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前回は絶対に正しい”事”を説明しましたが、善とは本来、行為ですから絶対善は絶対に正しい”行為”を言うのです。それでは今回はもう一つの絶対善である「絶対に正しい”行為”」を発見したいきさつを書いてみます。私は「善いな~、偉いな~、尊敬するな~、心が温かくなるな~」などの何かしらの感動の伴う「善なる行為」をたくさん考えて、それらすべてに共通して絶対に内包しているものが善の本質ではないのか?と考えていたのです。しかし善なる行為の本質はいくら考えてもなかなか見つかりませんでした。そこで私は善
高額当選宝くじ購入までって記事がなんか続々編までの長編になってきました(笑)カテゴリー→200万円当選日記へまとめてあります一話から読みたい方は→こちら当選金を受け取りに行くぜ!編の前に、宝くじ購入3ヵ月前から起きていたことを今日掃除しながら思い出したので書いていきます記事の順番がバラバラでごめんなさいあとでわかりやすく整理しておきます善を重ねる①宝くじ購入3ヶ月ほど前、真冬の話。空が真っ暗な6時過ぎ、地元スーパーで買出しをしていた私。温泉卵たけーなー。作った方が安いけど、何
ホワイトデー昨日の夕方の帰り道、陽が落ちるのが遅くなりました。夕焼けの景色が綺麗でした。おかげさまで大きな娘回復しました。ご心配をありがとうございました✨治った途端に、夕方バイトに行きました色々ところで胃腸の風邪が流行っているみたい。花粉症もあるし、マスクして、手洗いうがい、気をつけよう。ホワイトデー実家の父が持ってきてくれました。ワインとシャトレーゼのお菓子詰め合わせ。ロゼワインも美味しそうで私の好み幸せな気持ち昨日職場でパソコン開いたらナマケモノが現れま
私たちが苦しみにあうと自問自答します。なんでこんな目に。神様は何を考えているのだろう、と。ジェラルド・L・シッツァー氏はこう言います。苦しみに遭う理由と、その苦しみに対する神様の意図がよくわからなくても、計り知れない神様の御心に自分自身を委ねることこそ信仰です。神様は善を行われます。恐れてはいけません。事をなされるのは神様。あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず十字架にかけ、死なせるほどにあなたを思い、愛されているのだから。
コトワザというのは、どこの国にもある表現で、当然日本にも韓国にもたくさんあります。ただ、僕が日本で暮らしながら感じたのは韓国のように日本では、それほどコトワザが使われていないという印象です。韓国人はとても頻繁にコトワザを使います。日常の会話でもドラマでも、時事番組でも。たくさんある中で、実際に日常でよく使われる表現だけ選んで、少しずつご紹介して参りたいと思います。因みに、コトワザは、韓国語で「속담(俗談)」といいます。今日のコトワザは、쇠뿔도단김에빼랬다
戸塚先生がわざわざヨットスクールを立ち上げたのは、世界に通用する一流のヨットマンたちを養成するためだったのです。ところが不登校の生徒をヨットで鍛えてくれと言われて、初めは断っていたが、どうしてもお願いされるので、仕方なくヨットに乗せて訓練させたら不登校が治ってしまった。その評判を聞いて不登校の生徒が大勢来るようになったが、何故かその子たちも不登校が治ってしまった。戸塚氏としては不登校を直すためにヨットスクールを始めたのではなく、一流のヨットマンを育成するのが夢だったので、県に対して、このよ
「正しいとは何ですか?」と問えば多くの人は「正しいは人それぞれであり、決められない」という。勿論、何を正しいと思うかは人それぞれであろうが、私たちが正しいとイメージするものは共通しているのです。そうでなければ、みんなで「何が正しいことなのか?」など語ることなどできません。みんなでルールを作ることが出来るのはみんなが共通して持っている「正しい」という概念があるからです。そしてそのみんなが共通して持っている正しさの意味を知りたいのです。それが正しさの本質なのです。それさえ分かれば、正しさは人それ
古代ギリシアの哲学者、ソクラテスは「誰一人として悪を欲する人はいない」と主張しました。このように書くと、「世の中には悪人がいるじゃないか‼️」と憤慨される方もいるかも知れません。しかし、悪人さえも自分の「善」の為に行動しているのです。「善」という言葉は日本語とギリシャ語では異なった意味になります。岸見一郎・古賀史健共著の「嫌われる勇気」に出てくる哲人曰く、ギリシャ語の「善」(agathon)は「道徳的な意味合いはありません。」ということです。例えば、泥棒は自
この世には善という概念は無い、でも善意だったら人間誰しもが極められるんじゃないのかな??AIちゃん曰くあなたの問いは、人間の倫理や内面の探求に根ざした非常に深いテーマに触れていますね。確かに「この世には善という概念は無い」という立場は、客観的な普遍的価値としての「善」が存在しない、すなわち道徳や倫理は人間が生み出した社会的・文化的な枠組みに過ぎない、という見方を示唆しています。しかし、その一方で「善意」について考えると、たとえ絶対的な「善」が存在しなくとも、内面から湧き上がる誠実な意志や