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苦の研究youtubeウェーサーカ祭苦の研究ですが私は、今年の春、大学病院に10日間手術をしたので入院をしていました。毎朝、目が覚めると骨髄炎の痛みはどんな感じかな、と、恐る恐る少しずつ自分の身体を動かしてみて期待してだめ期待してだめ大丈夫、大丈夫と、痛みの具合を確認する目覚めでした。なので、今年の春にはこの苦の研究のyoutubeをどれだけ見ていたことか。こちらは、スマナサーラ長老の法話をもとに作られたものです。私の好きなイミーウーイさ
心に自然に喜びが起こる現象が、歓喜なのか?渇愛なのか?今までの人生はどちらかというと苦しいと感じてしまう事の方が多かったから、喜びが起きた時に、どう振る舞えばよいか?が、全くわかっていない事に気付く。幼少期に培ったベースが卑屈だと、今が嫌で逃げたいから、少しばかりよい事が起こると、すぐ浮かれてしまい、またすぐに落ちる、というのを繰り返してきた事に気づき、この5年ぐらいは、喜びという感情は、渇愛なんだなという観念が作られてしまい、全く笑えなくなってしまった
心も体も、今の状態になっているのは、そうなるべき理由があってなっているのだから、それを無理に変えようとすると、抵抗するのも原理原則なんだな。無理に変えようとする事自体が、渇愛か嫌悪の感情の紛れもない証拠で、もっとよくしたいという渇愛か、今がよくないという嫌悪か、ようは、なんでも欲しがる欲張りさと今を逃れたいという覚悟のなさ、これが、無意識の領域にあると、一時的なエネルギーにはなるけど、これでは自分は、長続きはしない。このエネルギー源が根源の人で長続きする人は、観念
本当はできるのに、方向性を間違えている人に無意識に合わせて、無意識に馴れ合いに陥ってしまう。お互い指摘し合わないから、一件楽ではあるが、そのぬるま湯に嫌気が差してくる。渇愛と嫌悪が根源エネルギーが乱高下の因果なのは、重々わかるが、この嫌悪感から、本気に人に左右されない人間になるエネルギーに昇華させよう。
心というのは、ころころかわるから、ろを一個とって、こころ、と言うらしい。正しい教えをいくら学んでも、いくら実践しても、それが薫習しなければ、頑張り続けなくてはならず、頑張って続けているうちは、結局苦しくなってきて、崩壊してしまう。だから、信忍から、信楽という楽しめる境地に入っていくと、能力がないと、長くは楽しめない事に気付き信欲という意欲が湧いてきて、それが普通になれば、精進が普通にでき、精進が普通にできたら、信念が生まれ、禅定に入り、智慧がつく、という理
おはようございます火曜日の朝です。連休明け、張り切って参りましょう自分が孤独と感じる人は人の温もりに焦がれるものです。愛には渇愛があります。渇愛に取り憑かれてしまうと相手を間違えて選んでしまいます。大切なのは、相手選びです。釈尊は温もりを求める相手選びに対して以下のように説かれています。「もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。」「しかし、も
仏法では渇愛と言われているものがあります。しかし瞑想において知識は知りつつもゼロ状態から探っていくことが大事です。すると「味わい」というものが出てきました。死を恐れ、生きることに執着し、生きることとは感覚を味わうことであるということであると。この味わいが渇愛に等しいといえるかもしれないという感覚があります。味わうことに執着し、そこからあらゆるものが生じ、死を拒絶し、輪廻が起きる、とも言えるか
梵釋(Brahma&Indra)のブログにお越しいただきありがとうございますm(__)m❣。本日、10月5日は「達磨」さんの命日です。達磨さん...って言えば『坐禅』をおもいうかべますね~~~❣。実は私、Indra(T.Syoji)は12年間、月一回、第3土曜日に坐禅を組みに行ってます🎶。地元の、黄檗宗.天龍山『梵釋寺』と言う禅寺です、実は梵釋(Brahma&Indra)の名前の由来なのです。御本尊:『宝冠阿弥陀如来』(日本最大.最古)脇侍:梵天(Brahma)帝釈天(Indr
御釈迦様は、人間には、五根五力という5つの根と、5つの力があると言うが、根っこのまま人生が終わる人と力まで転換できる人がいるのも事実だな。渇愛と嫌悪でないただただありのままの五根五力を感じられるような生き方をしたい。
ほら、よく自分の感情を観察してごらんなさい。私達は直ぐにああだこうだと考えるでしょう?そして決めつけるでしょう?これが生きる事を苦しめているのです。自我という錯覚があるから、自分にとって都合の良い事ばかりを考えるのです。真理は全く観えていないのですから、何事も思い通りには行きません。行ったつもりでも直ぐに悩みが始まります。これらは全て渇愛から来ているのです。この人間のシステムを学んで、自我という錯覚から来る渇愛を抑える訓練をしないと、心の落ち着きは永遠に来ないのです。毎日がうまく行っていな
得られ満足せしめるものではない。渇愛、元来満足せしめるものではない。性欲、触れる喜び、捨てた。ゲームもそう。得られ満足せしめるものではない。得られ満足せしめるもの、愛著、ない。四聖諦、苦、集、滅、道。
無明ありて行あり、行ありて識あり、識別作用が発生しても、自分と他人を接触させなければ、渇愛と嫌悪は発生しないのだから、識別作用が発生してしまったら、すぐに、般若心経と念仏に思考を移行して、思考には、実態がない事を改めて認識するようにしてみよう。前よりだいぶ気付けるようになったから心は成長している。御釈迦様、親鸞さん、道元さん、真理を伝えてくださっている偉大な諸先輩方々、有難う御座います。これでよいのだな。
おはようございます新しい1週間が始まりました末っ子は2学期、ずっと不登校です今日も今週も学校には行かないのかな~では、気を取り直して仏陀の言葉です相手が今何を求めているか、何に苦しんでいるかを想像することが思いやりです。その思いやりが愛なのです。しかし誤った愛は、自分を愛してもらいたいから、相手を愛する。それは本当の愛でなく渇愛です。相手を愛していると思い込み、実は自分自身だけしか愛していない。これは愛の崩壊につな
こんにちは!恋人との付き合いは楽しいこといっぱいの一方辛く悩むこともたくさんあると思います!主な悩みは基本的に渇愛だったように,思い起こされます!「自分の気持ちがこれだけ大きいから,相手もこれだけの気持ちを自分に向けてくれてもよいやん!その気持ちを見える形で示してほしいや!」しかし,そんな自己本位な気持ちは上手く行くはずがなく,そのことも知っているからこそ,渇愛と葛藤し,さらなる煩悶が募る心境...正に人間関係の修行ですが,その分,人間
佐々木閑さんと宮崎哲弥さんの本です。さわりのところをどうぞ。ユヴァル・ノア・ハラリによる世界的ベストセラー「サピエンス全史」には仏教に関する興味深い記述がみえる。「心はたとえ何を経験しようとも、渇愛をもってそれに応じ、渇愛はつねに不満を伴うというのがゴーダマの悟りだった。心は不快なものを経験すると、その不快なものを取り除くことを渇愛する。快(こころよ)いものを経験すると、その快さが持続し、強まることを渇愛する。したがって、心はいつも満足することを知らず、落ち着かない。痛みのような不快なも
吉原理恵子先生の近親相姦BLと言えば『二重螺旋』シリーズが有名だが、私は『渇愛』のほうが好きだった!なんで過去形かというと、捨ててしまったのです、嫁入り前に(泣)結婚前、猫をかぶっていた私はオタクをひた隠していたのです!「こんなBL本、新居に持ち込んだら、ダーリンきっとドン引きするわ」と思い、大昔に泣く泣く捨ててきたのですが、結婚してから主人が私以上の変態だと知り、なんだ、捨てなくてよかったじゃん!って思いました。最近になって『渇愛』がアマゾンキンドルの電子書籍でも発売されてい
笑いは最強のチカラ、人生は楽しんだもん勝ち‼️仏の説かれる道へ日々精進🎶ねこさんのブログを読んで、「あー、たどり着いたんだなー」って思いました。そして、これはスゴい事だと、感動さえしてしまった満たされた…という感覚…たぶん言葉では説明できないです。一生懸命に熱弁しても、わからない人にはわからない…のだと思う。仏教で「渇愛」ということを教わりました。「愛」とは欲を表します。もらってももらっても…欲しい。とめどなく欲する。渇いて渇いて…キリがなく欲する。これも人間の姿です。人間
後悔のない生き方を、と思うものの本当にそれを貫けるひとがどれだけいるのだろうできることはすべてやり切ったと「その時」は感じていても自分の思いやりのなさや優しさの欠落さ具合が浮かび上がってくるもっと愛情をもって接することができたはずなのに、とアプレ・ガールのお洋服たとえばわたしは保護犬猫の命を守る団体にごく少額の寄付をしていたこういう寄付行為はかつて一緒に暮らしたあのコにできなかったことをしていただけなのかもしれず自分の中の未だ埋め切れていない穴を埋めるためだけの行為
積極的に生きる、というのと、少しばかりできるようになって浮かれているのは、基本が全く違う。浮かれていたら、渇愛が生じているという原因から、のめり込むだけで、結局本質がわかってないから、息切れして長続きしない。その状態で、もし続いているとしたら、自我意識を強化して、自分の傲慢さや卑屈さを思い込みでかき消して、自分より弱い人と、相対比較をして、人より優っていると自尊心を満たしているだけだ。これを、どう転換していけばよいのか?中村天風先生の本をここ数日読ませて頂いてい
さこPANDAです🥐🐼覗いていただき、ありがとうございます日向さんの教えと繋がることが多い、お釈迦さまの教え。その教えを伝えてくださるおかもん先生の本を題材に、日向さんの教えとリンクさせながら、要点を捉えて簡潔にお伝えすることを意識して、発信しています心がほっとするほとけさまの50の話3章大切な「あの人」と、もっと心が通い合うお話すぐそばにある優しさは昼間の星の光のようなもの(P.144)満たす程もっともっとと欲しくなるそこにある愛決して忘れず誰もが持って
佐々木閑仏教講義8「阿含経の教え4,その76」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)-YouTubewww.youtube.com自分の心は自分しか直せない。ブッダは完璧な直し方をはっきりと教えてくれる。実際に直せるのはブッダではなく、あなた以外誰もいない。唯一正しい欲求は欲求を持たない自分を実現するという欲求なんだということです。…それが実現に近づけば近づくほど、その自分を何々にしたいという欲求も消えていきます。つまり目標を設定しておきなが
愛について、考えても。それは救いがたいものだ、と僕なんかは思う。仏教の影響を受けているからでもあるし、もともと僕はそう考えているのかもしれない。つまり愛は、仏教では渇愛(かつあい)と言って、苦しみのおおもと、原因。愛することは苦しみ。例えば、愛すれば愛すれば愛するほど、苦しみがそれだけ大きくなる。誰かを愛したとしても、その人はずっと僕のもとにはいない。いずれいなくなる。無常こころが変わるし、もともとそうなるべくして、離れてゆく。
人間だから、感情があって渇愛も嫌悪も許そう。ただ囚われなければいいんだ。
普通に生きる意味もわからずスペシャルを求め渇愛におぼれ沈没していくだろう君をみてとにかく、離れたい君から離れたい知らんぷりをしていくだろう僕達は。
僕たちは目に映る誰かに憧れて自分を一番見ていなかったりするものですね僕も昔はカッコイイキムタクに憧れて夜寝て目が覚めたら「キムタクになっていたりしないかな」と願ったものですでも朝起きて鏡を見れば起き抜けのむくんだ顔の自分が映っていますそのうち鏡を見ることもなくなっていき写真に映ることを拒絶する時期もありましたでも今では自分の姿を鏡でよく見るようになりました鏡に映る自分に「今日もがんばって行こう!」など心の中で声をかけたりもよくします自分
小さな時から私が求めていたものは、どんな環境でもそれを受け入れ楽しく生きていける心、唯唯それだけだった、と今更ながら気付く。今日は朝からその気付きと行動が無理なくリンクして、清々しい気分であったが、この時間になり、また胸が苦しくなり出している。この現象から考えられる事は、どんな環境にも執着しない心ができてきている事に渇愛が生じて、掉挙の状態で浮かれているからだと思われる。それか、どんな環境にも執着しない感覚がずっと続いてほしいと、その事に執着しているか?どちら
やれもしない事をして人に迷惑をかけるぐらいなら、身の丈に生きる事の方がよいが、身の丈に生きる事ばかりに執着している事に気付けなくなると、チャレンジ精神も弱くなる。だが、前向きなやる気を出すと今はそれが我欲と紐づいてしまい渇愛が生じてしまう。だから、ここからは、神聖なやる気、信欲というものがなんなのか?感覚でもわかるようにしていこう。
急に悲しみが襲ってきて、涙が止まらない。心がぶっ壊れている。この2週間本来ならば自分のすべき役割でない事を必要に迫られ、やれもしないのにやっている事が直接的な因果で、それをキッカケに過去に紐づいてしまっているのだろう。渇愛と嫌悪を断ち切る、過去も未来もなく今に集中する、というのは、言葉にすると簡単だが実際にやってみたらわかるが、小さい時からのそのような思考習慣がない人が身につけるのは至難の業だ。評論家みたいに綺麗事を言うだけでなく、やってみたらわかる。
心と体は繋がっている。だが、体からの五感の刺激、又は過去の怪我からくる慢性的身体的苦痛と心を連動しない訓練も必要だ。感じる事を鈍らすと気づけなくなるが、感じた事から渇愛と嫌悪に思考が移行しないで、唯だありのままに感じる、ありのままに受け流す、執着しない、だが得た気付きで、伸ばすべき事や改善すべき事に労力を配分していくこのような全体統治システムは、よほど訓練しないと出来ない。日々の日常生活ほど最高の修行なのだ。今日もよい一日にしよう。
三毒にリンクしない喜びの感覚の文章を書いた。その後から胸が痛くなってきた。この因果から推測すると、渇愛と嫌悪を断ち切る事に囚われている。般若心経を聞いて心のクリーニングする。