ブログ記事7,891件
65点の暮らしかた。1級建築士ハギヤマジュンコです。毎日100点じゃなくていいやん。手抜きしたって、楽したって、イライラしてるよりもニコニコでいたい。自分らしい65点を手探りしながら、暮らしています。詳しい自己紹介はコチラ2024年Ameba20thAWARDブログドリーム部門受賞しました掲載許可いただいていますAmebaLIFE2023年12月11日初の著書『ラクに楽しく過ごすための65点の暮らし方。』を出版します。ご予約はコチ
寄り添ってくれない夫けなす妻どっちも悲しいね。こんにちは。子育て中、これから親になる、そんな仲間を応援しております。ママの心の整え師、えみです。えみのことやカウンセリングのご案内をホームページに載せていますのでぜひご覧くださいませ→こちら2月のおしゃべり会1回目は終了しました。2回目は26日(水)10:00~11:30テーマ:夫婦関係です。もやもやしていることをしゃべる。それだけでも心の内が晴れて
36歳、結婚7年目、子ナシですが、夫は単身赴任&不倫同棲。恩人の紹介で見合い結婚したので離婚する気はないそうで完全に仮面夫婦状態です。相手は雅也さん、離婚を契機に雑談やおかずの差入をするようになり仲良くなりました。仲良くなるにつれ、私は雅也さんに惹かれていきました。食事を振る舞うのも下心があってのことです。ある日、おかずを持っていくと玄関で出迎えてくれた彼はすごく酔っていました。口にするのは仕事の愚痴や元妻の事、すごく疲れていました。私は勢いで彼に抱きつきました。彼はびっ
12/16(火曜)アラーム起床よく眠れた。外出。メルカリ発送のち100均とスーパーへ。実家にかわいいスリッパがあって、母に聞いたら100均でつい最近買ったとのこと。うちの近所にも同店があるので見に行ったけど置いてなく。残念。次、実家に行ったとき貰おうかな(爆)wきょうのおやつ。どらやきよりこっちが好き。美味しかったv夕飯はビビン丼、イワシの生姜煮(頂き物)、キャベツ浅漬け、お味噌汁早めの帰宅だったオジが、夕飯後にリユースショップへと出かけた。使わなくなっ
私たち夫婦は交際期間1年未満でデキ婚しました。後先考えず、欲を優先した結果です。後悔はしていません。我が子に会えたことはとても幸せです今は仮面夫婦となってしまいましたが、これも人生なんだろうなと思います。
私は、単身赴任中の夫に5年もの間、不倫同棲されていました。コロナ不倫ですね。今は、たぶん終わっています。物理的な距離があるので勝手にそう思っていますが、もしかしたらプラトニックラブ中なのかもしれませんね。やり取りはお相手がLINEアカウントを消してから見当たりません。いい歳したオッサンが気持ち悪いです。私はまだ、問い詰めていません。夫は、今更バレたと思ってもいないと思います。私は専属家政婦のように身の回りの事はしていますし普通に会話もあります。少なめですが。仮面夫
こんにちは佐藤康行さんというちょっと凄い人に出会い、15年のうつ病、摂食障害、アルコール依存症、対人恐怖症、喘息が全て完っ璧に消えた3児ママです私のような最低な嫁は、そうそういらっしゃらないと思います。世間のお嫁様って、集まると、夫への愚痴や不満で大いに盛り上がられるでも、その奥にあるのは一生添い遂げると決めた夫だからこそ、わかって欲しい!愛して欲しい!認めて欲しい!という愛の姿、愛の叫びだと言われます。そんな集まりの場で、私は夫の愚痴や不満をマ
離婚に向けて別居開始したにもかかわらず、私は子供と離れて暮らすことが耐えられなかった、、、読んでいる方はあきれるだろうが、、、私は家に戻る決意を固めた。別居期間はなんと、たったの1週間、、、、、馬鹿だと思われて仕方ない。自分でもそう思う。またも私は離婚のチャンスを逃がすことになった。でも私は耐えきれなかった。子供と離れて生活することはできなかった。私は妻にメッセージを送った。「別居は解消し、自宅に戻る」
私も旦那も同じ職種で、給料はそれなりにもらっている。お財布は別々。家のローンは半々。大きな物(家のリフォームとか車とか)を買う時は話し合ってどのくらいずつ出すか決めていた。光熱費や食品の宅配は旦那の口座から引き落とし。携帯代とか保険、積み立てとかもそれぞれ。子ども手当ては旦那の口座に。買い物で使うようなその他の生活費はそれぞれで出していて、お金を受け渡すようなルールは特にない。いわゆる『二馬力』だから、どんぶり勘定でもなんとかなる、みたいな感じでやってきた。…そういえば、子ども
6月14日、脚本家のジェームス三木さんが、肺炎のためお亡くなりになりました。91歳でした。ご家族によると、ジェームス三木さんは4月に体調を崩し入院し、一度回復して退院されましたが、急変し息を引き取られたようです。ジェームス三木さんは、もともとは役者志望で、大阪の高校を経て上京し、劇団俳優座の養成所に入ったあと、テイチクレコードの新人歌手コンクールに参加し合格。専属歌手として下積み生活を送られましたが、歌手としての仕事も上手くいかず、映画監督の野村芳太郎氏に師事して、脚本家の道に進まれ、