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今日は旦那の父親の告別式でした。生前まーー色々ありまして最後まで好きになれませんでしたが、旦那と子どもの手前出席して、親戚の人と会話したり、少しだけお手伝いをして過ごしました。GWの危篤から落ち着かない我が家でしたが、ようやく日常に戻りつつあります。子どもは忌引き休暇が使えず残念でした。
49日法要が無事終わり自宅で御仏前の整理をしていた私。両親からの御仏前を確認したら告別式でもらった香典の金額の倍額が入っていた。(正確な金額の表記は止めておきます)御仏前を頂いた中でも1番の金額。この金額は受け取れないと母に連絡した。私「あんなに御仏前受け取れない。半額返すわ」母「何で?かまへんよ。気にせんとき」私「気にするわ!」母「だって御香典、○○円渡していた人いたやろ」その言葉を聞いた時、他の人より香典が少なかったから金額合わせ?以前聞いたお
いつもご覧いただきありがとうございます😊いっぱいのいいね👍やコメントも嬉しいです。能登半島地震で被災された方たちが1日も早く平穏な暮らしに戻れますようにいつも祈っています。昨日は東京方面行く予定でしたが、突然の悲しいお別れがあり急遽斜里町に残りました。私のブログにも度々登場の斜里町焼肉とらさんのママが急逝されて昨日お通夜今日告別式でした清々しい青空と空気の中ママは旅立ってしまいましたママありがとうマスターや息子さん夫婦そして私達のことも見守ってくださいね負けな
先週末、無事にお通夜・告別式を終えました。息子の大好きなマイクラの絵を焼き付けて作ったお供え用のクッキーを斎場に持ってきてくれた優しい甥っ子。裏にはメッセージまで書いてありました。私の予想を遥かに超えるたくさんの方々が息子に会いに来てくれ涙涙の中にも笑顔のある2日間でした。同じクラスのお友達吹奏楽部のメンバー赤ちゃんの頃からのお友達他県で寮生活をしているお友達小学校は同じで違う中学校に通うお友達病院で一緒に闘った仲間たちやご家族いつも見守ってくれていた明るいママ友たち
こんにちは。明日は、長男の誕生日です。23歳になります。大学を辞めて、関東から地元に戻ってきて、2年経ち今はバイトをしています。のんびり、先の事は考えず、たぶんお金のない生活を続けています長男と次男は、小学生低学年までは仲良くて、二人でよく遊んでいました。長男が高学年になり、友達と遊ぶようになってからは、次男と遊ぶことはなくなりました。中学に入ってからはほとんど会話なくたまに会話したと思ったらケンカしてたような気がします。私は、長男にはいろいろ厳しかったです。その反動かどうか
こんばんは乳がんステージ4と診断を受けたるーです。毎日、毎日、暑いですね💦。姉ちゃん、いろいろ世話になったね。助かったよ。ありがとう。本日は、弟の奥さんのお母さんの告別式でした。ここ数日は、お通夜などの葬儀のお手伝いをして過ごしておりました。もちろん、無理な事はできませんので、できる範囲のお手伝いです。脳出血による、急死でした。まだ、家族は受け入れられない様子です。姉ちゃん、お義母ちゃん、亡くなったんだ、、、。うちの妻は、ショックが大きくて、何もできる状況
ブログをご覧頂いている皆様いつもありがとうございます。このブログは、私と同じ葬儀司会者や葬儀で司会をなさる皆様に向けて、少しでもお仕事の助けになればと思い、葬儀司会の台本や雛形・葬儀ナレーションの原稿や例文等をご紹介させて頂いております。よろしければご参考になさってみてください。今回は「葬儀司会で使える基本ナレーションという事で、告別式や葬儀の開式前に使えるアナウンス例をご紹介します。------------------------------------間もなく開式でございま
お義父さんはなくなってしまいましたが、これからしっかりやっていくのが恩返しだと思います。今の私は背骨が圧迫骨折していて、ギブスをしています。病院の先生は、中腰厳禁と言います。「そのまま固まっちゃうよ」と、恐ろしいことをおっしゃいます。告別式の「お辞儀は一番良くない」とおっしゃいますが、嫁の務め、お辞儀はしないわけにはいきません。でもありがたいことに帯とギブスで二重のガードでした。骨折して2週間以上が経過しますが、痛みは日に日に良くなっています。畑や草取りはしな
先週22日に入院して一息ついたと思ったら、翌々日24日未明に亡くなりました。前日(入院翌日)の午前に見舞いに行き、話せてました。夕方には、叔父(弟)が来てくれて、見舞いのゼリーを「美味しい」と言って食べたそうです。その後夕食を吐いてしまい、吐瀉物に血が混じっていたそうです。夜間に容態が急変して、3時am頃に連絡が有って、向かいました。叔父、兄も駆けつけてくれて、息子、娘は生で会う事は間に合わなかったけど、iPhoneのFaceTimeで声掛けしてくれました。皆に看取られながら逝き
今日は主人が亡くなって初めての祥月命日です。丸一年たちました。亡くなったあの日も朝から雲一つない良いお天気でした。亡くなったのは日付が変わって2時過ぎでしたが、施設の日勤の職員さんが出勤してお別れしたいのでと言われ、10時に沢山の職員さんに送られ施設を後にし自宅に帰ってきました。それから慌ただしく通夜、告別式の日程を決め準備をして滞りなく無事に主人のお葬式を終わらせることができました。あれから一年、いろいろな手続きや相続も終わらせ落ち着きました。主人は成仏できたのだろうか、時々
皆様お疲れ様です前回のお布施の話に続きまして今回は葬儀費用について書いていきたいと思います。前回も似たような事を書いたんですけど急な出来事だったですし本来の順番とは違った形となってしまったためこういう事に何も準備が出来ていませんでした。例えば互助会とかそういうものにも入ってなかったので何も分からない上に1つづつ全て決めて行かなくてはならず当時の放心状態メンタルの私には全く余裕がありませんでしたね。正直言いましてその時のショックの大きさから何を話したかとかはあ
佐野美代子氏御本人が書いておられますがやはり何かおかしいですね偽物と入れ替えて匿われているのか意図的になされているのか変な最期は偽物と入れ替えている可能性が高いですね
土曜日に親戚の告別式に参列する為、朝からバタバタと家事をしていました。そこへクリニックから電話がなんか嫌な予感…採卵してくださり、その後も受精方法や、どの段階で凍結しようかなど丁寧に私の気持ちも汲みながら話してくださった先生からの電話でした。6つ採卵しましたが1つ受精しました。1つだけだった時のことをお話しできていなかったのでとなんと親切な‼️電話でも先生と色々話しながら迷いに迷い。初期胚のグレードがよければ初期胚凍結。グレードが悪ければ胚盤胞まで育てましょうと決まりました。
実母が亡くなりました。私の誕生日でした。3日前くらいから様態が悪くなり、母のそばに兄弟で付き添っていました。亡くなる前日の夕方から私が付き添い、まだ食べる気力があり家で作ったものを少しづつスプーンで口に運びました。水分も吸飲みに入れてあげましたがむせることなく飲めてました。満足してすーっと寝てしまいました。食べれるし、もう少しもつかなと兄弟のLINEで話してました。施設の個室にいましたが、夜はとても静かでした。1時間半から2時間の間隔で介護士さんが来られ体のむきをかえ様子を見てく
お通夜は予想以上にたくさんの方が来てくださり、本当にびっくりしました。次男の病気を知ってた方も、知らなかった方も私達にどう声をかけていいかわからなかったと思います。私達家族は入口に並んで、参列者に挨拶するのですが、顔があったら一人一人に自分から寄っていって声をかけていきました。泣いておられる方もいましたので、こちらから、「大丈夫?貰い泣きしますやん」と言って明るく振る舞うようにしました。こちらから話かけないと、涙がでそうだったので、必死に明るい父親役を演じていました。ふと、横を見たら嫁
ご無沙汰しています。毎日書いていた日記も2/11の途中で止まってしまいました。SNSからもしばらく離れていました。ブログはもう辞めようと思いながらも、何かを書くことが自分自身の感情を俯瞰して見つめ直す機会になるのでは、と思い。今の自分の感情を記そうと思います。あの日、娘は病院から旅立ちました。主治医が「またね」と娘の頬を撫でてから、「◯◯ちゃんはおやすみになられました」そう言ったことは鮮明に覚えています。そこからの記憶が正直ありません。そして、その瞬間から涙が完全に止まっ
皆様お疲れ様です先週の月命日に息子が地上波で帰ってきたという話を息子の友達にしたんですけどそうしたらえ!?実は来週俺もその番組出るんすよ!ってすっごい偶然!そもそも2人ともテレビに出るような人達じゃないしねお前ら持ってんなーって勝手に2人の運命を感じてた私です笑さて、今回は告別式の出棺時の挨拶について書いていこうかなと思います。出棺の時に挨拶があるそういうものがあるということはもちろん知ってます。知ってはいたのですがなにぶん息子は急に亡くなったものですか
私は昔から「〇〇さんはいつも落ち着いてるね」ってよく言われてきた。主人が急逝して親族への連絡。パート先への連絡。湯灌、通夜、告別式の手配。49日法要の手配、準備百箇日法要の手配、準備新盆法要の手配、準備1周忌法要の手配、準備などを進める中、知り合いに言われた。〇〇(私)さんって落ち着いてるね。私には無理やわ。強いね。オロオロしちゃって出来ないって落ち着いて見えてるんだ。そうなんだろうな。納得してしまう私。でもね。落ち着いてたんじゃない。私は泣いて下向いて黙って
祭壇に飾られた遺影は子供達と選んだ懐かしいパパの笑顔めちゃめちゃパパらしい写真を選べたと思う不思議な感覚。まだ私は実感がわかない私達に起こった事じゃないみたいお通夜にも告別式にも沢山の方が来てくれたパパの会社の人パパの友人近隣の方々子供達の学校・保育園関係お通夜ではお坊さんのお経が終わってもお焼香が続いた子供達が通っていた保育園の先生方や保護者も来てくださった卒園してからかなり月日は経っているのにねみんなパパを思って涙を流してくれて・・・我が家の子
先日、グループLINEに連絡があり、元職場の上司が他界したとのこと。元職場というのは、早期退職直前の職場ではなく、2005年4月〜2008年3月に出向していた職場です。この職場では、仲良くやっておりまして、グループLINEもありました。出向していた人がメインのグループLINEでしたが、現在、全員が出向元の職場を退職しています。1人だけが定年まで勤めたようです。それ以外の人は、肩叩きの退職、自己都合の退職でした。そして、定年まで勤めた1人が今回他界したんです。出向先では、上司だったん
高校時代4人組でいつも一緒に行動をする仲良しがいた。女性4人のイニシャルが、MふたりYふたり。今でも、たまに集まってランチ会をする。高校時代の懐かしい話や近況の話など。私以外は、お母さんで大きな子供たちがいるけど会話は昔のままでやっぱり楽しい。私は小さい折り紙で鶴を作るのがとてもうまかったよねーと言われたけどまるっきり覚えてない。スキー教室で捻挫をして帰ったMちゃんを私たち残った3人はバイバーイと言っただけで薄情だったらしい、それも全く覚えていない。10円玉を2枚くっつけて、
細見恭司㈱第一建設ホテルアカデミー学長さんのプロフィールページhttps://profile.ameba.jp/me演歌歌手の北島三郎(81)の次男で作曲家の大野誠(おおの・まこと)さんが東京都調布市の自宅で、3日に遺体で発見されていたことが7日、分かった。病死とみられる。51歳。東京都出身。通夜は7日、都内で営まれた。8日に近親者で葬儀・告別式を行う。喪主は北島三郎こと父、大野穣(おおの・みのる)氏。北島はこの日夜、都内で会見し「我が子が先立ってしまった」と声を詰まらせた。
<4月30日(火)雨のち晴れ>お昼から美世潯さんのご葬儀。朝イチでお風呂入って支度して少し早めに出発してお寺の近く小さなカフェでひと息ちょうど会えた優さんも一緒にカフェラテで「献杯」です。ご葬儀・告別式・初七日全て済ませ!何もかもキッチリ美世潯さんがファイルに指示していたそうで流石です町屋斎場でお見送りその後の精進落としはご無礼して優さんとおとみ丸さんを車に同乗して帰路に…お稽古着に着替えてカフェでひと息!火曜日の稽古です。前のお家の薔薇が咲
姑の死去に際して、たくさんのメッセージありがとうございます☆心温まるメッセージ、とても嬉しくて、涙があふれました☆昨夜、通夜を終え、本日は告別式と初七日が営まれます☆こういう時期なので、家族葬が一般的かと思われますが、姑の強い願いで、元旦那や歴代の彼氏、お友だちが参列してくださっています☆姑は、何度も生死を彷徨うような大きな手術や病気をこれまでの人生で経験してるので、自分が死んだとき、その後やって欲しいことを書き記してありました☆ちなみに、6月に亡くなった母方のおじいさまも、同じように
息子は先に葬祭場に着き、控え室に入りました。家族と妹夫婦で、息子に会わせてもらえるのを待つ間に主人から初めて息子がどこでどうやって亡くなったのか聞きました。残されていた携帯の内容は初期化されていましたが誰が見てもわかるように、メモだけが貼り付けてありました。遺書でした。1つは、警察の方が見て事件性がないことがわかるように。もう1つは、家族にあてたメッセージでした。最後まで息子らしい周りを気遣う内容。息子の優しさに涙が止まらなかった。その道を選ぶしかなかったんだね。お母さん
沢山の励ましの言葉、コメントをありがとうございます。3月22日(水)お通夜3月23日(木)告別式無事に送ることができました。お義父さんが何から何まで進めてくれて、担当の方もとっても親身になってくれて、担当では無いけど目を見た瞬間に一瞬で心を開けたスタッフの方がいて。不安だらけでしたが心強かったです。お別れの時間を長くとってくれました。『もう本当にお別れだからね』『後悔の無いようにね』そっと声をかけてくれたスタッフの方のおかげで、周りを気にする事なく泣いて、沢山触れて、言葉をか
皆様お疲れ様です。昨日は明るい感じの記事を書きました。なんか突然思い出し書きたくなったんですよね明るい話題(とはいえ微妙ですが)のような事も少しは口に出せる?ようになったのかな?ひょっとしたら半歩とか前に進めてる?なんて思ったりもしますが急に落ちるんでね💦自分ではどうなっているのか全然分からないです。「うんうん」と思ってくださる方もいらっしゃると勝手に思ってます笑踏ん張っていきたいですね。告別式が始まり、読経が行われる中挨拶はほぼ完成していたものの最後の言葉だけが
2021年1月高校1年生で脳幹グリオーマという悪性度の高い脳腫瘍と診断されました。診断と同時に余命宣告をされ、放射線治療で一時的な症状の緩和が見られますがわずかな期間で再燃をします。この残酷な病気を知ってほしい。息子の頑張りを知ってもらいたいです。当時の記事はこちらです。『【脳腫瘍】診断から2年(加筆修正済み)』診断から2年が経ちました。よく頑張っていると思います。振り返るのは辛くなると思いますが記録してみようと思います。2020年11月28日新人戦後から言われまし…amebl
おはようございます。数日前に一年ぶりくらいになるでしょうか旦那が生前お世話になった方から電話をいただきました。私…思わず「嘘でしょう⁈」そう叫んでしまったくらい突然の訃報でした。そう旦那が愛してやまなかった皆川仁先生が亡くなったと…皆川先生と旦那が出会ったのは確か10年くらい前だと思います。「後輩なんだけど凄い奴なんだ!」そう言ってその時から毎週のように皆川先生のセミナーに参加するようになりました。それはまるでストーカーのように来る日も来る日も皆川先生を追
翌日、告別式。夫の大好きだったものと、手紙を入れて、夫が大好きだった、夜勤の会社の制服を上からかけてあげました。最期のお別れの時…お花を棺に沢山入れてもらって、その時に、担当のTさんが、「最後は、喪主様がお顔を撫でて、話しかけてあげてください」と言ってくださいました。ありがとうとごめんねと、私を親にしてくれてありがとうと言いました。泣くなよと言われていましたが、この時は、泣いてしまいました。荼毘に付される為、霊柩車が到着。弔問客に見送られながら、私は霊柩車の助手席に、私以外の親族はマ