ブログ記事2,300件
家康(幼名竹千代)は今川の人質だったのではない。今川を尊敬し服従する松平一族の棟梁として竹千代を育てるために、今川義元が駿府に呼び寄せたのだ。三河岡崎の田舎に生まれた竹千代が大都会である駿府の町で受けたカルチャーショックは大きかっただろう。そして、今川義元から依頼された軍師・太原雪斎の教育内容は「軍略」と「人の上に立つ者の心得」だったのに違いない。それはフルブライト留学が日米の相互理解とリーダーの育成を目標としていたことと同じである。家康(幼名竹千代)が駿
【2026年03月21日放送分】前回からの続きです。いよいよ完結編です。今、タモリさんがいるのは名古屋市。桶狭間の戦いの舞台を旅しています。桶狭間の戦いとは1560年に今川義元率いるおよそ2万5千の大軍が織田信長の領地尾張へ攻め込んだことで始まった戦いです。兵力で圧倒的に勝る今川に信長がわずか3千の兵で挑みたった一日で勝利を手にしたまさに奇跡の大逆転劇。旅のお題は「なぜ織田信長は“桶狭間の戦い”に勝てたのですか?」でしたね。大高城、鳴海城と二つの城を奪われた信長はその対抗
酒井忠尚(さかい・ただなお、ただひさ、ただよし)概要三河上野城の城主。?年ー1565(1568とも)年別名忠賀、将監主君松平広忠→元康(徳川家康)氏族酒井氏父母酒井康忠(忠善、酒井浄賢などの諸説あり)兄弟忠親?、忠次?妻不明子尚昌、重元生涯酒井忠尚は徳川家康(松平元康)に対し三河一向一揆と同時期に謀反したため資料が少なくなっている。そのため父、兄弟が誰なのかは複数の説がある。江戸幕府が編集した寛永諸家系図伝、寛政重修諸家譜、藩翰譜によれば酒井浄賢の子とさ
「豊臣兄弟」の今川義元の話、続きです。桶狭間で信長に負ける「今川義元」は、大河でも2~3年ごとに、出てきますが。今年の大鶴義丹さんの今川義元は、桶狭間の戦場で蹴鞠をする、という「余裕」を見せていました。そんなことしてるから負けるんだ、という御意見はもちろんありましょうが。このドラマの今川義元は、近年の中でもいちばん「油断していない」、武将としては有能な人物に見える、という印象を持ちました。ちなみに今川家はこれで滅亡した訳ではなく、息子の氏真が旗本になり、その子孫が高家として存続しています
来ていただいて、ありがとうございます今日の文字は14日のブラタモリは「桶狭間の戦い」お題は「なぜ織田信長は”桶狭間の戦い”に勝てたのか?」始まりは「桶狭間の古戦場公園」桶狭間は名古屋市と豊明市にまたがったところ当時の勢力図信長は27才、戦国武士としては駆け出しのルーキーかたや今川義元は42才、武田信玄や上杉謙信と肩を並べるトップレベルの実力者戦力も織田勢約3,000、今川勢2万5,000タモリさん「