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天気の良かった二日前、先延ばしになっていた河井寛次郎記念館に赴いた。河井寛次郎記念館は自転車は停められない、もちろん駐車場も無い施設なので、ゆっくり市バスで行くことにする。ほとんど市バスには乗ったことが無いが、取り合えず三十三間堂、博物館辺りで降りる事に…。そしてそこから豊国神社を通過して記念館を目指す。この日は豊国神社の鳥居辺りで市が催されていた。時計を見るとすでに3時前、時間に余裕が無いが、せっかく来たので少しだけ覗いてみる事に…。
清水を出てチェックアウト時間まで時間があったので近くの高台寺まで部屋から見えていた観音様に遠くの方から手を合わせつつ高台寺に祇園閣通常非公開らしく一度も中を見たことはありませんが年に数日公開日があるので見れたらいいなぁ見てみたい落ち着いたお寺さんでした。人混みをかき分けて急いでホテルに戻りチェックアウトせねば。というわけで
いきなりだが、今年は検索のし易さの模索等を行う予定である。パッと決まればそれで良いのだが、そうでない場合には表記を色々と変更する可能性がある。先ず、そのことをご留意頂きたい。また、過去に吟味済みであっても、当時と状況が変わっている場合がある……と申すか、大半がそうであろう。その場合は、再吟味することがある。では、今回のガチャを見ていこう。新年一発目は秀吉公の奥さんガチャだな。例によって人数が多いので分割。最初は、星5覇道者北政所さん周囲味方攻+75%(2T)弱体状態治癒
ブログ久しぶりです。しばらく#シリカシンターの欺瞞を追求してました。今回は、戦国時代の豊臣秀吉妻『ねね』についてです。ねねとは不思議な名前だと思いませんか?「おね」「袮(ね)」「寧(ねい)」「北政所」「高台院湖月心公(法名)」呼び名はたくさんあるようです。しかし秀吉宛に「ねね」と記した手紙がみつかりやはり「ねね」説が有力視されています。天正16年(1588)従一位を授かったとても身分の高い女性です。「ねね」と聞くととても現代的な名前のような感じがしますね。「ねね」と「
豊臣は苗字ではなく、天皇から賜った「姓」だって話は、いつもしてます。徳川家康や明智光秀や武田信玄が「源」だったり、織田信長や北条氏政が「平」だったり、上杉謙信や伊達政宗が「藤原」だったりするのと同じですね。羽柴秀吉は、関白になるための方便で近衛家の養子として「藤原」を名乗り、そのあと改めて「豊臣」という新しい「姓」を貰います。これは苗字よりも上位概念であり、この時代は普段の日常生活では使わないファミリーネームです(天皇から位を貰うときに必要な程度のもの)。ですから、彼が普段から「オレは豊臣秀
さあ歩きます圓徳院の入り口です豊臣秀吉とその正室北政所(きたのまんどころ)ゆかりの寺院である高台寺の塔頭であるこのお寺は秀吉の死後、北政所がその余生を静かに過ごした地でもあります。立て看板大きくしたけど読めないよね秀吉公好み手水鉢秀吉が西尾家に世話になったお礼として贈った手水鉢西尾家は今川義元の親戚にあたる。。。。「南庭(なんてい)」ねねの遺志を継ぎ、特に女性の目線で楽し