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東京都の港区札の辻にはかつては処刑場があった。徳川家光の命令で札の辻で多くのキリシタンが処刑された。有名な宣教師をはじめその中でも武家で中心的役割をした原主水佐(もんどのすけ)もいた。※キリシタン弾圧の舞台川口の回参照その札の辻も今はどんどん変わって行くこの辺りに処刑場があったのだがちょっと歩いてみるとこの三田ツインタワーの中にその遺跡はあったそれもしっかりとど真ん中に公園のような中庭の階段丘の上で、街道を歩いている人から良く見える
<探訪ルートをネット初公開>岡山県倉敷市は観光立市ということもあり、また、兵器製造工場もあったことから、戦争遺跡の保存・整備にも積極的で、戦争遺跡マップも発行し、公式サイトでも公開している。が、その戦跡の中で、道標・案内板・探訪コース等の整備が一切されておらず、ネットでも道順・アクセスが公開されてないものがある。それが玉島黒崎地区の標高100mの山の頂上にある黒崎防空監視哨跡である。この戦跡の特徴は、聴音壕がきれいな状態で残っていることと、GHQの指示で爆破された
<U字尾根を回遊>先月、pearlwhite氏に眉山中腹のトーチカの場所を教示頂いたが、その御礼に、徳島県小松島市の天神山~柴栗峠~景岩寺にかけてのU字尾根に築かれた通称「立江陣地」跡を紹介したい。ただ、探索したのが10年も前のため、記憶は殆どなく、写真を見ての解説となる。この陣地を築いたのは通称「岸本部隊」。正式には陸軍第155師団歩兵第450連隊第一大隊第一中隊で、その中隊長が岸本実中尉。四個小隊160名を率いていた。ここに陣地を構えたのは、米軍が紀伊水道から小松島湾に入り、上陸して
<二層構造で収容人数は300人以上>以前、愛媛県にある四国一の民間防空壕を紹介したが、今回の大分県臼杵市にある「屋敷余り特殊地下壕」、通称「赤猫洞」は、それとは桁違いの大きさで、収容人数は300人以上という西日本一、或いは日本一の規模を誇る。二層構造になっており、下層には10畳敷程の部屋が7室の他、便所、炊事場等があり、上層にはそれ以上の数の小部屋や保管庫が連なる。一層部と二層部は180度反転する斜路で結ばれている。これら全てが素掘りだが、天井の高さは軍の壕位ある。これだけ大規模な地下
[霊に秘孔を突かれる?]御籠島(みかごじま)は面積僅か5,300㎡、最高所標高36mという小さな無人島。この西端の断崖に昭和26年、延命地蔵が建立された。島の砲台壕で事故死した21歳の見習い士官の母親が建立したものである。昭和20年のある日の朝、その士官は隊長に叱られ、「頭がグラグラする」と言っていた。当時、島の二門の砲台壕は工事中で、壕は豊後水道側とその反対側からそれぞれ掘り進めていた。掘り出した土砂は小さなトロッコのようなもので崖下へ落としていた。その日、見習い士官は隊長の命令
[他にもあった士官や将校の宿舎]過去、拙著や「嗚呼、徳島海軍航空隊・中編」で、徳島海軍航空隊が展開していた徳島海軍航空基地関連の営外下士官宿舎を一棟紹介したが、外壁等が改修されているものの、他にも複数棟残っていることが分かった。拙著でも触れたように、書籍製作時、徳島県鳴門市(ドイツ人俘虜関連のものを含む)と松茂町の戦争遺跡を一泊二日で調査すること自体、無理があり、抜かっているものが多々あったのである。抜かっていた他の宿舎も以前拙著やブログで紹介した宿舎近辺に点在している。アプロー
[地下弾薬庫竪穴と探照灯格納壕]岬の遊歩道の左に分かれる複数の小径の先には砲床以外に、地面に開いた四角い竪穴もある。誤って落下しないよう、各竪穴横には立石が立てられている。これが前回と前々回触れた地下弾薬庫に通じる砲弾揚げ降ろし穴である。かつては各穴に鉄の扉が付けられていたが、朝鮮戦争時、鉄の需要が増えたため、取り外された。弾磨き所で磨いた砲弾をここまで運搬してきて、揚弾機で地下に下ろしていた。竪穴は約1.2m四方で深さは3.5m。かつては内壁に梯子が設置されていた。穴には水が溜まってい
しばらく中断しておりました「大東亜戦争ダークツーリズム長崎県編」を今回より再開したい思います。長崎県内の戦争遺跡探検は何度も行っておりまして、今回からご紹介するものは、2015年9月にシルバーウィークという五連休がございまして、その休みを利用して訪れた時のものからご紹介致します。今回ご紹介する所はあの世界遺産「軍艦島」のある長崎市南部に向かう途中の長崎市伊王島町地区というにある伊王島という島でして、ここにかつて陸軍部隊が置かれていましたので、その痕跡を探しました。そもそもこの島