛雄馬だピキーー
ついに大リーグボール3号は完成したしかしその魔球は存在する事すら世間や相手選手は認識しない謎の魔球だったアトムズ戦での好投を見た川上監督は、次の大洋戦で飛雄馬を先発させるそして迎えた左門の打席、大リーグボール3号を初めて打席で見た左門は、それが女番長お京の投げた「捕球できないリンゴ」と同じだと直感したマウンド上で飛雄馬とお京さんが揃って投げてちゃまあ打てません(笑)左門初球は空振り左門にとっては大リーグボール3号ショックよりそれがお京さんの投げたリ
1956(昭和31)~1958(昭和33)年、西鉄ライオンズを「3年連続日本一」に導いた、「名将」三原脩監督が、1959(昭和34)年シーズンオフ、大洋ホエールズの監督に就任したが、大洋ホエールズは、1954(昭和29)~1959(昭和34)年に「6年連続最下位」に沈み、「万年最下位」とまで称された、超弱小球団だった。果たして、「名将」三原監督が、そんな大洋ホエールズで、どんな手腕を発揮するのか、注目が集まっていた。こうして、1960(昭和35)年、三原脩監督率いる大洋ホエールズは
野球雲創刊号の特集「史上最弱の球団はどこだ」で見事最弱1位に輝いたのは1955年の大洋ホーエルズでした。確かに勝敗表を見ると首位からの差が61.5ゲーム。(NPB年度別成績から引用)戦後のプロ野球公式戦で優勝チームから最下位チームまでのゲーム差を調べてみたところ、61.5ゲーム差は最大のゲーム差です。2位は1950(昭和25)年の広島カープ130試合41勝96敗1分勝率.299で首位松竹ロビンスとの差は59.0ゲーム3位は1955(昭和30)
1970年(昭和45年)を迎え、いよい各球団がペナントレースに向けて動き出したそんな中花形はいまだに消える魔球の残り20%の謎が解けず毎晩悪夢に苦しんでいたそんな事とは知らない村山阪神新監督はテレビに出演し花形の打倒消える魔球に大きな期待を寄せた一方飛雄馬は、大リーグボール2号に自信はあるものの花形左門の執念に不安を感じていたそして新監督村山のもとを訪れた花形は、ついにそこで消える魔球の全ての秘密を暴いてしまったここは左門の自宅アパート「今年こそは花
ついに昭和44年のシーズンが開幕しただが美奈の死から立ち直れない飛雄馬はいまだ立ち直れず、二軍選手にバカにされながら球拾いに徹するそれを心配した伴も飛雄馬のために尽力を尽くすが飛雄馬の野球に対する情熱が再び燃える事はなかった期待した一徹とオズマの、大リーグボール打倒ギブスにも今の飛雄馬には効果がなくもはや飛雄馬を立ち直らせるには、美奈を生き返らせるしかないのではと途方に暮れるというわけで今回は巨人の星不死鳥編第109話「飛雄馬立つ!!」というエピソードです
宿敵花形に大リーグボール2号を打ち砕かれた飛雄馬は勝手にマウンドを降りて東京に帰ってしまったその頃、打倒大リーグボール2号に燃えていた左門も花形に先を越されて内心穏やかではなくなっていた気晴らしに夜の街に出かけたところ街の不良グループに因縁を付けられ揺すられてしまう偶然それを目撃した飛雄馬は不良たちと乱闘にそこでグループの女番町お京に出会い仲直りにゴーゴー喫茶に招待された「ねえ左門さん、星さんって彼女とかいるの?」「え・・・さあ・・・前はいたとか聞いた事は
大洋ホエールズホーム用・ビジター用1974年~1977年略年表1974年前半《ホーム・ビジター共通》秋山登ヘッドコーチ発案によりユニフォーム変更。この時期のみ帽子のマークに縁取り無し。この年から現在まで選手名の背ネーム表記になる。1974年後半《ホーム・ビジター共通》帽子のマークに白の縁取りがつく。1977年まで。1977年後半《ホーム・ビジター共通》左袖のマークが◯は(まるは)に代わり鯨に乗った少年に変更。シーズン終了まで。また、この頃ビジター用のみ白の縁取りが無いユニフォーム
横浜DeNAベイスターズ前身大洋ホエールズ(1950-1952)大洋松竹ロビンス(合併)(1953)洋松ロビンス(1954)大洋ホエールズ(1955-1977)横浜大洋ホエールズ(1978-1992)横浜ベイスターズ(1993-2011)横浜ベイスターズ歴代ユニフォーム1993-20111993マリンブルー青チームカラーに2009横浜開港150周年にYネックユニフォーム2010ホーム用の両肩の星を金に金星ゴールドスターサマーユニフォーム交流戦・復刻ユニファー
「マスコットで振り返るプロ野球史」シリーズの記事で、今回は、ホエールズ~ベイスターズ編をお届けしているが、前回の記事では、その「前編」として、「大洋ホエールズ編」を描いた。今回は、その「後編」として、「大洋・横浜・DeNA編」をお送りして行く事としたい。大洋ホエールズが、本拠地を横浜に移して以降について、描いて行くが、まずは、所謂「湘南カラー」の大洋ホエールズ、川崎球場時代末期の個性派選手達を、ご紹介して行く事とする。<「湘南カラー」の大洋ホエールズの、濃すぎるキャラクタ