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🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶④千葉県最後のバラック地帯を見るかつて首都圏には、海外のスラムに匹敵はしないまでも、それに迫る勢いの貧民窟とでも呼ぶべき町があった川崎の多摩川河川敷を第三国人が不法占拠していた河原町、板橋の傾斜地にあったバラック街の大谷口、そして千葉には船橋の運河にあった東南アジアのようなバラック街……そのいずれもバラックは取り払われ、大谷口などは痕跡すら消し去れて消滅してしまい、やがて人びとの記憶からも消え去り、そ
↑↑↑たくさんのクリックをいただきありがとうございます!(^^)!いろんなディープなエリアのございます京都という町。次は京都市北部の同和地区である楽只地区のさらに北、京都市内を流れます天神川が紙屋川と名を変える上流部に「紙屋川砂防ダム」というのが昭和28年(1953年)に建設されました。華やかな古都、金閣寺のすぐ近くのそんな場所に、ダム建設直後から砂防ダム内の川べりには、在日コリアンたちの住む集落が不法に建設されたという。
🏠🏠⛪🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠⛪②終わっているDONDON商店街かつて南太田にあった日本最大のスラム街は、不良住宅地区改良法の施行により、その多くの部分が同潤会アパートなどに吸収されはしたが、根本的な解決にはならず、昭和30年代頃までは谷戸の斜面沿いに残っていたスラム街があった場所は両側に丘陵が迫る谷戸の地形であるため「乞食谷戸」と呼ばれていたそうだ現在も保土ヶ谷方面に続く谷戸の中心部が商店街を形成しており昭和初期から賑わいを見せて
🌼🌼🌼🌼🌼②北千住崖っぷちバラック地帯🌼北千住の中心街から西に向かう。いつの間にか通りの名前が「いろは通り」から「ニコニコ商店街」にかわっていたこの商店街を横切る道を左に曲がると、以前の記事で紹介した柳町の赤線跡地に出るが、今回はそのまままっすぐにすすむ柳町には千住の果てのような印象があるが、その先には元町があり、荒川と隅田川にはさまれたやけに狭い千住桜木町は、さらにその果てにあるような町であるこの写真
↑↑↑たくさんのクリックをいただきありがとうございます!(^^)!2021年4月10日(土)の記録です。河原町通りの東側、七条通りとJRに挟まれたエリア(正確には高倉通りより東、七条以南、八条以北?)が先日ご紹介した崇仁地区でした。ではJRより南は今でも昔の面影を残すところが多いエリアで、そこは在日コリアンタウン、通称「トンク(東九)」と呼ばれる地域なんです。京都には崇仁地区を抱える「皆山(かいざん)中学校」というのと
映画『⑧この子の七つのお祝いに』はいm(__)m。今日も幼少期トラウマの最高峰『この子の七つのお祝いに』です。ストーリーをかなり省略化しているのに、長くなってしまいましたね。それだけ強烈なインパクトを受けたシーンが多い作品なんでしょう。🔻マヤは自分がマヤではないと言われて狼狽えます。高橋佳哉から「お前の本当の名前はキエだ…」と。父親は高橋佳哉に違いないが、母親は岸田今日子演じる真弓では無いと説明。🔻高橋佳哉の説明は続きます。終戦後、中国からの引き揚げ者が身を寄せていたバラック(粗末な材
【22年7月10日探索・10月26日公開】現在地はこの辺千葉県船橋市湊町ふと見上げるとこんなタワーマンションが見えるような場所のすぐそばにギャップのある場所が残っているらしいと聞いてやって来た。NTT東日本の通信施設などもあるような場所だが・・・すぐにその兆候が見えてきた。この電柱、木製だぞ・・・100mほど進んだだろうか。立入禁止看板と、ヨシが広がるちょっと不自然な光景になってきた。そんな長く広がる変な空地にはこのような不自然
****京急蒲田からキネマ通り商店街を抜けて、かつて呑川だった緑道の先で、バラックのような平屋建築を見つけて、気分は最高潮……だったのに、お気に入りだった看板建築が解体されてしまったのでプラスマイナス・ゼロになったがその先にある、産業道路のバラックに毛が生えたような素晴らしい現役の商店街を訪れたこの自転車屋は、軒先テントも自前で、そこに無造作にペンキで店名が記されていたこれで現役というのが、なんともいぶし銀の渋さであ
再開発が進み駅ビルの象徴だった名鉄百貨店が取り壊される名鉄神宮前駅。あたしの名前はこの熱田神宮の中にある上知我麻神社で一文字頂き父が名付けてくれた。熱田神宮にアクセスする駅前。開発が進むも未だレトロな商店街が残ってる。この商店街の裏手に青線跡地として残ってはいるものの取り壊されるのを待っているよう。家主は連絡くださいって張り紙沢山貼ってあった。こちらは遊郭ではなく青線。実はこの辺り20になる前だったか実家からも近くたまに飲みに来ていた。しかも1人で。青線だなんて言
浅草と言えばホッピー通りっ‼︎(≧∀≦)そしてホッピー通りで煮込みと言えば…そうです‼︎今回は『正ちゃん』をご紹介したいと思います。戦後のバラックがそのルーツで創業は昭和26年頃とのこと。お店の前にあるオープンなテーブル席にまだその名残を感じます!このお店の名物は牛すじ煮込み‼︎(≧∀≦)あのデヴィッド・ボウイもお忍びで食べに来た事があるとか。ずぅ〜っと来たくて念願叶ってやっと食べる事ができました‼︎今回は外のテーブルで頂きましたが中でももちろん食べれます。大鍋で作ってますねぇ
今回はバラック建築物の特集を3回に分けて紹介していきます。①第一回は西尾市平坂町最大級のバラック住宅群②第二回は半田市有楽地区最大級のバラック長屋(ほら穴の婆ちゃんが昔住んでいた😅)③第三回は名古屋市瑞穂区に存在するバラック商店街となります。バラックの定義は長期間の使用を目的とせず、有り合わせの素材で建築された建物だそうです。また最近ではトタン等を使用した戦後の建物を指す場合も多く、今回紹介するバラックは後者になるかと思います。さて今回紹介していくのは西尾市平坂町にあるバラック住宅群
****バラック建築、闇市あがりの商店街は、当ブログの定番ネタであるが、まだひとつ“大物”を紹介していなかったというのもこの物件は、もろに地元なので、見馴れているため地元ぶらぶら歩きのような記事に、ちらっと何度も出てきており、わざわざ単独で取り上げる気が起きなかったからだしかし、あらためて第三者的な視線でこの場所を見ていると、やっぱりちょっと凄いな……と思ったので、気合いを入れて撮影してみた。前述のとおり、日常的に通り過ぎている場所なの