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今朝は曇り空のスタートでした。おでかけどうしようかな?5時前に目が覚めたのでとりあえず、家事をして、日焼け止め対策しながらしっかりメイク、着替えもして、カメラの充電もして・・・。あら、いつでもおでかけオッケー!?🤭息子を部活に送り出したら急に青空に。チラチラ窓の外を見る私に行ってらっしゃい🤗と声をかけてくれたので。本日も…いざ鎌倉です😅北鎌倉にしました。9時ちょうどに駅スタンプを押して円覚寺へ。鎌倉五山のひとつです。雨上がりの朝。大きな門を見上げてゆっくりとくぐります。
ニンテンドースイッチ版ゲームソフト、「シドマイヤーズシヴィライゼーションVI」のプレイ日記#5。⇒前回へ⇒次回へお隣の国のアステカ帝国。我が日本国とは友好関係にあり、日本国の神道の布教に成功した国なのですが…ブラジル帝国の東方正教(緑色の十字架)や、スペイン帝国のカトリック(赤色の十字架)の布教で、宗教が入り乱れた状態に!神道の伝道師や使徒で、他教徒の布教を防ごうとするも、次から次へと東方正教やカトリックの布教可能なユニットがやってくるもんで、対抗するの
ニンテンドースイッチ版ゲームソフト、「シドマイヤーズシヴィライゼーションVI」のプレイ日記#1。⇒次回へチュートリアルを終えた後は、シングルプレイの”ゲームを作成”から、文明(指導者)は日本の北条時宗を選択!中世時代の固有ユニットに、”侍”が使えたり、”神風”の効果により、沿岸部での海戦や陸上戦が強いという特性持ち!(北条時宗は、元寇でモンゴル軍を打ち破った偉人だからっぽい。まぁ、日本の歴史では、ちょっとマイナーかもね~(・・。)ゞ)それに、序盤から軍事、信
ニンテンドースイッチ版ゲームソフト、「シドマイヤーズシヴィライゼーションVI」のプレイ日記#3。⇒前回へ⇒次回へ第2の都市を開拓して、東京が誕生!そして、あっという間に首都である京都を追い抜いて、人口1位の都市にまで成長していきました!流石は、「東京」という都市名なだけはありますね!…と言いたいところではありますが、単に食料や生産力が高く、人口が増えやすい土地だったんでしょうね~(*´艸`*)そんな頃…東京のほうに目を奪われていたせいか、いつの間にやら、
ニンテンドースイッチ版ゲームソフト、「シドマイヤーズシヴィライゼーションVI」のプレイ日記#6。⇒前回へ⇒次回へ現在、日本帝国でプレイしているシヴィライゼーション6。途中スタートのロード時間に表示される日本帝国の説明って、時代経過によって、ちゃんと内容が変わるんですよね~。さて、スペイン帝国とは和平を結んだところなのですが…アステカ方面で、スペイン帝国のカトリックと、ブラジル帝国の東方正教との宗教戦争が激化!その潰し合いのおかげもあってか、アステカの都市、
ニンテンドースイッチ版ゲームソフト、「シドマイヤーズシヴィライゼーションVI」のプレイ日記#2。⇒前回へ⇒次回へいくつかの世界遺産が完成~♪↑世界遺産の第一号は、ピラミッドでした~(〃∇〃)ゞ世界遺産は、もちろんながら世界に1つしか存在しないので、建設は早い者勝ち!建設途中で、他の文明に先に作られちゃうと、建設現場が一瞬にして吹っ飛ばれてちゃうんですよね~(/ω\)まぁ、ある程度の生産ポイントは返ってくるんですが、無理して資源を破壊してまで作ったときなんか
20手目。■食糧不足により都市の人口増加が大幅減少。人口増加で都心人口が4に増えるのが29ターン後。そんなに待ってらんない。労働者ほちい。。。今作、Civ6では「各都市の人口総数」が単純にパワー。こんな序盤での人口頭打ちはヤバい。首都の敷地内に『小麦』の資源は3つ見えてる。労働者を作って『小麦収穫施設』を整えれば、あっという間に食糧不足問題は解決できるはず。労働者ぁ。。。奴隷ぇ。。。-------------------------------
鎌倉時代。この時代の剣呑な空気は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ていた人なら、よくよく身に染みたことだと思う。挑発、騙し討ち、族滅、暗殺、喧嘩成敗…。こんな鎌倉武士たちをまとめている坂東武者は、他人はおろか自分の命も安く見ているフシがあって、自分の領地やメンツのためだったら、幕府に逆らうことも、多数を敵に回すことも恐れない。本当、坂東武者のメンタリティや暴力性は、厄介オブ厄介なものでした。また、この頃の寺社の魔物ぶりは、大河ドラマ『平清盛』を見ていた人ならお馴染み
【起】この時機に蒙古襲来など微妙な問題だが上記10/29号の拙ブログ「え”っ、まだ台風?と映画『先生!』」で検証する旨掲げてあったので調査・研究したその考察結果をここに発表します。その件に関しまして先ず歴史事実を列記しますと、①1267年蒙古王クビライの命により高麗の使者来る。1271年元の使者が国書を持ち来たる。1273年、元の使い、大宰府に来る。②1274年(文永11年)元軍、対馬より九州に攻め寄る。(蒙古襲来、文永の役)③1281年(弘安4年)蒙古・高麗軍再度侵攻に