ブログ記事1,700件
1971年(昭和46年)1月24日、日曜日~ついに解散の日が来た。快晴、気温13度、小春日和の日本武道館で「ザ・タイガース・ビューティフル・コンサート」が行われた。「この武道館には僕たちにとっても、懐かしい思い出がいっぱいです…五年前、ビートルズが来たときに、僕たちはまだ東京に出ていなくて、二階席のちょうどそのへんで、五人揃いの服装で見ていました。それがこんな立派なところで最後を飾れるなんて…、ボ、ボクたち…」サリーは涙で絶句した。「この舞台が、1月24日に決まった時、僕たちはずっと先の
この11日に、ピーのライヴで新宿ACBホールへ行ってきた🎵その場所はACB会館はザ・タイガース時代にはニューACBという名前でした❣️かつては5階6階にありました❣️現在は地下にあります❣️新宿歌舞伎町でも、かなりの年代ものの館です❗これは1970年のスケジュール表タイガースはちょうど11月30日に出演なんですね🤗この頃は、事前に整理券を配っていたんですね🎵私がピーライヴに来た一つの理由が50年前に、タローとアルファベッツの解散に来て以来という懐かしい気持ちでした❣️当時
9月25日三軒茶屋の人見記念講堂で開催された、沢田研二LIVE2024「甲辰静かなる岩」のライブをサリー、ピーの3人で見に行って来た。今年の1月31日の東京国際フォーラム以来のライブだ。相変わらず満席。1曲目は僕の好きな曲「ストリッパー」だった。イントロから気持ち良く乗れる!今回は力強く唄う曲が多く感じた。こんなに声を出すと後半は声が出なくなるのでは?と思ったけど、最後まで声は良く出ている。この歳でこんなに声が出るのはすごいことだ。感心させられる。MCも面白くて笑ってしまう
今日のお話しは、ジュリーも今回の古稀のライブでも歌っている~アシベにPYGを観に行った時のお話しです1972年(昭和47年)3月19日のお話しです。「ACB」と言う宝物さ60年代の激動の時華の東京夢と同じで二度とは戻れない「ACB」のハナシ~新宿は明治通り甲州街道の交わる駅側「ボリューム」と「登り亭」間の地下のジャズ喫茶で今でいうところのライブハウスやんちゃな姉ちゃん物知りでアシベ新宿銀座じゃなくとても見やすいのよ
サリーが5/3にタローのライブにトークゲストで来てくれました🤗3月13日のピーのライブでは、サリーは京都で撮影があってゲストに来られなくて、ジュリーとタローを交えての三人トーク❤️💙💛去年11月22日には、富山でのピータローライブにサリーがまたまた、トークゲストでした🤗その前のジュリーさいたまSSのバースデーライブでも、ゲストのサリー、ピー、タローと、ジュリーは、長いことファニーズ時代の話をしていました🎵聞くところによると、その話がよく判らなかったというジュリーファンも居たよ
去る6月29日午前10時頃~ジュリーが住んでいるマンションで、ビルのガードマンと口論のすえ、ジュリーがガードマンをなぐりつけ、乱闘になった。原因はジュリーの留守中に、ガードマンがファンの女の子を勝手に自室に入れたこと。この事件が明るみに出ると19歳の女性ファンが、ある週刊誌に電話をかけ、昨年11月にも、ジュリーの暴力事件があったと伝えた。これは昨年11月5日の夜11時すぎ、帰宅するジュリーのあとを車で追いかけたファンの女の子が、冷たくされてジュリーを「キチガイ」と
さて~、昨日はお友達から嬉しいラインが届きました「ミルミルちゃん~、聞いて聞いてジュリー良かったよ~ほぼ通常運転で~ご挨拶の時は皆さまには有形無形のご迷惑をおかけしております。鳥取の親戚も肩身の狭い思いをしてると思う・・(場内拍手と爆笑)マンジャーレの前も「頼むけぇ」とか言って笑いを取っていたし、もう~鳥取のみんなは今回の騒動はみんなノーブレムでした。「肩身の狭い思いさせてごめんな~」ってあの謹慎後の武道館思い出したよ~~あと、今回は神席でずーーっと見てくれたんだ
9月1日に、BS松竹東急でジュリーライブ「沢田研二LIVE2022-2023まだまだ一生懸命」ツアーファイナルさいたまスーパ!アリーナの放送がありました🎵事の発端は、2018年10月17日にさいたまスーパーアリーナで開催予定だったライブをジュリーが9000人の観客と聞いていたのが当日、座席を見ると黒幕で覆われたところが多くイベンタ-に問うと、7000人だったことで約束が違うと、会場1時間前にキャンセルしたことによるのでした❗二日後、ジュリー自宅近くの公演で囲み会見
さて~続きを書きますPM2:403人がそろいました「ちょっと待って」と~小道に入り・・髪の毛をとかし、制服のほこりをおとし、3人で「靴下は?」「OK」「ジュリーバッチは?」「OK」「お土産は?」「OK」「みんな決まってるよ」「じゃぁ行こう」PM2:45~3人そろってジュリーの家の前・・ついにやって来ました・・「じゃあベルを押すよ!!」胸はドキドキ足はガクガクどうぞ~おかあ様が出てくれますように・・15秒の沈黙
昨日は、夜食事に行こうと思っていたが~「今日もしかしたらジュリーがテレビに出るかもしれないから…。」と主人に話して~、やはり「路線バスで寄り道の旅」が気になって行かなかった❗(録画もしてるんだけどね😁)2.3日前から番宣をよくやっていたので期待してテレビを見てた👀✨何せ主人はこの番組をいつも見ている📺はたして…今日は?何かワクワクドキドキしてきた😍いきなりタイガースの最後の解散コンサートの模様がテレビに…。あっ~、やっぱジュリー綺麗だな💖と心の中で自分に語りかけた…😍「
先日墓参りに京都に行ってきたよ。最悪の猛暑。でも、僕は墓参りをすると、気持ちがすごく落ち着く。サリーが撮影で京都にいる事をふと思い出して、電話をしてみた。翌日一緒に夕食をする事になった。二人だけの食事は久しぶりだ。サリーが撮影中に怪我をしたと聞いて、会う前までは心配だったけれど、とても元気で、まぁ良く食べる、よく食べる!爆食いだね。安心したよ。サリーの古稀で集まって以来の京都で昔話に花が咲いた。タイガースやジュリー、ピー、トッポの話しもしたね。生まれ育った京都で、半世紀以上付き合って
「東京で落ち着ける僕の城をやっと見つけました、もうこのマンションから離れないつもり・・」ひとり都内の豪華マンション(中野ブロードウェイ)へ引っ越したからだ。それまで神宮外苑近くに住んでいたジュリーは、5月5日「ウェスタン・カーニバル」のさなか、そのマンションに引っ越したのだ。「いやあ、借りているんですよ、家賃7万5千円で、3DKのつくりです。」本人はそう語っているが買ったのではないか?という説もある・・・推定900万円で、渡辺プロの必要経費で買い与えられたものとみられる(週間明星
今日は~姉の当時の日記が出てきたので引用します「1970(昭和45)年3月27日~今日はジュリーの京都の実家に行って来た。というのは、万国博覧会の途中で、京都に行って~それからタクシーでジュリーの実家に行ったので、2500円もかかってしまったけど、悔いはなかった。ジュリーの家は小さな、言っちゃ悪いけどあまりいい家ではなくて、庭がとても狭かった。けど~ここにジュリーが小さい時から住んでいたんだなと思うとなんだかグーな気持ちになった。家に行ったら、ジュリーの妹がいた。そ
今日は当時の人気者のお話しを書きます。おそらく、当時~ジュリーと同じような悩みは、他のGSのアイドル達も抱き続けていたことと思います。「神様お願い」「エメラルドの伝説」であっというまに、スターダムにのしあがったテンプターズ、失神騒ぎで社会問題までひき起こしたオックス。なかでもショーケン、萩原健一はジュリーのライバルとして、全国ティーンの人気をジュリーと二分するようにまでなっていました姉のクラスでは、タイガースとテンプターズのファンが半々に分かれていたと言っていまし
「この次のチャンスにも、絶対見に行くわ。タイガースの舞台だったら、死んだっていいもん。」1967年昭和42年の11月5日、奈良あやめ池の野外ステージでひらかれたタイガース公演で、会場の観客の入れ替え中に~整備の不行き届きで少女達が将棋倒しとなり熱狂したファンの列が混乱したため、20数名が重軽傷を負うという事故が起こる。胸部強打撲、大腿部挫傷で重傷を負った古○○純子さん(当時16歳)は、ベッドの上でこう語った。純子さんは、別に例外的なファンだったわけではない。29名の重軽
昨日、沢田研二正月LIVE2024『甲辰静かなる岩』LINECUBESHIBUYA行って参りました🎶ここのところのジュリーチケットが取りにくくなってきたことは、ジュリーには良きことですが、1990年代には、🈳があり余計な心配したものでした。ファンクラブ澤會がなくなり、ぴあ扱いになって、入手困難プラチナチケットになってしまいました。澤會のころは、良い席をとることに躍起になったのが、今では、抽選に当たるかどうか?運試しみたいになりました😢確かに新しいファンも多
昨日はピータローライブを銀座タクトでやった。大阪、名古屋に続いてのファイナルライブだった。どこの会場も盛り上がってすごく良かった。気の合うメンバー達とライブをするのは楽しい。僕達が楽しんでいるとファンの皆さんもより楽しいのでは?ライブって、僕達とファンの皆さんが同じ気持ちになることが一番!しかも昨日のライブは全曲ザ・タイガースの曲だから、曲を聞くたびに青春時代に戻って行くように感じられた。タイガースの曲は名曲がたくさんあるから僕達は幸せだとつくづく思う。また来年もピータローライブをするつ
今日は、日劇ウエスタン・カーニバルのお話しです。そもそも、きっかけは渡辺美佐さんが、ジャズの次の音楽ビジネスの中心となるものを模索していて、「2月の暇な時期に若い子にウエスタンでもやらせたら・・」と思いたったのがきっかけとなります。1958年2月(なんと私は生後1ヶ月)から始まり1977年8月まで日本劇場(運営するのは東宝)で開催されていた音楽フェスティバルでした1950年代はロカビリーブームを生み、1960年代後半にはグループサウンズ(GS)ブームが巻き起こります。GS
はじめまして!今日からブログを始めたいと思います。まずは、超懐かしいお話しからです~。最初は当時の「ジャズ喫茶」の事でいろいろ思い出したので、書いてみようと思います。今回は、1970年(昭和45)年1月10日~なんと48年前、大阪万博があった年の「池袋ドラム」でのお話です~。私、小6、姉が中2~私がテレビではない生ジュリーを初めて見たその日のお話しです私たち姉妹がタイガースを観に行ったのは、タイガースでも、トッポが脱退してからのシローが入った後期の時期
1970年8月22日田園調布にある田園コロシアムにてコンサートが行われました🎵暑い中、家からはバス一本で行けたので朝イチから何時間も並びました💦↑↑こんな案内に、皆と大きな場所で逢える喜びともう一方では、蠢く解散説に二度と大舞台でのコンサートはないかもしれないという不安もあり複雑な思いで時間を過ごした記憶です…夜になってファンの熱気と坩堝型のスタジアムは暑さが混もっていましたタイガースの曲は「ホンキ-トンクウイメン」から始まるロック色の強い、かっこよくスマートで熱いコ
初めて3人で旅行。ある日サリーから「タロー、熊本と鹿児島に行かないかな?」と言う電話があった。突然言われて僕はビックリ!「何で行くの?」と聞いたら「沢田がライブやるから見に行こう!」「いいよ」と返事をしたら「ピーも誘ってくれるかな」と言う。僕はすぐに電話をしたよ。ピーはスケジュールを即調べて「予定はいろいろ入ってるけど2泊ならいいよ」これが北中トリオ初めての旅行。当日、羽田のANAのカウンター辺りで待ち合わせをした。三軒茶屋の店で待ち合わせすることはあったけど羽
ザ・タイガースたちのマネージャーだった中井國二さんがお亡くなりになって、今日で11年経ちます..この写真は、中井さんの調子が良くなくてタイガースの5人が2010年10月に中井さんのご自宅にお見舞いにいかれた時のだそうですみんなで京急に乗って行き帰りしたそうですそこであいたかったなぁ✨最後のお別れに行こうか?と友達と言っていたのを辞めたことを今でも後悔しています中井さんは、断絶していたピーを訪ねて、38年ぶりに2008年にメンバーと引き合わせてくれました渋谷の玉久もう一度、ザ・タ