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「伏見城(木幡城・指月城)」(京都府京都市伏見区)の「後編」です。前編https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12582884263.html中編https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12583311284.html「伏見城大手門」(「御香宮神社」神門に移築再利用されている)「指月城」跡から近い所に、「伏見奉行所」跡があります。跡碑とともに奉行所らしい風情を出すために下見板張りの塀で囲っています
天海(165)近江から久尻村の庄兵衛の屋敷に着くと重大な知らせが入っていた。「勘右衛門殿、良く戻られた。これをご覧あれ。」と差し出された書状を見ると、「庄兵衛さま」と書かれた女文字の文であった。「これは、お福殿か。」と慌てて書状を読むと、驚くべきことに「小早川家は徳川方に内応することに決した。」というのである。「お福殿が申すには家老の稲葉、平岡の両名が秀秋公を説得したとのことで、近々内府様に密書が届くというのだ。この事いち早く内府様にお伝え願いたい。我らの大きな
天海(162)「内府ちかひの条々」「一、五奉行、五年寄どもが連判で誓ったのに年寄二人(三成、長政)を追放した事。一、五奉行のうち前田利長が潔白を証明するために誓紙まで出したのに、景勝征伐の為人質まで出させた事。一、景勝に何の咎もないのに誓紙を違えて、置目に反して、征伐しようとしていること。一、知行を自分の独断で行って、忠節もない者に宛がっている事。一、太閤様が定めた伏見城の留守居を追い出して徳川軍を入れた事。一、十人(奉行と年寄)しか誓紙
「伏見城」(京都府京都市伏見区)の遺構と謂われている城郭建造物が、各所へ移築して再利用されたり、その資材や部材を使用して建てられている建造物を写真で紹介しています。第12弾では、山口県及び中部から東日本の都県にも点在して移築されている建造物がありますのでそれを紹介します。第1弾~第3弾は第4弾からご覧くださいhttps://ameblo.jp/highhillhide/entry-12587173830.html第4弾~第11弾は第11弾からご覧くださいhttps:/
「伏見城」(京都府京都市伏見区)の遺構と謂われている城郭建造物が、各所へ移築して再利用されたり、その資材や部材を使用して建てられている建造物を写真で紹介しています。第11弾では、広島県に移築されている建造物を紹介します。<第1弾、第2弾は、第3弾~第8弾に掲載のURLからご覧ください><第3弾全国に残る「伏見城」の遺構巡りで空想を膨らまそう!>https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12586909048.html<第4弾全国に残る「伏見城
今回のブログから暫くの間、「伏見城(指月城、木幡城)」の遺構を紹介してみたいと思います。「伏見城」の遺構が、全国あちらこちらに、伝説のモノも含めて多数存在するのをご存じでしょうか。ただ、現存城郭建造物の中で、確かにこれが「伏見城」の遺構ですよと証明されている建造物はそんなに多くはなく、「伝伏見城遺構」との表現が多いのも事実だと思います。しかしながら、その建造物が「伏見城」のモノだったということは、私達素人のお城ファンにとっては、非常に空想を膨らませたり、夢を追うことが出来てお城巡り
大河ドラマ『どうする家康』で徳川家康の忠臣・鳥居元忠たち一行が伏見城で石田三成と戦い、最後に残った家臣たちが自刃し果てた血に染まった床を遺構したもので、京都に五か所に分けられてるけど、個人的にはこちらの血天井が一番分かりやすいです。未だに足跡とかが生々しく残ってるので、如何ほど壮絶だったのかと伺い知れます。でも、もう怨念めいた気は感じないので、充分供養されたのだと勝手に思っとります。