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独りひっそりビジネスを通して生き方が変わったいのまた健です感謝できる心は中庸な心に戻してくれる心が乱れた時はありがたいと思える心をライトコピーライターとして心に響く波動をあなたにいいねしてくれる方へ素直にうれしいですありがとうございます~~~~~~~~~~~~~~~~満たされていないことに気づいたら満たされていない人を観察しているとふとこの言葉がぼくに浮かんできます欠乏感が常にある仏教風に言えば渇愛かもしれません
無有愛(vibhavataṇhā,非存在欲)とは何か?――釈尊の言葉に立ち戻って再解釈する|スマナサーラ長老の切り抜き法話(初期仏教Q&A)#渇愛#仏教心理学#jtba※テロップ入りスマナサーラ長老の初期仏教Q&A動画をテロップ入りで再配信します。2020年12月31日(木)の配信から抜き出しました。日本語字幕作成:菊池まどかさん@字幕制作班サムネイル画像:冨田ひろみさん@サムネイル制作班Q:『欲ばらないこと』という著書で非存在(否存在)を好む渇愛(ヴィバワタンハー)がありました。無にな
父が亡くなってから先祖供養をしたいと思う気持ちがなぜだかとても強くなりました。お寺に心が向くことが多いここ数年です。そこから学んだ知恵を生活に生かすようにしています。その中で、渇愛という言葉を知りまさに今までの自分をさす状態であったことを悟った時のその衝撃といったらそれは、あるお寺の住職の説法から得た学びでした。仏教には十界と言ってさまざまな因縁によって人の心が定まる境地を説いています。信じるも信じないもその人の自由で
おはようございます4月4日の朝です今日も笑顔で始めましょう執着するなと言われても、生活に必要なのがお金です。必要以上にお金に執着すると、大金持ちになっても自分のお金が失わないように悩みます。お金のない人はないことで悩みます。このように執着は苦の原因となります。私たちの不幸の根本は「渇愛(執着)」から発しています。執着を断ち切れば、結果として欲望も消えていきます。渇愛による自己利益だけを達成するエネルギーは執着から生まれるので善い結果になりません。自利利他のバランスが大
嫌悪感も感じず、無関心にもならず、傲慢でもなければ、卑屈でもない。正当化もしなければ迎合もしない。優越感もなければ、劣等感もない。ただそれがある、ただそれを言う、ただそれを聞く、ただそれを行う、善悪も損得もない、そういう世界が、無心であり、無常であり、無我の世界なのかもしれないが、無、というのは、何もない訳ではなく、ありのまま、が有るというだけで、自我意識である、渇愛と嫌悪を超えた次元の事をいうのだ、と今の認識では、その言葉にならない感覚というものが、少
聴こえますか?こちら、「凪まち通信」です。今のあなたの心の波模様、どんなでしょうか?今晩は、つらすぎてここにはいられないっていう、心の高波がピークになったら、その力に委ねて逃れていってもいいんだよって、その運動が次の波をまた生んで、新しい浜辺に自分を連れていってもくれるんだからねって、知ってる人よ、どうかそれを、何かの形で誰かに伝えてほしい、と願っている人さんからのリクエストです。Coccoさん🎵潮満ちぬ🎵聴いてください。Cocco「潮満ちぬ」MusicVid
これは記録のためにつけています。あまり、気になさらないで軽い気持ちで読んでください。わたしはちょっとおかしい考えを持って生まれましたとにかく甘えたがりで誰かにずっと愛されたかったと今苦難の中にいて思うのです父も母も兄弟同様に愛してくれていたのでしょうしかし、わがままな身勝手な渇愛と言うのでしょうかずっとそれを求め思春期を越えるとそれを男性に求めるようになりましたあの頃は若くキレイだったからその性の対象と引き換えの愛情
あなたの大切なものは何ですか?わたしには何か欠陥があるようで愛とは何かと思いました。信じていた人、大切にしていた作品みんなじぶんの大きな渇愛という気持ちの中に消えていきそうです。あなたにはたいせつなものがあるわたしにはじぶんの護るべきこころざしがあると思っていたい今日か散歩に行ったら前を歩いている方が駆け足で行きます教えてくれているかのように家電量販店の電池があまりにも安くておどろきました感謝しています。わたしは甘かった。お人よ
今日はぐっすり寝れてスッキリ目覚められた。今日明日は大事な仕事があるから体調が整うのか不安であったが、よく寝れて疲れがとれたので、非常に有難い。毎日こういう気持ちで目覚められたら嬉しいが、それは渇愛に繋がるから寝れなくても、寝れなかったなりにやれる事をすればよいし、今日みたいにぐっすり寝れたら寝れたなりに、やれる事を精一杯やればいい。人生は長く生きればいいのではなくて、魂をどれだけ燃焼させて、誰かの役に立てるかただそれ以上それ以下でないので、まずは、自分が自分を
失われた青春北川聖青春と共に多くのものを失ってしまった勇ましい野心を燃え滾る闘志を狂おしい心の騒めきを軽やかに動く身体を詩と死への渇望を夜に悶える渇愛を恥じらいと戸惑いを果てしない向上心を宇宙の謎への探究心を決して諦めない心をそして憧れのあなたを今はただ静かに安らかに日を浴びていたい
いろいろな活動をする中で、様々な人と出会うのだが、結局「地に足が着いているか」で一緒に動けるか、そうでないかが決まってくるように感じる私利私欲に目がくらんでしまうと大切なものを見失ってしまうもっと有名になりたいもっとお金持ちになりたいというような「渇愛」からくるものが前面に出てしまうそのために、いろいろなものに依存してしまいがちそこに囚われているうちは、難しいように思う世の中も、人工知能やロボットが身近なところにも出てきてたしかに楽にはなるのだが、人の心や暖か
打ち寄せては返し返しては打ち寄せ波は生まれては消え波は消えては生まれでも本当に消えたのか水からすれば消えていない波という面においては生まれたり死んだりするけれども水は生まれることも死ぬこともない誕生と死存在と非存在仏と悟りすべては頭の中で創作した概念にすぎない概念の火を消す誕生と死存在と非存在人間の苦しみの火🔥消すかつ愛の火煩悩の火を消す↓これはすべて物語です↓なぜ↓物語がほんとうに存在すると思い込んだ後の話だから世界観が一つしかないから人
観念に閉じ込められた世界にいると、浮かれた世界の渇愛の世界か?人のせいにし合う嫌悪の世界か?希望を見出せない無関心の世界か?この3つのどこかの観念世界に閉じ込められていて、閉じ込められているのにも気付けないから、波動が下がってくる。そして、アルコールや薬やゲームや異性などに夢中になる事で、享楽的な開放感で、ストレスを解消しているようで、エネルギーロスして、現実を感じにくくしていたんだ。これが、今の等身大の日本の社会で、自分の回りはその縮図にすぎないな。さぁ、ここから
どんな事も一向に意味がわからないままであると、やる気というのは中々でてこないが、続けていると段々と意味がわかってきて面白くなると、自然にやる気というのが湧き出てくるのだと思う。だから、教える方も教わる方も、その事の本質がなんなのか?をしっかり認識した上で、目的と手段を混同せずに行動していたら、自然にそうなるが、本質がわかっていないで闇雲に行っているといつのまにか手段が目的化する本末転倒に陥り、陥っている事にすら気付けなくなる。だから、物事をありのまま、に観れないと、無
心と体の状態を直視すると、客観的に酷い状態であるが、これに嫌悪感を感じなくなり、かつ、それを滅する為の人工的な希望から、渇愛の想念もでなくなると、全てがありのままになる。この感覚に行き着くまでも長い旅路であったが、自分の心や体に対して嫌悪も渇愛の想念も段々でなくなってきてるので、淡々とやれるようになってきている。
人が生きて行く上で、趣味や嗜好から多少の執着やオタク化(笑)するものも、周囲に迷惑をかけるものでなければ、明日への希望や潤滑油となるもので、それはそれで否定されるものではありません。でも、人間というのは『物は壊れるからしょうがないっしょ、それは寿命だったんだよきっと』などと、人の所有するものの破損やアクシデントに際しては、悟りの賢者の様に軽口を叩くものですが(笑)でも、それが自分の事になると、自分の大切な物、コレクションや趣味で集めた物などの破損や紛失などに際して、憤懣と喪失
渇愛から悲しみが生まれ、渇愛から恐怖が生まれる。渇愛から自由になった者に、悲しみは存在しない。どうして恐怖があろう。(ダンマパダ216)『法句経一日一悟』より—スマナサーラ長老の著書から言葉を伝えます(@Samgha0408)January11,2024こういったワンフレーズが、どこかのなにかの、きっと神々しいなにかであると、さっさと自分の心の神棚に置いて済ませちゃう人は愚かだと思います。これは高みに置いて飾って崇めるなにかではなく、日常使いに頻繁に使いこなす着想
私たちは渇愛とどう向き合っていけばよいのか?ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ渇いた愛と書いて、「かつあい」と読みます。仏教用語で、現実的な苦しみの原因とされる集諦の本質的な部分を指します。もう一方の四諦は四苦八苦のことである。ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ私たちは多くの場合、この渇愛がある。意識的か無意識的かは別として、ほとんどがこの渇愛によって動かされていると言っていい。ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ渇愛は何も愛されたいという欲だけではない。五感が一時的に満たされることや状態と繋がっている。良いも
貪瞋痴の三毒を滅するのに十二縁起の徹底理解と、渇愛と嫌悪の断滅の修行をずっとしているが、嫌悪感を感じなくなってくると、道理を外している人の思考と行動に段々無関心になってきて、その行動で迷惑をかけられている人について慈悲の心も起きずらくなっていた。道理を外している人に無関心だから、それを止める事もせず無意識に傍観者になっていたから、叱責されるのも同罪なので仕方ないが、これもまずいと思う。自我意識で自分の都合よく解釈を変えちゃう人に嫌悪感も出さず、かつ無関心にもならず
♪スクラッチ♪「1000円」当たり\(^^)/もうすぐ「300万円」当たる(笑)(3456)私は愛ネタがねえ日は…♪奇跡の言葉333♪(笑)今日出てきた言葉は…「私は愛、あなたも愛、すべては愛、まるごと愛」♪聖書♪を読んでも~♪スピリチュアル本♪を読んでも…「神は愛」とか~「愛が大切」とか~「愛しなさい」とか書いてあるけど…♪愛♪ってえ何なんだろうね?ある人に対して…「愛さなくっちゃあ」…なんてえ思っても~愛せないよね?「愛」ってえ言葉が頭に浮かんで来ない時にこそ…気付い
高揚感と危機感優越感と劣勢感正当化と迎合虚栄心と反骨心嫉妬と無関心などの歪んだ思考に渇愛や嫌悪の感情が起きて、それに執着してしまう事に気付かないと、事実が歪んで観えてしまう。これは、善悪でない。御釈迦様が八正道で言うことの、まさに、正見だ。正しく見るというのは、こういう雑念の思考の汚れのフィルターを極力廃して観る事なんだな。この思考の歪みを気づかずに日々を過ごしていると、自由と放任を履き違え、責任と義務を履き違え、関心という名の束縛をし、教育という名のエゴ
前に感覚が戻ってくると、渇愛と世俗的な煩悩の想念が自然にどんどん湧き出してくる。これは、阿頼耶識にある情報がとんでもなく穢れているからなんだろうが、今までは嫌悪感を克服する為の現象ばかりがでていたから、渇愛が起きる現象は封印されていたのだろう。それが、嫌悪感は大体克服できてきたのを神様に見透かされているかのように、渇愛にエネルギーが湧いてでてくるようになっている。このエネルギーを聖なるエネルギーに転換する為に、改めて正しい教学を進めよう。
苦しみが生まれる様子を紐解いた教えが仏教にはあります。この世界は自分の思いだけでどうにかなるものではなく。これをずっと思い悩んで苦しんでいてその事に怒りや悲しみや寂しさ、孤独感を感じて生み出し続けても・・それは自然界の法則に抗いつつ戦いを挑みつづけて翻弄されているに過ぎないのかもしれません。“苦難だと思っていること”は本当に“苦難”なのでしょうか?それは、もしかするとこの世界をもう一度改めて捉え直して学び直すだけで消えるものかもしれません。
以前は、進みたい方向性の事をやっているのに、苦しいと感じてしまう錯誤の想念が生まれていたが、これが徐々に克服できてくると、知的好奇心の欲求や、同じ事をしているのに歓びと感じて、心が成長できているのを実感して、嬉しさが生まれてくる。この想念と渇愛は何が違うのだろうか?それともこの歓びは本当の歓喜でなくて渇愛なのか?本当の歓びや歓喜の経験が浅くて、渇愛との違いがわからない。食べた事のない味がわからないのと同じだな。
フラれた、相手の気持ちはもう自分にない…2023.12.01TweetSharehiroyukika3(ひろゆきか〜)愛とお金のセラピスト2023年12月1日16:48辛い失恋から立ち直りたいあなたへ渇愛かつあい人間の心を大きく揺さぶる「尽きることのない欲望」「深い愛情や欲望を感じること」を指す言葉人は、#愛を与えることよりも、#受け取ることに執着し、#苦しみを産む「#忘れる努力」が苦しみを増やす十分な愛を受け取ることができなかったとき、苦しむ。「#忘
毎日毎日、極端な言い方をすれば24時間365日途絶えることなく各種のハラスメント加害と被害が報道されていると、ハラスメントが存在しない組織や関係の場は、この世にはないのではないかと思えてくる。でも一番許せないと思うのは、教育、そして宗教の世界における各種のハラスメントだ。特に救済を求める人にハラスメントを加える宗教関係者は決して救済されることはないだろう。まずは自分が「引かないと」。黒い欲望、仏教で言うところの渇愛を少しでもなくすように努力し、他者の尊厳を尊重しない限り、この世から
毎日毎日劇的に、愛別離苦、怨憎会苦、不苦得苦を感じる日々が続いている。渇愛と嫌悪から離れて執着や煩悩が発生しない脳波に作り替える刺激に、この現象が目の前に次から次へと1000本ノックみたい現象化しているのか?さぁさぁあなたは、この現象をどう判断して、どう決断していくのか?それを毎日問われている気がしてくる。今の環境にも、もしかしたら執着しているのかもしれないし、逆に、渇愛や嫌悪、やれもしない妄想と勢いで飛び出したくなっているのか?そうだとしたら今よりより悪くなる
おはようございます今日は金曜日ですね~立冬がきて、かなり寒くなりました風邪引かないように気をつけましょうでは、仏陀の言葉です相手が今何を求めているか、何に苦しんでいるかを想像することが思いやりです。その思いやりが愛なのです。しかし誤った愛は、自分を愛してもらいたいから、相手を愛する。それは本当の愛でなく渇愛です。相手を愛していると思い込み、実は自分自身だけしか愛していない。これは愛の崩壊につながり真実の愛ではありません。仏陀が説か
スマートフォンがあるときよりも無いときの方が、いいなあ。でも、あったらあったで、じょうずに使えばいい。これから先、どうなっていくのだろう。僕はひとりだから、そんなに関係ないかもしれない。誰かと連絡をとったりはしない。ひとりに慣れてしまった。ホームレスと一緒だ。「寂しくないですか」とインタビューされても「寂しくない」と答えるだろう。渇愛(かつあい)と言って愛するものがいれば、、深く愛するほど、苦しみがやってくる。ひとりなら、苦しむことはない。それでも、誰かのため
素晴らしいものを素晴らしいとありのままに観る。美しいものを美しいとありのままに観る。尊いものを尊いとありのままに観る。これが行き過ぎると、手に入れたくなって渇愛という煩悩が苦しみの種を作る。だから、素晴らしい、美しい、尊い、と心から思えるもので、心を満たせるようにする。また、不浄なものも、ありのままに観るにとどめて、嫌悪感まで思考を進ませない。自分を突き動かすエネルギーの根源が、高揚感と危機感から解放されたら、感情の乱高下は治り、そしてはじめて、穏やかに難のな