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1883年2月12日、ディヴィッド・カラーカウア王は、3年の月日と当時の金額で36万ドルをかけて建築された、イオラニ宮殿で盛大な戴冠式を行った。この式典に必要なものはサンフランシスコから取り寄せられ、それでも用意できないものはヨーロッパへと発注された。リリウオカラニ王女は夜会用と舞踏会用のドレスをパリからとりよせた。深紅色のサテンで出来ており、両方ともたくさんの刺繡がされていた。妹のリケリケ王女は衣装を作るためにわざわざサンフランシスコへと赴いた。彼女も二着のドレスを作り、ひとつは
私のハワイアンネームをエゴサーチしてみました。いくつか見つかりました。同じ名前というだけで親近感が沸きます。今からご紹介したいと思います。それではどうぞお付き合いください。【1】競走馬2009年生まれの牡馬。キングカメハメハ(父)の血統です。ハワイアンなネーミングの血筋ですね。2022年第72回東京新聞杯GⅢの本馬場入場誘導馬として活躍している姿を目にすることができました。動画の2分18秒くらいのところで「僕も走る」とアロヒラニ号が駄々をこねています。
若い頃のようにぐっすりと眠れることのない齢です...寝つきは悪くないものの、眠りが浅いというか、少し寝てもすぐに目が覚めてしまう感じ。ひどいときはそこから再び寝つくことができなくなってしまいます。そんな私が今はまっているのは、YouTubeで朗読を聴きながら寝ること。最近は、未解決事件の考察や怖い話を聴いています。先日も、本当にあった怖い話的なものをうつらうつらしながら聴いていました。それは、幽霊に出会って怖い思いをした後、なんとか逃れてほっとしたと思ったところで、耳元
訳注:⑥バーニス・パウアヒバーニス・パウアヒは1831年、モロカイ出身のアリイ、アブナー・パキと、カメハメハ大王の孫娘のローラ・コニアの一人娘として生まれました。ルース王女の母であるカラニパウアヒの名前を受け継いでいます。生まれてすぐ、カメハメハ大王の娘の一人、エリザベス・キーナ’ウのハナイ娘(養女)になりました。キーナ’ウは夫マタイオ・ケクアナーオ’アとの間に子供を五人授かりました。(ケクアナーオ’アの前妻はカラニパウアヒで、1826年に娘ルース王女
訳注:①リリウオカラニ獄中の作品についてその1Ku’uPuaiPaoakalaniリリウオカラニはイオラニ宮殿に収監され服役していた8ヶ月間で、少なくとも7曲の歌を書いたと言われています。第43章から、収監され、裁判にかけられ、判決が出る前の1ヶ月半、彼女が極度の緊張と孤独、深い失意の中で過ごした様子が描かれていました。もしかすると、この期間は曲を書くどころの話ではなかったかもしれません。2月末に判決が出て、イオラニ宮殿の二階で外部との交流を遮断された
訳注:⑤小松親王正しくは、小松宮彰仁(こまつのみや・あきひと)親王。江戸末期~明治時代の皇族、伏見宮邦家親王の第8王子として生まれました。小松宮彰仁親王伏見宮家は、室町時代北朝の崇光天皇の第一皇子を祖とする歴史ある親王家で、後花園天皇をはじめとして度々、嫡子のない天皇家に猶子として入り系統を支えて来た皇族でした。父親の伏見宮邦家親王は、昭和天皇の皇后である香淳皇后、(久邇宮良子さん)の祖父ですので、今上天皇のひいおじいさんに当たります。昔