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「神戸ニニンガ日誌」(第3,008号)〇麻原彰晃らの死刑執行から5年。オウム幹部に殺された坂本弁護士の先輩・岡田尚氏は「死刑反対と言いながら触れなくなった」と言い「自分は卑怯だと思った」〇坂本弁護士一家は1989年にオウムの6名(村井秀夫、早川紀代秀、岡﨑一明、新実智光、中川智正、端本悟)により殺害された。妻と1歳の子にも手をかけた。〇岡田氏は殺害される二日前に坂本弁護士と食事を共にしていた。「人権弁護士」として死刑反対を公言していたが、5年後の遺体発見時検察に「処罰感情」を聞
【※当ブログを初めてご覧の方は、「はじめに(このブログの目的)」からご覧ください】ひかりの輪では、サリン事件をはじめとする一連のオウム事件について、当時オウム真理教に所属していた者達が中心となって、その原因を研究し、反省・総括する作業を重ね、その成果をインターネット上で公表してきました。特に、当ブログで公表している内容については、オウム事件を解明するための資料として、以下の通り、マスコミや研究者の間でも注目され、評価されてきました。まずはじめに、当ブログの内容は、2008年
■はじめに(このブログの目的)┃┣●サイトマップ(全体の目次)┣●オウム時代の反省・総括の概要┣●反省・総括に基づく各種の取り組み┃┣オウム事件被害者への賠償┃┣出版物・報道・講演等での反省・総括の公表┃┗アレフ(オウム)脱会支援活動┗●当ブログに対するマスコミ報道と識者の評価■団体総括(本編)┃┣●『オウム真理教時代(1983~1999年)の総括』┃┣【0】『オウム真理教時代(1983~1999年)の総括』目次┃┣【1】1983
このブログに掲載した、オウム時代の反省・総括の概要について説明します。総括をまとめていく作業は、まだまだ途上にありますが、2007年~2017年の時点でまとめたものを随時掲載しています。まだ不十分なもののため、今後も引き続き、あらゆる角度から検討を加えて総括を深め続け、社会に還元できるものを作り上げていこうと努めております0.総括作業の概要ひかりの輪では、団体発足時(2007年5月)に定めた、基本理念や会則(※1)に基づき、オウム事件やオウム・アレフ全般について、その誤っていた点を振
この「団体総括〈本編〉」のコーナーでは、ひかりの輪として作成した、オウム真理教・アレフ時代を時系列的に振り返り、その経緯を総括・反省する文書を掲載しています。また、その反省に基づいて、ひかりの輪が今後進むべき道についても述べています。(※以下は、このコーナーの目次となっています。それぞれの項目の表題をクリックすると、該当のページに移動できます)1.『オウム真理教時代(1983~1999年)の総括』オウム真理教時代(1983~1999年)を、麻原彰晃こと松本智津夫の言動や、教団の出来
この「団体総括(テーマ別)」のコーナーでは、いくつかのテーマに沿って、これまでまとめてきたオウム真理教や麻原についての総括や、「ひかりの輪」が今後果たすべき償いについて掲載しています。(※以下は、このコーナーの目次となっています。それぞれの項目の表題をクリックすると、該当のページに移動できます)1.麻原の変遷の経緯の総括オウム真理教の時系列的な事実経過を踏まえて、麻原の変遷についてまとめた文書です。麻原は、自己中心的で誇大妄想的な性格であったところ、時を経るにつれて被害妄想的になり
この「上祐史浩個人の総括」のコーナーは、上祐史浩(「ひかりの輪」代表)個人が書き記した、オウム真理教・アレフ時代を総括・反省する文章を掲載するコーナーです。文章が書かれた時期は、2007年3月の、オウム真理教の後継団体「アレフ」(現aleph、旧アーレフ)脱会時から、2012年末までの時期です。(※以下は、このコーナーの目次となっています。それぞれの項目の表題をクリックすると、該当のページに移動できます)1.『上祐総括:オウム入信から現在まで』上祐史浩がオウム真理教の前身・オウ
この「指導員・会員の総括」のコーナーは、元オウム信者である「ひかりの輪」指導員それぞれの個人の総括と、専従会員(スタッフ)や会員による陳述書を掲載するコーナーです(指導員のうち上祐史浩の総括については、こちらのコーナーをご覧ください)。一人ひとりが、あのような悲惨な事件を起こしたオウム真理教という教団に、なぜかつて属し、それを支え続けてしまったのか。そして、そこからどのような葛藤を経て、オウム・アレフの信仰から脱却し、脱会し「ひかりの輪」に参加するに至ったのかなど、思い思いに自分の言葉で
ひかりの輪は、2009年にオウム真理教犯罪被害者支援機構との間で被害者賠償契約を締結し、継続的に賠償金のお支払いに努めさせていただいています。賠償契約の内容やお支払い状況についての詳細は、以下のページをご覧下さい。・オウム事件被害者組織と締結した賠償契約・被害者賠償金のお支払いについて〈お支払いの最新状況〉・被害者賠償の経緯と現状について
「ひかりの輪」では、当ブログ掲載のオウムの反省・総括の内容を、当ブログのみならず、出版物、マスメディアの取材、公開対談、講演などで広く社会に公表してきました。詳しくは、以下の記事をご覧ください。1.上祐史浩の出版物2.上祐のトークイベントでの対談・講演3.上祐のマスコミ・ネットへの出演等4.上祐以外のスタッフの出版物5.上祐以外のスタッフのトークイベントでの対談・講演6.上祐以外のスタッフのマスコミ・ネットへの出演等
ひかりの輪が、このブログに記されたオウム・アレフへの反省・総括に基づいて行っている、アレフ(オウム)からの信者脱会支援活動や、アレフへの入信防止活動については、以下のサイトをご覧ください。・アレフ問題の告発と対策
ここでは、私達の過去の20年以上に及ぶ経験を活かして、なぜ、麻原・アレフを盲信するかの原因や、その落とし穴と、その盲信からいかにすれば脱却していけるかを解説したいと思います。まず、アレフでは、依然として、麻原彰晃を、最終解脱者・シヴァ大神の化身として絶対視しています。さらには、麻原の関与した殺人事件についても、圧倒的な客観的事実・証拠があるにもかかわらず、「陰謀である」と主張したり、「わからない」と考えたりして、麻原を否定する理由とすることを避けています。こうした盲信に陥る主な原因
ここでは、オウム真理教を反省・総括し、オウムの教訓を残していく上で、有益な資料をご紹介します。特に、これまで「ひかりの輪」の団体を挙げて、オウムの総括を行った過程で、参考になった書籍などを中心に、ご紹介します。――――――――――――――――――――――――――――――――――――■「仏教」関係の参考資料●『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経』中村元訳※内容(「BOOK」データベースより)原始仏典の中にはブッダの生涯はほとんど記されていない。だが彼の死は、信
2008年12月1日、公安調査庁は、ひかりの輪にも観察処分が必要として、観察処分更新請求を公安審査委員会に行いました。その手続の中で、公安調査庁は、ひかりの輪の会員について、次のように主張しました。「ひかりの輪」の名称を用いて活動する構成員は、タントラ・ヴァジラヤーナの具体的な規範である結果のためには手段を選ばないとの教えを背景に、従来の活動形態を変更してでも麻原の意思を実現することこそが麻原に対する真の帰依であるとの信念に基づいて活動している。(中略)いずれの構成員も麻原に
1.J.K80代男性私はひかりの輪の専従スタッフの1人ですが、団体の末端に位置してきた者として感じたことを書かせていただきます。正直言って強制捜査が入るまで、まるっきり知らぬことだったので、まさしく青天の霹靂とでもいうような状態でした。信徒として4年半、出家して10カ月後のことでした。教団として普通の布教活動と並行してさまざまな事件に関わっていたなどとは、我々としては全く信じられないことでした。私自身に関して言えば、生まれた家は知的な雰囲気とは全く縁のない家で、仏教でいう逆縁の
1.40代男性私は、ひかりの輪の専従スタッフですが、今回の観察処分の更新請求に関して、以下の通り陳述します。1、私が、松本氏とVヤーナ教義を否定するに至った経緯私が、松本氏とVヤーナ教義を否定するに至った経緯については、アレフのような外部の情報を絶対に入れない事に対して、ひかりの輪ではどんどん外部からの情報を取り入れてバランスを取って、何が間違っていて何が正しいかという事を判断できるからです。あと過去の事件、オウムの教義についてみんなで話し合いながら総括を進めていくことによって、過去の
1.40代男性公安調査庁の更新請求の内容に、ひかりの輪がマハームドラーの修行の実践として、ひかりの輪を設立し、麻原隠しを行っているということや、私たちいずれの構成員も麻原に対して帰依し、麻原の意思の実現のための活動をしていると書かれているのを見ましたが、全く事実に反するため、以下の通り申し添えます。私は、麻原に帰依もしていなければ、麻原の意思の実現など、考えていません。麻原のことなどどうでもよく、それよりも、自分自身の心や宗教自体の是非について追求しています。私は、2002年の3月、
1.S私は、ひかりの輪一般会員です。2006年後半頃に当時のアーレフ代表派の説法会に初めて行って、その後断続的に平均すると2ヶ月に1回程度、説法会等に出席しています。その意味で、比較的新しい会員です。また、2007年2月頃よりひかりの輪のホームページの制作を任意で手伝いをしている関係で、ホームページ制作スタッフ(=専従会員)と打ち合わせ等を数ヶ月に一回程度行うことがあり専従会員と話す機会があります。以下は、私が見聞したひかりの輪の実状について記述します。また、同文章は私個人で作成し、
9.匿名30代女性私は、オウム事件の発覚後に、アーレフ(現Aleph)に入会しましたが、その後、アーレフを脱会して、現在は、ひかりの輪に所属して、主に東京道場に通う在家の会員です。ひかりの輪では、一般の仏教・ヨーガの書籍や仏教辞典から引用して基本的な仏教・ヨーガを学んでいます。それは、麻原死刑因などの特定の人物への絶対的な帰依や、自分の存在意義をエゴイスティックに高めるものでは全くありません。現に、ひかりの輪では、麻原死刑因が否定をしていた日本の聖地・仏閣などを多く訪れますし、
1.匿名男性私は、オウム真理教に94年に入信し、以降アレフ、ひかりの輪と信徒、会員として信仰を続けております。今回、公安調査庁が出された更新請求書はあまりにも事実とかけ離れた内容であり、いったいどのような根拠があってあのような発表をされたのか全くもって理解に苦しみます。アレフ時代には、たしかにグルへの帰依が最大で最重要でした。そして、2007年5月のひかりの輪発足当初には、私の心の中にも、グルへの帰依はまだ十分には断ち切れていない部分もありました。しかし、ひかりの輪に入会してか
7.匿名男性私は、ひかりの輪の在家の会員ですが、ひかりの輪が麻原に帰依をし、麻原の指示にしたがってテロ等危険なことを起こす団体とは考えらません。もしそうならば、私自身が、この団体にかかわることなどは絶対しません。何が、麻原隠しと言われることなのかはよく分かりませんが、麻原への信仰は、確かに以前のアーレフ時代にはやっていました。しかし、新団体のひかりの輪になってからは、松本家への関わりがないことや、今までのいろんな場面をとおしての勉強会やセミナー等の内容からしても、まずありえない
1.T男性この間、ひかりの輪の会員として実際に体験したことの事実を偽らず記載いたします。そして以下の事実から私は、ひかりの輪はオウム真理教とはまったく関係のない団体であることは明瞭ですから団体規制の対象としていただかないようにお願い申し上げるものです。①経典、書籍について道場において現在オウム真理教の書籍がおいてあることを一切見たことはありません。また、支部長やスタッフの方が道場で行った勉強会等で使う教材はひかりの輪の独自のテキストのみです。②教義についてひかりの輪の教義
会員C『オウムの事件と病理の総括』目次【1】総括の概要【2】オウムと出会ってからひかりの輪になるまで(1)【3】オウムと出会ってからひかりの輪になるまで(2)【4】オウムと出会ってからひかりの輪になるまで(3)【5】参考:生い立ちからオウムと出会うまで
2017年3月小林由紀1,現在の私の麻原に対する見方現在私が麻原のことをどのような人だと思っているかというと、簡単に言ってしまえば、幼少のころからの環境の影響もあるかもしれませんが、もともと自信過剰で支配欲が強く、それが人類すべての支配までに肥大しており、人の弱みを探してはそこに付け入って巧妙にコントロールして自分を神格化、絶対化させ、絶対的権力によって自らの狂気的誇大妄想を実現したかった傲慢な人、そして哀れな人だと思っています。
2008年9月2日小林由紀1.オウムと出会う私は、24歳の頃には「どこかの寺に出家して尼さんになりたい」と思っていました。それは、不毛の恋愛に疲れたことが大きく、本気で魂の救いを求め、また、地球の平和と人々の心の平安のために生きて行きたいと思いました。お付き合いしていた男性とは、遠距離になり、電話ではまだ話していましたが、もはやそれが苦痛になり、もう他の人と付き合う気力もなく
◆1992年「ロシアツアー」「スリランカツアー」「キーレーン」92年3月頃「死と転生」のロシアツアー、5月にはスリランカツアーがあり、その後歌の編曲や「26曲集」という、オウムの歌の楽譜本の制作をしました。その頃私は無言の行をしていたのですが、それにはいきさつがありました。その頃にはすでに、例の担当の大師(以下U師)に愛着していて、そのせいで腹が立つことが増え、ある日ちょっとムシャクシャしていた時に、その師と2人で新しい曲を聞いてもらうために麻原の部屋に行った時のことです。私が部屋に
5.教団改革◆2002年~2003年この頃は、ミロクという部署で、コンサートのかたわらサマナの相談に乗ったり、お供物と呼ばれる食材を分けたり毎日の夜礼などをしていたと思います。依然意識は社会に対しては閉鎖的でしたが、住民の方などと会うと、個人的にはわりと親しく話せる気がしました。それは、第4サマディでの経験があったからだと思います。音楽においては、松本サリン事件の被害者である河野さんに宛てて曲を作って、それを受け取っていただけたことがとても嬉しかったです。河野澄子さんのお見舞いに行
1.霊的に敏感だった幼児期まだ1才にも満たない頃だと思いますが、天井を見つめて、なぜ自分はこのように小さな身体に閉じ込められているのだろう、なぜ空を飛べないのだろうと、ものすごい閉塞感にもがき苦しんでいたことを覚えています。幼児期(3~5才の頃)は長野に住んでいましたが、志賀高原の山の中に行った時に神様がいると感じたり、千曲川を見つめながら、なにか「向こう岸に渡らなければいけないんだ」という強迫観念に襲われひどく悩んでいたり、ちょっと変わった感受性を持った子供だったと思います。よく熱
会員B『総括』目次【1】『総括』(2017年版)【2】『総括』(2008年版)