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1985年から始まった全日本ツーリングカー選手権(JTC)。市販車ベースGr.A規定のマシンを駆使したセミ耐久のレース。純粋レーシングカーのGr.Cマシンを使うWECジャパンやJSPCが一足先に始まっていたので全く興味惹かれなかった。しかもマシンがGr.A。WRCで使われていたGr.Bに比べたらGr.Aなどほとんど市販車。開始から数年は多種多様な車両が使用されていたが次第に淘汰されていった。転機はやはりR32スカイラインGT-Rの登場だ。とにかくマシンがカッコイイ!速
1991年全日本F30007戦/8戦・富士世界的好景気、日本もバブル景気でお金に余裕がある企業がモータースポーツのスポンサーに参入。F3000だけでなく、F3や下位カテゴリーのフォーミュラ・トヨタ、フォーミュラ・ミラージュも予選落ちが出るほどの参加台数があった。F3000は予選落ちしてしまうと、決勝日はガランとしたピットにマシンとキャンギャルだけがいる状態だった。マシンはローラ、レイナード、ラルト、童夢。その中で新型、旧型がある。エンジンは無限、コスワース。その中で各チ
1992年に富士スピードウェイで開催されたN1耐久第3戦・オートテック富士ツーリングカー6時間レース。N1耐久(現行・S耐含め)目的で観戦に行った唯一のレース。土屋圭市選手も参戦しているJSSジャパンスーパースポーツゼダン・レースも行われるため、静岡に住む友人とともに観戦に行った。当時ドルフィンは東京に住んでいて、勤務する会社の社長が「乗って行っていいぞ」と言うので、購入したての赤のホンダ・シビック(EG6型)に乗って土曜日に出発した。社用車として当時は珍しい自動車電話を備えて
筑波サーキットで開催された1991年レース・ド・ニッポン。Gr.Aツーリングカー・レースとF3がメインだった。唯一、筑波サーキットで観たレースだ。サポートレース(マーチかファミリアだったかな?)でおニャン子クラブのメンバーが参戦していたのだが、厳重警戒で姿を見かけることは無かった。JTC-2茂木和夫/小幡栄組/B-ingKegani-RacingBMWM3Evoサザンの野沢秀行さんがオーナー兼監督を務めていた。B-ingのクレデンシャルケースを頂いて、
「ドリフトキング」土屋圭市風雲録は10月5日に電子ブックになって発売されました。この本を書いたのは今から12年ほど前になりますが、書くにあたって僕がしたことは土屋圭市さんが、生まれ育った長野県東部町(東御市)をくまなく見ることでした。町は、軽井沢の西の方にあり、北には湯の丸高原、西には菅平高原があって、町はゆっくりとした勾配で、千曲川に落ち込むような形をしています。もっと言えば、町全体が大きな斜面の上にある。そういう立地です。この町の大地主の息子として土屋さんは生まれ、子供
おや?見覚えのあるフォーミュラカーが。これ、マキF101じゃね?ああ、これこれ。オモチャみたいな形をしてますが、れっきとしたF1。それもオールジャパン(製作・チーム・ドライバー・スポンサー)だったマシンなんですよ。これが飾られていたのがユミ・ドライブコーナー。カー用品店ですね。昔はこういう店が沢山あったけど、今は量販店に駆逐されちゃいましたね。ドリキン土屋圭市選手のデビューしたときのTSサニーを製作したところ、といえば膝を叩く方もいるでしょうね。そういや、タイトルなんですが増位山太