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18分強の動画です。是非ご覧下さい。《一部書き写し》かつて日本とアメリカ・イギリス・オランダ・シナ等連合国との間で行われた戦いは、戦後GHQによって「太平洋戦争」と呼ばなくてはならなくなりました。敗戦後、日本を占領した連合国軍機関・メンバーの一人で日本専門家であったアメリカの女性学者ヘレン・ミアーズ氏は1948年「アメリカの鏡・日本」という本を出版しました。この本には当時アメリカが何を考えていたか、そして日本はどうして戦争の道を選んだのかについて書かれています。この
びっくりするような話を今日は、紹介します。終戦後も、終戦を知らずにフィリピンのルバング島に29年潜んでいた小野田少尉の自伝を読んだことがあります。小野田氏は、陸軍中野学校の出身でした。戦争が続いていると信じ29年潜伏を続けた「最後の日本兵」小野田寛郎さん戦いを終えメディアの前に(1974年)太平洋戦争は1945年8月に終戦を迎えました。しかし旧日本軍の陸軍少尉、小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんは、戦争が続いていると信じたまま29年間、フィリピンのジャングルに潜伏し続けていました。1
「H氏の能天気と」この絵は私が描いたもので、ある展覧会に他の作品と併せて出品予定のものです。その展覧会が終わったら、これを裕仁の墓に供えてやりたい。76年前のきょう(1945年8月15日)、アジア・太平洋戦争(大東亜戦争)についてポツダム宣言の受諾を、ラジオが裕仁の肉声を流し国民が知りました。(なお法的な戦争終結は降伏文書への調印の1945年9月2日)この戦争中、裕仁は日本陸海軍の統帥権者(最高指揮権者)として、軍部の決定を裁可する立場にあったのです。よって末端の兵士へ
軍人昭和大東亜戦争太平洋戦争死刑大将辞世(三首)わが事もすべて了りぬいざさらばここらでさらばいざ左様なら天かけりのぼりゆくらん魂は君が代千代に護るならべし踏み出せば狭きも広く変わるなり二河白道もかくやありなん土肥原賢二(どいはらけんじ)明治16年(1883年)8月8日-昭和23年(1948年)12月23日大日本帝国陸軍大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で暗躍。昭和20年4月には、陸軍三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の一つ、教育総
1947年12月、戦後初めて被爆地広島に入った時の昭和天皇裕仁。何の痛痒も感じない能天気間抜けな無責任ボンクラおやじにしか見えません。実際、後年そのような発言をして顰蹙を買っています(本文参照)このブログのメインテーマ、「天皇」の問題に戻ります。8月はどうしても「大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)」や「昭和天皇裕仁」の問題に触れざるを得ません。いきなり汚い言葉が並び恐縮ですが、昭和天皇裕仁(ひろひと)には、人間のクズ、無能、軽薄、ボ
ウィキペディアはじめ、様々な文献や記録に残っている、近代国家として歩み始めた「日の本(ひのもと)」が、地球上の人類社会でトップグループを維持するために必要とされた「投資」物件である、戦艦をはじめとする、海上艦艇の歴史を紐解くシリーズを始めさせて戴いています。1945年8月14日をもって無力化されたとはいえ、21世紀に入っても、「イージスアショア」計画が頓挫(とんざ)し、再び、イージス艦計画の延長線上に組み込まれることになりそうな現代「日本国」にとっても、参考となる「歴史の勉強」である
令和6(2024)年、辰年今年度も、どうぞ宜しくお願い致します。辰といえば「龍」「龍」驤にはじまり、飛「龍」、蒼「龍」、「龍」鳳など、帝国海軍の航空母艦には「龍」の字が付されたフネが少なくありません。飛行物体を取り扱う艦種でありながら、自身も千年万年の齢(よわい)を重ねて欲しいという、艦政本部の思惑が見え隠れします。そのような艦種にクローズアップしている最中に年越しを迎えたのも、何かの「縁(えん)」かもしれません。ウィキペディアはじめ、様々な文献や
前回に続いて、レイテ沖海戦に参加した戦艦を取り上げます。レイテ沖海戦では、戦艦「大和」「武蔵」を中核とした「栗田艦隊」、好悪空母艦「瑞鶴」「瑞鳳」を中核とした「小沢艦隊」、戦艦「扶桑」「山城」を中核とした「西村艦隊」、一等巡洋艦「那智」「足柄」を中核とした「志摩艦隊」が参加しています。その中で、南側からレイテ湾を目指したのが西村祥治中将率いる「西村艦隊」でした。今回は西村艦隊の旗艦であった戦艦「山城」を取り上げてみたいと思います。戦艦「山城」は、「扶桑」型の2番艦として大正2年度の
今日は戦前・戦中の関釜連絡船で、戦後は引揚げ船として活躍した興安丸(こうあんまる)を紹介します。(仙崎の海外引き揚げ上陸跡地の説明看板より)関釜航路は下関と朝鮮半島南端の釜山を結ぶ航路です。山陽鉄道傘下の山陽汽船が明治38年(1905年)9月に運航を開始しましたが、翌年には鉄道国有法によって山陽鉄道が国有化されたため、関釜航路も国有に移管されました。ちなみに山陽鉄道は明治21年に設立された神戸に本社を置く鉄道会社で、同社が建設した神戸~下関間の路線は、現在JR西日本が管轄する山
昭和17年(1940)9月/日独伊三国同盟-Wikipedia/女性の依頼人でも音の弁護士を希望事務所の男の台詞「(皆が)結婚前の女性に頼みたいのはお酌」これは/#昭和の倫理観/か劇中で女性がこの意見を「頭が明治のままか」と批判女性が結婚を希望すると「退職」と思われた/#虎に翼//午前8:28·2024年5月15日/劇中の時代は#日独伊三国同盟が結ばれた年で#真珠湾攻撃の前年。「#大東亜戦争」はこのとき始まっていたか?/#昭和レトロ/
暑いですね。寝る前にはエアコンに切タイマーを設定しているんですが、エアコンが切れてしばらくすると暑くて目が覚めます。寝ぼけながら、再度切タイマーを設定し寝る、というのを夜の間に2・3回繰り返すと朝になってます。疲れが取れないので、今晩は一晩中エアコンを入れて寝ようかなぁ。話は変わって、今回は帝国陸軍が揚陸専用の「特殊船」として建造した船を取り上げます。以前もこのブログで取り上げたことがありますが、帝国陸軍では、昭和14年に政府建造助成金の制度が設けられたことから、商船の外見を持った
今回は、これまであまり取り上げなかった潜水艦を取り上げようと思います。番号の艦名を持つ艦艇は、なかなかイメージが広がりませんし、現代に引き継がれていませんから。今回取り上げるのは、大東亜戦争の行方に少なからず影響を与えたともいえる事件の舞台となった「伊号第一」潜水艦です。第一次大戦以前に帝国海軍が建造した潜水艦は、艦形も小さく外洋での作戦には不十分な沿岸警備型の潜水艦でした。一方で、第一次世界大戦では、大型の船体と長大な航続力を持ったドイツ海軍の「Uボート」が、外洋において通商破壊作
例によって、幻と消えた新版『帝国陸海軍事典』向けの原稿から、今回は旧陸軍の食事についてです。--------------食事営内での食事は聯隊の炊事場でまとめて調理されたものを内務班に運びこむ。炊事場へ食事を受領しに行くことを一般的に「メシアゲ」と称した。主食は麦まぜ飯で、大東亜戦争陸軍給与令(昭和18年8月)では精米600グラム(4合5勺)、麦186グラム(1合9勺)と定められていた。ただし、献立によっては白米のみを炊く場合もあり、ウドンやスイトンなどを主食とする献立もあった。
前回は、少々愚痴ってしまいましたので、今回は船の話に戻します。たまには有名な艦を取り上げてみましょう。今回の主役は、航空母艦「翔鶴」です。「翔鶴」は、帝国海軍が当初から「航空母艦」として計画した初の大型正規航空母艦で、ワシントン海軍軍縮条約の終了を見越して、制約のない必要かつ十分な装備を持つ航空母艦として設計されました。「翔鶴」は横須賀海軍工廠で昭和12年12月に起工され、昭和14年6月に進水、昭和16年8月に竣工します。【要目】基準排水量:25,675トン、全長:257.
舞台「この世界の片隅に」のご関係者様…誠におめでとうございます💚大千穐楽・呉信用金庫ホール迄無事、上演できます...様、心よりお祈り申し上げます。どうか、お身体をご慈愛になり演技を通して日本から世界に向けて平穏の祈りを発信してください!何れかの公演日に拝見させていただきます♪そして、微力ながら皆様の聲のエネルギーに合わせて私も客席より、平穏無事を祈ろう...と思います💚お読みいただいた方、ありがとうございます✨その為にも、観劇当日迄にチノ
戦前の礼装をまとった昭和天皇裕仁(ひろひと)。彼は一旦戦争が始まると、結構好戦的で、かつ優柔不断だったようです。それも一因となり、大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)は早期終結の機会を逸しました。結果、日本人で310万人、海外も含めれば、1000万人以上の兵士と一般市民が死に追いやられました。彼が平和主義者であったというのは、後年の巧みな演出、作り話です。敗戦直後、日本各地を視察する昭和天皇裕仁。決して謝罪して回ったわけではありません。晩
☆先の大東亜戦争において帝国陸軍の中で、極めて高い戦闘能力とサイボーグ並みの強靭な肉体を駆使し戦場を駆け巡った兵士がおった!その兵士の名前は舩坂弘殿と申しまして、軍における最終階級は軍曹で分隊を率いてアンガウルの戦いを最後まで生き抜き申した!童の頃から頑丈な身体に恵まれ数多の武道も習得し鍛練を重ね、如何なる状況下においても臆する事なく敵に多大の犠牲を与え、重篤な怪我を負っても持ち前の回復力を以て死の淵から甦り熾烈な玉砕攻撃を繰り返したのじゃ!戦闘中に重傷を負い敵の捕虜となり、その酷い外傷