ブログ記事868件
2021年5月26日。さて、浪江町権現堂、大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊前回のブログでは近世後期に開かれた明徳山常福寺について述べました。浪江宿の中心地に建立された常福寺の恵敬はもともと越後国出身で、移民招致に尽力した恵敬は130軒の新農家を招いた功績が評価されて、常福寺再建に至りました。では、相馬藩の移民政策とはどのようなものでしょうか。最初に先行研究を提示した上で、その具体相を述べたいと思います。相馬藩への移民について、古くは岩崎敏夫『本邦小祠の研究』(岩崎博
2024年4月30日。前回のブログでは近世後期に作成されたと目される「村々調」(『東北アジア研究センター報告23旧陸奥中村藩山中郷基本資料』東北大学東北アジア研究センター、2016年)から赤宇木村の小字について記しました。今回はその小字と現在の住宅地図に掲載された小字名を確認しつつ、読み方を見てみたいと思います。朱書きは住宅地図で確認できた地名です。・赤宇木(あこうぎ)・赤柴・登木戸・蒲谷地・東〈在家弐軒〉・井戸神井戸上(いどかみ)・小沼〈在家壱軒〉(こぬま
2024年4月28日。ニュースでご覧になった方も多いかと思いますが、このたび赤宇木記録誌編集委員会編『浪江町赤宇木の記録百年後の子孫たちへ』(赤宇木記録誌編集委員会、2024年)が刊行されました。写真も非常に豊富であり、昭和・平成の地元のイベントや会合などをはじめとした生活誌として、大変貴重なものとなっています。また、世帯誌としての側面も持っており、まさに「百年後の子孫たち」に向けた一書になっています。このブログでもこれまで赤宇木地区については、薬師堂と姫渕・下女渕・佐藤渕について
2024年4月29日。前回のブログでは赤宇木村の土地について記しました。今回は近世後期の赤宇木村小字について見てみたいと思います。用いる史料は「村々調」(『東北アジア研究センター報告23旧陸奥中村藩山中郷基本資料』東北大学東北アジア研究センター、2016年)でして、相馬市歴史資料収蔵館蔵海東家文書から翻刻したものです。おそらく幕末期の『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)を編さんする前提の史料かと思います。なお、赤宇木地区については前回
2024年5月1日。前回・前々回のブログでは赤宇木村の小字について記しました。典拠としたのは、近世後期に作成されたと目される「村々調」(『東北アジア研究センター報告23旧陸奥中村藩山中郷基本資料』東北大学東北アジア研究センター、2016年)でして、これ以外に管見の限りでは史料が確認できません。たぶん、津島の今野家文書の中には関係する史料が遺されていると思われるのは、これについては引き続き探してみたいと思います。なお、赤宇木地区について、近代から現在に至るまでの歴史については
2024年5月2日。赤宇木記録誌編集委員会編『浪江町赤宇木の記録百年後の子孫たちへ』(赤宇木記録誌編集委員会、2024年)が刊行されたのを受けて、近世の赤宇木村について見てみました。赤宇木村のある山中(さんちゅう)郷について検証してみたいと思います。山中郷の成立は元禄10年(1697)。元禄9年から元禄の大検地がはじまっていますが、その過程で山中郷が行政区として設置されました。宇多郷から分割されたのは2ヶ村、北郷から分割されたのは3ヶ村、中郷から分割されたのは15ヶ村、標葉郷から分