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チェ・ヨンの部屋を出てすぐ真向かいにも部屋があり、その扉の前で突如手を引かれ、私は立ち止まった。(ここは、最初に居た客間のひとつ奥の部屋になるのよね…)横に立つチェ・ヨンを見上げると、形良く浮き出た喉仏が上下に動いた。まるで緊張しているかのように。「どうしたの?」「先に言っておきます」低く硬い声で口を開きながら、何故かこの人は私の方を見ようとしない。「ここは生前母が使っていた部屋ですが、中にあった物は全て、蔵に仕舞われています」「じゃあこの部屋も、何も無い殺風景な…」「いいえ」
どこからかフクロウの鳴く声が耳に届いて、意識がふっと浮かび上がった。(あれ?私どうしたんだっけ…)目を開けていても視界は真っ暗で、枕や布団の感触から、寝台に横たわっている事は分かる。(暖かい。というか少し暑い…)頬に触れる空気はひんやりと冷たく、部屋自体が温められている訳ではなさそうだ。横向きに寝ている私の顎下まで、きっちり布団が掛けられている所為かと思ったけれど。(あぁ。暖かいはずよね…)合わさった身体の逞しさも、少し熱いくらいの体温も、見えなくても分かり過ぎる程に、恋しいただ一
「王様、ひとつ伺ってもいいですか?」その場がようやく落ち着いた……皆の呼吸も整った頃、イムジャが口を開いた。王様が、微笑みながら頷かれるのへ、イムジャが改まってひと息吐く。「以前のように医仙として、とおっしゃいました。それは……」そこまで言って、イムジャは俺を見上げた。“今、ここで聞いてもいい?”ゆらり、と不安を滲ませた瞳が、そう言っている。俺は、ゆっくりと頷いて見つめ返した。ほんの一瞬安堵の笑みを浮かべて、イムジャは王様に向き直り、続きを口にした。「帰って来られたのはいいんで
イムジャの悪阻はいつまで続くのか……変わってやれない分、気が気でならない。アン・ジェの奥方もそうだったが、腹に子がいる時の女人の様子というのは、明らかに普通ではない。もちろん、皆がそうではないらしいのだが、現に目の前のイムジャは、弱々しくて苦しそうで……いつものお元気な様子を思うと、本当にどうにかしてやれないものか、と思う。「お腹の赤ちゃんが元気だっていう証拠よ」「病気じゃないんだから」などと、イムジャはおっしゃるが……もともと白い肌は青みがかり、細い身体は更に細く……何よりも、あれ程
閉め切った窓の隙間から微かに日の光が差す。それが、しん、と冷え切った部屋に僅かな熱を伝えている。手裏房の隠れ屋の奥の奥——。俺はひっそりと調息を続けていた。目を閉じ深い呼吸を繰り返す。丹田に集めた気を、全身に回してゆく。じんわりと汗ばむ身体から、冬の冷気と相まった湯気が白く立ち上っていた。ここに篭って3日目になる。戦の後はここで調息し、気を整えるのが常だった。しかし、いつもなら1日もあれば戻せたものを……。集中し切れず、俺は何度も目を開けて中断していた。「……はぁ……はぁ…
蘇芳色の頭がゆらゆらと揺れている。俺が椅子を寄せて座り直すと、イムジャはこちらに凭れて小さな寝息を立て始めた。そんな俺達の様子を、アン・ジェが頬杖を突きながら、ぼんやりと見ている。「なあ。チェ・ヨン」「何だ」「お前…今、幸せか?」いい年をした幼馴染みの男から掛けられるには、些か面食らう内容の問いだった。「藪から棒に何だ」「良いから。聞かせろよ」付き合い切れぬと軽く往なすつもりが、アン・ジェの口調はいつに無く神妙で。(どう答えたものか…)一瞬思案するも、取り繕った言葉で応じて
南大門を潜った先の賑やかな往来———イムジャにとっては4年振りの開京(ケギョン)だ。懐かしさと……いや、もの珍しさのほうが上か。馬上から彼方此方に目を遣り……いや、顔も体も大いに動かして、イムジャは他所見に余念がなかった。その可愛らしい様子に、俺の頬は締まりなく……だがそれ以上に、ぶつかりはしないか、落ちやしないかと、気になってしょうがない。「イムジャ、降りて歩きましょう」「もうフード取ってもいい?」「まだ駄目です」この人出の中、何者が潜んでいるやも知れない。この方の存在を明か
イファお嬢様は私の全てだった。幼い頃からお嬢様のお側に置いていただいて、お嬢様のお世話、時にはお話し相手にも。お美しくてお優しくて——こんな素晴らしいお嬢様を、一体何処のどなた様が娶られるのか。どちらへお輿入れなさるのだろう。良いご縁であれば、何処へでも。このスンオクは、何処へでもお供いたします、お嬢様。私はそう心に決めていた。ほどなく決まったお輿入れ先は、都でも指折りの名家、チェ家のご当主ウォンジク様だった。高麗建国からの功臣のお血筋。文官として堅実にお勤めで、清廉潔白なお人
オレ、何でこんな事になってるんだろう……昨日から散々だ。心積りも何も無く、急に王様をお守りする事になり、緊張でどうにかなりそうだった。何とかお帰りを見送ったものの、どっと疲れが押し寄せてきて……家に戻って倒れ込むように寝ていたら、今度は寝過ごして……こんな事に。村で馬を預けて、メヒヌナ達の墓までは徒歩だ。山道をしばらく行かなければならない。ヨンヒョンはともかく、医仙様はお疲れのご様子——「大丈夫ですか?もう少し山道が続きますが」「平気よ。優しいのね、ドンジュくん」「そんな……
ソアさんに飲ませる薬湯を煎じる為、リュ・シフ侍医は席を立ち、私も彼女の様子を窺おうと部屋を訪ねた。「ソアさん、調子はどう?」「医仙様!」私の姿を見て慌てて身体を起こしたソアさんは、少し頬が痩け、いつもは青白く見える程白い肌は、艶無くくすんでしまっている。「少しやつれちゃったわね」額に触れると熱はないようで、私は手首をとり、正常に脈打っている事を確認した。「今リュ・シフ侍医が、薬湯を煎じているわ。ご飯はちゃんと食べているの?」そんな言葉をかける私をじっと見つめていたソアさんが、顔を下
好きなものは何ですか?——雨が降り出す瞬間が一番かな。テジャンは?何が好き?あの時。ヨンが珍しく思案顔で瞳を揺らしてた。そして私の肩をキュッと掴んで、ひた、と見つめて。吸い込まれそうな黒曜石の瞳の、その中央に映る自分。——愛おしいのです。貴女のことが。自惚れかしら、そう聞こえた気がしたの。恥ずかしくて貴方の顔を見ていられなかったっけ。ねぇ、ヨンァ。あの時、本当は私も言いたかったの。私の好きなもの。一番好きなのはね……。..........................
少し飲み直したいとイムジャが言い出し、共に店の裏にある厨(くりや)へと足を運んだ。「マンボ姐さーん。ごちそうさまでした!食器、ここの盥の水に漬けても良いですか?」「わざわざ悪いね。助かるよ」夕刻店へ着いた時に聞こえていた喧騒は、客足が下火になった事で途絶え、店内はいつもの平穏さを取り戻していた。代わりに厨の中は、使い終わった食器や食材の残りなどが乱雑に取り散らかされ、まるで物取りに荒らされた後のような有り様になっている。「手伝いの奴らは居ないのか」「つい今しがた、風呂の湯を沸かしに行
「……はぁ……全く、何という……胃の腑が痛む……」セクが胸下に手を当てながら溢す。ジェヒョンは溜め息を吐くと、返す言葉も無い様子で俺を見つめていた。無茶は承知の上だ。婚姻を餌になどと……きっとイムジャは、呆れつつも終いには笑ってくださるだろうが、コモはおそらく……激怒するだろうな。まぁ、想定内だ。構うものか。イムジャがあの“医仙”本人である、と——隠さぬと決めた時から、あらゆる覚悟をしてきた。俺達の我(が)を通す影響。イムジャ本人に危険が及ぶ可能性。もちろん、身内、周りの者達
「では、オレは軍営に行ってきます」——道中お気をつけて。ドンジュくん……ドンジュが、私とヨンに深々と頭を下げた。ゆっくり上がってきた顔は、少年らしい可愛らしさにあふれていて。弟がいたらこんなに可愛いものかしら、と、私も釣られて笑顔になれた。何だか淋しいわ、と溢すと、「新人達の訓練が終わったら、トクマンさんと一緒にオレも都へ行きます。改めてご挨拶に伺います。医仙様……いえ、サモニム(奥様)」と、笑顔で返された。「……もう、ドンジュったら」ドンジュは小さな体を馬上に乗せて、大きく
「イムジャ……先に言っておきますが」生家の門前でそう前置きして、俺は愛しい人の顔を、じっと見つめた。「ちと、喧しいのが居るやもしれません」「喧しい?」イムジャが瞬きをして、不思議そうに俺を見る。「はい、少々……たぶん」「?」「坊っちゃま!」「ヨン坊っちゃま!」門を潜ると、あちこちから見知った顔が走り寄ってきた。「お帰りなさいませ、坊っちゃま」「坊っちゃまじゃなくて、旦那様だろ」「ああ、そうだった、そうだった」俺が幼い頃から、いや、そのずっと前からチェ家に仕えてくれていた
開京の市場から外れると、程なくして本道から大きな濠を一本隔てた、閑静な屋敷町とでも言うべき町筋に出た。一際高く長い石垣で囲われたお屋敷の前で馬を止めた後、チェ・ヨンは驚くべき言葉を口にする。「ここが俺の生まれ育った屋敷です」「チェ・ヨンさん。今なんて…」「ですから。ここが俺の生まれ育った屋敷です、と言ったのです」瓦葺きの高い石垣に囲われた敷地は、果てが見えない位に広大で、年季が入っているけれど手入れの行き届いていると分かる門構えは、正に『お屋敷』というものに相応しい趣を備えている。私
——風呂。イムジャの願いを叶えるべく部屋を出るも、階下は未だ騒ついたままだった。テマンが弱り顔で頭を掻いている。そこへ俺は再び、見るな!と一喝して、イムジャの手を引いて風呂場へと向かった。階下の奥。風呂場は、小さい中庭の通路を行った先だ。人目につく場所ではないが、風呂場の中を確認してから、俺はイムジャを振り返った。「どうぞお入りください。イムジャ」「もうあんまり時間無い?」「まぁ……程々にゆっくりで大丈夫です」「わかった」イムジャが中へ入ると、俺はそのまま扉の前に立つ。と
医仙に聞きたい事がある……今度は何〜〜〜?怖いんですけど!重鎮とセクさんの探るような視線が重い。私はヨンの腕に掴まりながら、その視線を受け止めていた。「医仙。覚えておいでか?以前と同じ事を問う。この高麗(くに)の行く末は、いかがか?」私の先を読む力——天の知識、とも言われたわ。元が滅ぶ、明が興る、なんて皆んなの前で言っちゃったから……ヨンと2人で逃げるキッカケになった、あの時のこの人達からの詰問。高麗はどうなるのか?今の王は国の益になるのか?……怖かったわ。もし、私が王
※こちらは、拙作『菊花恵愛』の続編です。そちらを済まされてからお読みいただけると、お話が繋がります。よろしくお願いいたします♡(^人^)◆相聞歌(そうもんか)……恋の歌。恋人同士の間で詠みかわされた歌。[ブリタニカ国際大百科事典小項目事典より]............................................................どれくらいの間そうしていたのか……気が遠くなりかけて、私は、はぁ、と口付けの間に大きく喘いだ。それを合図のように、私
身支度を整えて部屋から出ると、テマンが待ち構えていた。「テマンくん、お待たせ。行こう」イムジャが弾むように言うのへ、テマンの顔に、はにかんだ笑みが浮かぶ。兵舎の入口では、ヒジェが睨みを効かせて(もともとこんな顔なのだが)立っていた。……どうりで、さっきまで騒いでいた隊士達が、散り散りな訳だ。「ヒジェさん!さっきはありがとうございました。ちゃんと仲直りしましたから」「あ、いや、俺は何も」聞いたテマンが、呆れ顔で言う。「え、もう喧嘩したんですか?」「何よ、もうって。喧嘩っていう程の
康安殿(カンアンデン)へ行ってみると、何やら重苦しい様子が見てとれた。扉の前に立つ内官が、俺を見るなり、下げていた眉根を一層下げ、あぁ、と息を吐きながら頭を垂れた。どうやら先客がいるらしいが……何事だ?と俺が問うより早く、内官が「大護軍、チェ・ヨンが参りました」と取り次ぐと、すぐに「通せ」と主の声がした。開けられた扉の向こうには、王様とアン・ドチ内官。脇にはチュンソクが控えてい……そしてもう1人。竜顔を前にして、俺に背を向けて立っている大柄な男——ゆっくりと振り向いて俺を睨めつける、キ
「日が暮れ始める前に発ちます」そんな俺の言葉に、茶を飲み干して空になった碗を両掌の上で回しながら、イムジャが伏し目がちに小さく呟いた。「そっか…もうここを出なきゃいけないんだ」いかにも残念だといった姿を見て、俺は密かに胸を撫で下ろした。この方に妻問う時、少なくとも我が屋敷に住まう事を嫌い、拒まれるという線は無くなったと見ていいだろう。(俺の元へ留まると、ようやく決心して下さったというのに。何と弱気な事だ…)そう自嘲する反面、油断は禁物だと自らに言い聞かせる。イムジャは高麗の水を飲ん
俺とイムジャは、再び墓へ寄り、父達へ詫びと願いを伝えた。そして、時折笑顔を交わしながら、手を握り合って寺へ戻る道を歩いていると、前方から見知った顔が——「あーーーっ、もう!!なかなか戻って来ないと思ったら、何イチャついてんだよ!」「ジホャ」「大護軍、医仙、早く戻ってください!チェ尚宮様が大変です!」「テマナ。叔母様、怒ってる?」「そりゃあもう……おれ、怖くて近寄れません」「えぇ……そんなに……」早く行こう、ヨンァ。青ざめながら、イムジャが俺の腕を引く。俺は、乾いた笑みを溢し、
パタンという透かし建具の閉まる軽い音の後に、耳にしたくて堪らなかった声が続く。「貴女という人は。あのような所で一体何をしていらっしゃったのですか」「チェ・ヨンさん…」待ち望んだ低い声が沁み入って、じわりと目蓋が熱くなった。身も心も通じ合う前は、1週間もの間、遠く離れていた事だってあったのに。今ではたった3日顔を見られないだけで、自分の中から何か大切なものが、まるで砂のように呆気なくこぼれ落ちていく気がして。典医寺で忙しい毎日を過ごしていても、ふとした瞬間チェ・ヨンの事を考えてしまう…
随分泣いちゃった。ヤダな。目が腫れてるかも……しゃくり上げていたのがようやく収まって、私は大きく息を吐いた。と、私の髪を撫でていたヨンが、あ、と呟いて身体を離し、懐中から取り出したものを、私の目の前にぶら下げた。「これは貴女のものですか?」「あっ、それ……!」ソウルの露店で買った、アオライトのペンダント——「そうよ、私の!天門潜る時に吹き飛ばされちゃって……えーっ、何で貴方が持ってるの⁇」「不思議です……当初は貴女のものかどうかも、分からなかったのに。貴女が過去にいらしたと
鉦(かね)や太鼓が打ち鳴らされ、語りの男が声を張る。“さぁさぁ、皆の衆お立ち合いお立ち合い今宵は我らが高麗の守り神大護軍様のご婚礼だ!鉄原あげての祝宴だ〜!!……何?家で旦那が待ってる?そんなものは放っておけ(笑)いやいや、ここへ連れて来れば良い寝たきりの老母が?おぶって連れて来れば良いほぅれ、ご馳走もたんまりとあるぞ(笑)何なに?愛人(おんな)と約束がある?(爆笑)おおっと、これはどうするべきか……ここへ連れて来ると嫁と鉢合わせ(笑)おめでたい日に揉め事か……ちょっと
天帝の怒りをかった織女と牽牛はとうとう引き離されてしまった天の川をはさみ牽牛はその東側織女はその西側果てしなく広い銀河に遮られ逢うことも、その声を聞くことさえ叶わないふたりは互いを想い泣き暮らしたという西王母の突き上げを喰らった天帝は年に一度七月七日にふたりを逢わせること約束したのだが…その逢瀬が終いを告げると牽牛と織女は別れの哀しみに大粒の涙を流し続けたその日に降る雨を、人は洒涙雨と呼ぶのだそうな🍷🍷🍷「医仙、この空
※『とわになぐ』こちらは、拙作『菊花恵愛』『相聞歌』からの続編です。そちらを済まされてからお読みいただけると、お話が繋がります。よろしくお願いいたします♡(^人^)◆凪ぐ(和ぐなぐ)……心が静まりおさまる。穏やかになる。なぐさむ。なごむ。風がやみ海面が静かになる。風波がおさまる。[広辞苑より]............................................................朝。目覚めた時に、一番に見たい顔。一番に聞きたい声。一番に
ソン・ユの護衛をし、開京に着いた時には、城門にアン・ジェ率いる禁軍が出迎えに来ていた。「断事官。お疲れでしょうが、王様がお待ちです。宣仁殿(ソニンデン)へご案内いたします」アン・ジェが頭を下げ、ソン・ユに告げる。輿が進み出すと、俺の所までやって来て、「ご苦労だったな、チェ・ヨン。だが、お前もこのまま一緒に来い。……との仰せだ」——王様が。と、すれ違いざまに言う。俺は頷いて見せ、ソン・ユの輿の横に着く。奴の高祖父の日誌。100年前の女人の記録。イムジャが持っていた天の書。そ
己れの鼻先に、イムジャの纏う花の香り……イムジャの行動を予測出来ていた俺は、飛び込んできた柔らかな身体を、驚く事なく受け止めた。“はぐ”というのだそうだ。ただ…愛情表現だけでなく、親愛の情や感謝、慰安の時にもするのだ、というところが、若干気に入らないが。イムジャが俺にする“はぐ”は、まごう事なく愛情……俺は夫ゆえに。他の者とは違うのだ。アン家の客間に居た時から、イムジャはずっとおかしな様子だった。奥方の年はいくつか?随分若いのだろう、と言い出したあたりから、もしや…とは思っていたが。