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御寺泉涌寺の続きです時間が掛かりそうな御座所や庭園はショートカットしましたが、境内をふらふら泉涌水屋形泉涌寺の寺号の由来となった清泉を覆う屋形で、寛文8年(1668年)再建のもの清泉は今も涌き続けています清少納言歌碑清少納言歌碑と隣には供養塔みたいなものが建っています清少納言歌碑夜をこめて鳥のそら音ははるかとも、よに逢坂の関はゆるさじ清少納言は、一条天皇の中宮定子に仕えました晩年は定子が眠る鳥辺近くの東山月輪に隠棲して、余生をおくったそうです経蔵昭和12年の工事に宮内庁
この記事は2022年に私が体験した事を「回想」として綴ったものです...富士山最古の登拝道「村山道」は、春夏秋冬様々な姿を見せてくれます。ふじ爺はこれまで何度も歩いていますので、これまでのベストショットを織り込みながら綴っていきます。8月4日...7月29日PM17:34に海抜0mの田子の浦鈴川海岸をスタートして、村山道での勤行先(札打ち)及び修行場を巡拝しながら、約24時間32分37.9km歩き続け、「村山口旧四合目(現富士宮口新六合目)」の雲海荘に宿泊。(1泊目)
便秘と鬱の私達が歩き始めた理由はこちらお散歩の整理はこちら【本日のコース】→東武日光駅→大谷川河川敷→日光東照宮→奥院→薬師堂→神橋→湯波湯源→神橋バス停~→東武日光駅外苑東通りこの辺りは真っ直ぐだから安心4km1時間(呑と見学は除く)【竜さんのプラン】Y先週上野の東照宮行ったでしょR行ったねキンピカだったねY竜さん私ね昔、日光の東照宮に行ったけど忘れちゃったからもう一度行きたいのRえぇ~
ヒーリングサロンDesertRoseです。スーパーバイザーのえりさんのスーパービジョンを久しぶりに受けました。前回のライトワーク後、再度、ライトワークに呼ばれ、神さまの依頼のライトワークをする為に、必要な叡智や物を頂いたので、その調整や使い方などを教えてもらったり、自分のメンテナンスも含めて。神の定義も色々ありますが、今回は「神を信じる」がキーワードでした。神社に参拝してはいけない宗教家に何年かを育ててもらった私が、ライトワークに神社、仏閣に行くようになり、最初に口火を切る時が1番
JR吉祥寺駅から北西方向に歩いていると日は西にかたむいてもうすぐ日暮れの時刻です。この日の旅は長くてどうやら本日のお散歩はここで終わりとなりそうです。通りに面した道を歩いて通りががった八枝神社です。小さな神社様ですがここは明治期には消防団の詰め所があって使わなくなったその消防団の詰め所に御祭神を近代に勧請し迎えたそうです。神社やお寺の敷地は江戸時代が終わり廃仏毀釈や神仏
さてさて………………【等持院】を出発し、間もない近くの場所に鳥居が見えてきたっ【等持院】南東に鎮座するのは……………【六請神社(ろくしょうじんじゃ)】京都府京都市北区等持院中町53「ろくしょう」と読むんだ難しい【狛犬】立派な神社だ古来、【衣笠山】麓に鎮座していたので『衣笠御霊』とも『衣笠岳御霊』とも呼ばれ、その山に鎮まる先人の霊を合わせ祀ったことに始まるという。おそらくは、上古この地の開拓者の代々の霊を祀ったものであろうと推察される。昔は、開拓の祖神を天照国照大神(あまてら
みなさんこんばんは~(*^^*)ヨドバシカメラで取り寄せ品のコンセントを2日に注文まだ来ない…店舗引き取りですよ状況も注文した時のまま…ネットで買えばよかった吹田市江坂の素戔嗚尊神社です実はたくさん名前があるんです感神宮でもあり江坂神社でもあります神仏習合で牛頭天王社・感神院となり、神仏分離で感神宮素戔嗚神社になったわけです境内の様子…その神仏分離で廃寺にならなかったのでしょうか?今も臨済宗の寺院として残っています手水舎…もしかして井戸からくみ
和歌山県田辺市の鬪雞神社。明治の神仏分離の際に、社名を変更したそう。お名前は聞いた時ぴんとこなかったのに着いたら涙がボロボロこぼれてびっくりした。知ってるみたい。
みなさんおはようございます~(*^^*)朝晩は寒くなってきましたねまあ冬ですからね仕事が少し遅れてます…忙しくなりそうです東大阪の若江岩田の石田神社(いわたじんじゃ)摂社です…ここには本来お稲荷さんだけのはずなんですなぜか?…実は明治の時の村社になった時神社側か氏子側かどちらも両方か?本殿に加えることを嫌がったのでしょうか?祭神に配祀として天照大神天児屋根命が加えられましたが、摂社にいます…ですから、お稲荷さんの雰囲気は少し消滅してるんです榊とお供えぐらい
皆さんご存知のように、現在の寺社は神仏習合と分離を経ているとこが大半です。神仏分離に際して、神社からは仏教色を、寺からは神社色を排除するといった明治政府の雑は政策により、今の寺社の礎ができたわけです。神社として継続するのか、寺院として継続するのか、政府に逆らい保護を拒絶してでも己らの信仰を守るかの、だいたい三択だったのではないかと思います。規模の大きな所は、神仏習合時には僧侶が祭祀を行っていたとこが多く、それらが神社になるには、僧侶が還俗して神職になったり、その逆もあったわけで
久能山東照宮二の鳥居をくぐると、左上に鼓楼(ころう)が見えました。創建当時は鐘楼でしたが、明治時代の神仏分離の際、鐘を太鼓に替えて今の名称に改められたそうです。太鼓は明治6年旧幕臣小島勝直氏が江戸城にあったものを奉納したと伝えられているそうです。
久能山東照宮鼓楼(ころう)です。創建当時は鐘楼でしたが、明治時代の神仏分離の際、鐘を太鼓に替えて今の名称に改められたそうです。太鼓は明治6年旧幕臣小島勝直氏が江戸城にあったものを奉納したと伝えられているそうです。二の鳥居をくぐりました。
厳島神社の御祭神は市杵島姫命で、もとは弁財天社でしたが、神仏分離により厳島神社となったそうです。
久能山東照宮楼門の裏側には家康公の手形がありました。左には五重塔跡がありました。三代将軍家光公の命により寛永12年(1635)に着工、寛永13年正月に完成しましたが、明治時代の神仏分離の際に取り壊されたそうです。久能山東照宮の説明書きと、家康梅です。
先ほど紹介した金刀比羅宮から少し離れた場所に、賢長寺社という寺社がある。かつては寺院も神社も、神仏習合ということで同じ場所で信仰の対象として扱われたことがよくあったが、明治元年に神仏分離令が発令され、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させる、という動きがみられた。しかし、明治五年に神仏分離令が停止されたこともあり、各地では、「寺社」という名前で、神仏習合が引き続き行われたことが伺える場所がある。その一つが、玉名市下にある賢長寺社である。
大湊駅に着いてお昼を食べようと外に出るとこの日は30度を越える暑さで、食堂まで歩くのを諦めて、近くにある大平神明宮に行ってみます。古い拝殿があり、広い境内には忠魂碑などの石碑が並んでいて釜臥山がよく見えます。元は新高観音堂で、明治の神仏分離で十一面観音像が大覚院熊野神社に移されたとのことです。https://www.aotabi.com/ao/mutu/oohira.html大平神明宮(むつ市)このサイトではむつ市(下北半島)にある町並みや歴史的建築物などの見所や由来、写真などを掲載し
地域的に縁も所縁もない地域ですが佛神はそうした所へもご縁をつないでくださいます。英彦山のある福岡県東南部、この年までほぼ近づいたことない地域でしたが無事たどり着いてお詣りさせていただけました。お詣りできたは基本、歓迎ととらえてよい、いろいろな所で聞く話です。日本中どこへ行っても拒まれることはほとんどない。お蔭様で、ですよ、大師か、春日明神か、伊弉諾さんか、ちょっと知りたくもあり、探りすぎん方がいいのかと思ったりですね。今のところ、具体的な何かで見ていただく気には
新四国曼荼羅霊場第16番象頭山普門院松尾寺(まつおじ)御詠歌見上ぐれば心も清き象頭山金の御弊に神ぞまします詳細●祭神/釈迦如来●開山/役行者(神変大菩薩)●創建/大宝年間(701)●所在地/766-0001香川県仲多度部琴平町973●電話(0877)75-3612紹介金毘羅とは、蛟竜などに訳される梵語「クンピーラ」の音訳で、実際にはワニであり、水神として尊崇された。開山は大宝年間、神変大菩薩といわれ、その霊験あらたなることが天下に広まり、天平宝宇6年(762
那智山にある青岸渡寺と熊野那智大社は隣り合った場所にあります。青岸渡寺、世界遺産神仏習合時代は那智大社の一部でした。ここは西国三十三ヵ所の一番札所だった為に、明治の神仏分離の際に仏堂を廃せず、後に青岸渡寺として復興しました。本堂。重要文化財。なんと言っても、青岸渡寺の境内からは那智の滝を見る事が出来ます。すぐ隣の熊野那智大社もちろん世界遺産拝殿熊野三山の1つです。木の中を潜る場所がありました。樹齢八〇〇年のクスノキだそ
◇筑波山にある大御堂(おおみどう)は、真言宗豊山派の寺さんで、新しく切り絵御朱印がいただけます、大御堂は明治初年の神仏分離によって、廃寺となったが現在は東京都文京区にある、真言宗豊山派大本山護国寺の別院。
御祭神●伊邪那岐命(イザナギノミコト)●伊邪那美命(イザナミノミコト)●天児屋根命(アメノコヤネノミコト)●伊斯許理度賣命(イシコリドメノミコト)●市寸島比賣命(イチキシマヒメノミコト)●仲哀天皇(チュウアイテンノウ)ー帯中日子命(タラシナカツヒコノミコト)ー●応神天皇(オウジンテンノウ)ー品陀別命(ホムダワケノミコト)ー
いつもお参りしてる真勝院さんで、弘法大師空海さんの生誕祭のことをお聞きしていました。でやっとこさ行ってきました、高野山50年に一度の生誕祭。高野山ふもとの紀の川。下流でもこれだけキレイな流れ近くの天満神社さんへ。街一面をみおろす狛さん。良い横顔だねぇ〜境内のネズの木。漢方にも重用されてる木花崗岩の上に、生息する事が多いそう。岩の上で根を張るから、ねじねじと育って、根をしっかり張ってるのかな。その昔天満宮だった天神(男神)、天満(女神)ちゃんと両方お祀
~ご自愛Chi氣功®️で「生きる」を心地良く!~「氣」を効率良く取入れて自分&家族&ペットに癒やしと代替療法を中医学(中国古代療法)基盤の気功技術をお伝えします。とにかく簡単・シンプル!どなたにでも出来ますよ♪詳細は★こちらからみなさま、こんにちは。何はともあれ先ずは自分!「ご自愛Chi氣功®️」の堺市Ryuga氣功院&松山市いろりの古民家龍氣庵氣功師龍鵞(りゅうが)です。宇佐神宮は神様と仏様が出会った場所。神仏習合の聖地でもあります。明治維新で神仏分
瑞穂町から武蔵村山市へ戻って、須賀神社にやって来ました。須賀神社のほとんどは、明治の神仏分離まで牛頭天王社でした。「君の名は。」で有名になった四谷(新宿区須賀町)の須賀神社もそうですね。現在は素戔嗚を祭神として祀っています。寛政二年(1790)に創建された須賀神社は、後に熊野神社や愛宕神社等を合祀しています。地域に点在する神社の合祀は各地で見られますが、全てそのまま残っていたら、一体どれほどの神社があったのでしょう。日本は、祈りと感謝が日常的に根付いた文化を持つ国なのです。
お不動さまと出会う旅(13)第十九番札所【降魔不動尊】岩手県盛岡市永福寺ーえいふくじ(真言宗豊山派)御本尊大聖歓喜天尊盛岡市の永福寺さんに到着し、墓地の前にある僅かなスペースの駐車場らしきところに車を停めました。入口と思われるところには注連縄がされている鳥居があり、自分が知っているお寺の雰囲気ではありません。その鳥居の横には水掛不動尊が祀られておりました。そして「宝珠盛岡山永福寺」という寺標(石柱)があり、盛
法明寺脇の狭い路地裏をふと威光稲荷堂奥に深い参道水盤がいくつか・・・入口から朱塗りの鳥居、参道はまるで迷路のよう威光稲荷堂は西暦800年頃、慈覚大師がこの地を行脚していた途中雑司が谷の森で一筋の光を見つけ、そこに美しい姿の稲荷神が現れ慈覚大師はその光明が強いことから「威光稲荷大明神」としてここ雑司ヶ谷にお堂を建てて祀ったそうですもともと鬼子母神も擁する法明寺の一部でもありましたがしかし江戸時代の中期頃より始まった神仏分離の結果寺である法明寺と、神
安田屋小鹿野本店でわらじかつ丼を食べた後、小鹿野の街の中心にある十輪寺に寄っていきます。古い旅館の先に参道の入口があり、住宅の間を進むと仁王門に出て、黒い仁王像が並んでいます。広い境内には枝ぶりの良い松があり、本堂の庇の天井に動物が描かれています。本尊の鎌倉時代の十一面観音像は、秩父札所の十五番が明治の神仏分離で秩父妙見宮だった現在の秩父神社の領地にあったため廃寺になり、移されたとのことです。https://www.photo-saitama.jp/temple/chichibu/chi