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こんにちは。お読み頂き、いつもありがとうございます。九八さん、法の供養を本当にありがとうございます。ゆみさん、九八塾の皆さん、本当にありがたいご縁に感謝しています。無上甚深微妙の法の身、明明たる本心にのみ、心を制することで安心、信頼がさらに増し、、心を転がし、観念、自他、妄想に移すことが自然とできなくなり、、平和自体であり、、本当に本当にありがたいです。。。夫が、中学生の息子に対する思い、不満、心配などから、憤りに変わり、私に愚痴ることが最近何度かありました。以前
苦しみの原因心を自分だと思い込んだままだからトラウマとか過去生とか星回りとか具体的な原因を探してしまう祟りとかね(笑)心はSTORYを創作する私にSTORYを体験させるそれが心だから心を自分だと思い込んでいる限り私はSTORYを自分だと思い込むただ心は私に付属されたSTORY体験装置だとわかると私は私だけになれるこれが目覚め心がSTORY体験装置だとわかるとSTORYは、うねりは、アトラクションになる怒っている自分、悲しんでいる自分、楽しんでいる自分、
シュード・ニルヴァーナ(偽涅槃)集中的瞑想が深まり、洞察期への変化が見られはじめるようになる段階で、すばらしい喜び、至福の感情、魅惑的な恍惚感、強烈な開放感が湧き起こってくることがある。この状態は、瞑想の最終的ゴールであると間違えられることが多く、その意味で、シュード・ニルヴァーナと呼ばれている。この体験は、瞑想実践のプロセスにおいては、非常に重要な意味を持つものであり、それ自体は何ら道から外れたものではなく、瞑想が進んでいく過程におけるごく自然な現象である。しかし、この体験は、強烈な幸
こんにちは。いつもありがとうございます。九八さん、ゆみさん、いつもありがとうございます。九八塾の皆さんのブログも、ありがたく読ませて頂いております。心を制することから、心意識、言葉が、本当にただの観念の説明、戯言であることがハッキリし、騙されなくなり、力がどんどん失せて、、前後、説明なき五感の活動の大信頼に引っ張られ、本当に自然と‘永遠の空の安楽‘と為し、何よりありがたく、尊く、大安心に包まれ本当に誰と何処で何をしていても、何があろうと、どんな思いがふと過ろ
ひろみんのゴールデンウイーク突入しましてん今日はあそこへ明日はあそこへ幸い雨予報は2日間だけ妖怪アメフラシ返上か!調子乗ったら雨が降るひろみんです😍こんちくわ♥ご刻印・ご朱印の後ひろみんもう一つ行きたいとこあるこれは岡山県民のよーこちゃんも知らんかったんやで🤭ててーん✨なんやろ…ちと怖い😅?https://g.co/kgs/KJtvc8A⬆これで見れるんかな😅ちょっとようわからん仏陀涅槃の壁画読み方ぶつだねはんのへきがで調べたら辿り着きまっ
https://www.facebook.com/share/p/X1PjvuLrFjWLj1fE/四論の講説さしおきて本願他力をときたまひ具縛の凡衆をみちびきて廻涅槃のかどにぞいらしめし岩波文庫『親鸞和讃集』より
皆さん、おはようございます。今日もお忙しい中、ブログにお越しいただきましてありがとうございます。四国八十八ヶ所の最後の道場は、涅槃の道場です。涅槃とは苦を吹き消し悟りの境地に至ると言う意味で、最後の讃岐の国・香川県の札所でその境地を迎えられる事になります。第66番から結願寺の第88番の23ヶ寺が涅槃を迎える為にお詣りするお寺になります。ありゃま、影が映っちゃいましたが(-_-;)、各お寺でよく、猫さんに会いました。画像の猫さんも人懐こく、相方さんがいい子いい子していました。猫
らぴ。は首についての実践はしていませんそのせいか首が弱いです涅槃仏ってのがありますが釈迦の右手を枕とするか、もしくは頭を支える姿なのですがその姿勢がらぴ。も楽でした横になって手で首を支えるかつてこの姿勢が楽で偶然、よくしていましたその状態は首が存在しているので精神性と物質性のつなぎ目が残っているとも言える状態ですらぴ。がなぜ体の上部の実践(集中)を行ったかというと上部からの開発の方が安全というのをどこかで見たからです
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)330頁仏子よ、菩薩大士にふかく如来に入るの十種がある。十種とは何であるか?一に深く無量無辺の諸仏の菩提に入る。二にふかく無量無辺の浄らかな説法に入る。三にふかく無量無辺のもろもろの方便の法に入る。四にふかく無量無辺の微妙な音声に入る。五にふかく無量無辺の衆生の訓練に入る。六にふかく無量無辺の神力自在に入る。七にふかく無量無辺の種々の異身に入る。八にふかく無量無辺の三昧に入る。九にふかく無量無辺の無畏に入る。十にふ
私たちは本来煩悩具足の凡夫と言われています。煩悩具足とは、煩悩100%で出来ているということです。罪悪深重・煩悩熾盛が人間の真の姿なのですから、到底助かる手立ての無いものなのです。そんなものに、涅槃の悟りが開けるのでしょうか。親鸞聖人は仰います。仏法のさとりは涅槃(ねはん)といい、涅槃をインドの古語ではニルバーナといいます。それは煩悩(ぼんのう)を吹き消した状態を意味します。しかし煩悩具足といわれるこの私は、煩悩の世界から一歩も出ることはできません。というのは、
2024年4月1日私は存在していたくない。魂ごと消滅したい。これは私のカルマとエゴだ。私は私ではない誰かになりたい。私はずっとそう思ってきた。残念なことに今までの私の人生は不幸では無かったが、幸福でもなかった。辛く、苦しい時期が長く続いて、その後遺症みたいなものだ。だから私はこの体を誰かにあげて、私の魂は覚めない眠りにつきたかった。それがいいのか、悪いのか。今回の焦点はそこでは無いので聞き流して欲しい。私には魂の中に入り込む程に私のことを愛している旦那が多くいる。旦那たちは
坂本龍一も忌野清志郎も今や涅槃の人となってしまわれました。合掌。さて、龍樹(りゅうじゅ)、ナーガールジュナが「八宗の祖」であるとは前回書きましたが、「八宗」とは何でしょう?それは日本の主要な8つの仏教の宗派です。仏教に詳しい人にはそれこそ「釈迦に説法」ですが、天台宗、真言宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗、時宗の8つですね。ただ仏教では「8」というのは特別な意味ある数字で、八宗という言い方で「すべての大乗仏教(だいじょうぶっきょう)」という意味でも使われるそうです。
こんにちは。九八さん、ゆみさん、九八塾のみなさん、いつも本当にありがとうございます。極めて稀なるご縁に感謝しかありません。。みなさんのブログも、とてもありがたく読ませて頂いております。。何処にも向かう所もなく、何か変えるものもなく、何かを無くしたり得たりする人もなく、減ったり増えたり、綺麗になったり汚れたりするものもなく、、そのままの真っ只中である一仏乗が、どれだけ図り知れず、ありがたいか。。本当に、何処にも行かぬ、此処におる、、、でした常に何処か別の場所を求め、
このブログ(英語:blog)に御訪問頂き、誠にありがとうございます。リンクを貼はらせて頂いております。紫色のブログ・タイトルをクリック(英語:click)(もしくはタップ[英語:tap])して頂きますと、過去のブログ記事に移行します。(^O^)さて、去る7年前の5月1日(月)の「『お蔭かげ』ということ(両親の食事)」のブログの中段やや上に、「(前略)ヘルパー(日本語:家政婦)に因ちなませて頂きますと、去る3月21日(火)の『肉親の来訪(ヘルパーの症状・両親の食事)』のブ
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)309〜310頁そのとき普賢菩薩が重ねてこの義を明そうとして、つぎの偈文を説かれました。『もし如来を見聞して、恭敬し、供養しまつるならば、その種(う)うるところの善根は、無量不可称なるべく、あらゆる有為のうちに、窮(きわ)め尽すことができず、もろもろの煩悩を寂滅し、苦をはなれて涅槃をうるだろう。たとえば人あって、金剛の小片を飲むならば、金剛は究竟して消化せられず、下って金剛際にいたる。かくのごとく、十力のみもとにおいて、見聞し、供
【師のブログより】虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん。(この世が消え失せるまで、私の願いは尽きない)弘法大師空海性霊集よりこの願文は「永遠の誓願」と呼ばれています。お大師様はみんなの幸せを祈り続けることをこの誓願でおっしゃられています。我々の心のよりどころとなって、南無大師遍照金剛と祈る者を側で見守ってくださることかと思います。難解な壁にぶち当たった時には「南無大師遍照金剛」と唱えてみましょう。ナムダイシヘンジョウコンゴウ。同行二人の御誓願。き
こ前回は、輪廻転生を繰り返し、徳というポイントを貯めて、まずは浄土を目指し、そして悟りにいたる、という「システム」ではないか?という話でした。けれどお釈迦様自身は輪廻転生ということを明確には言っていないという話もあります。そういった仏教の矛盾点などについて面白おかしく書かれているのがこの「言い訳するブッダ」という本です。私が面白いと思ったのは、お釈迦様の身体的特徴です。伝説が伝説を生みまくったようで、かなり奇異なことになっています。例えば「お釈迦様の舌は顔全体を覆う」とか、「いやそ
こんにちは旭通り校です先日〝猫寺〟🐈に行ってきましたどんなところだろうわくわく萩市観光協会公式サイト|山口県萩市www.hagishi.com楽しそうではないですかいざ参るいたるところに猫様が萩にゃんがいる…かっこいい中には…猫涅槃様が※3/24まで素敵な世界にわたしも負けじと御朱印も2種類あって素敵すぎました猫好きの方はぜひお参りしてみてください
さて前回は脳が悟りの「敵」である、というような内容でした。『究竟涅槃再び〜脳は味方?〜』以前、左脳が機能しなくなった脳科学者ジルボルト・テイラーの話を書きました。『「無限界」についての補足動画〜右脳だけの世界〜』今回は、前回の「無限界乃至無意識界…ameblo.jpとすれば、死ぬことによって人は肉体から解放され、誰でも「悟り」を開けることになります。浄土教の説くように、人は死ぬとまさに「仏」になれるということになります。浄土教では「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏が必須です
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)304〜305頁仏子よ、たとえば雪山に善現と名づける大薬王樹がある。もし人あってその樹を見るならば、眼清浄となるをうべく、もし聞くならば、耳清浄となるをうべく、もし香(か)を聞(か)ぐならば、鼻清浄となるをうべく、もし味を甞めるならば、舌清浄となるをうべく、もしその土を取るならば、無量の病をことごとく除いて、快楽安穏をうるだろう。如来・応供・等正覚の無上の薬王もまた此のごとく、つねに一切もろもろの方便の行をもって衆生を利益し
以前、左脳が機能しなくなった脳科学者ジルボルト・テイラーの話を書きました。『「無限界」についての補足動画〜右脳だけの世界〜』今回は、前回の「無限界乃至無意識界」についての補足です。「脳の一部が破壊されると、自分と世界との区別がなくなる」という部分についての一例です。これは、脳科学者…ameblo.jp左脳が働かなくなると、自分と世界との区別がなくなり、「宇宙との一体感」を感じるという話でした。「悟り」というものが目指すのは、まさにこの「無我」の境地であると思うのですが、そうなると悟りへの
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)304頁仏子よ、たとえば須弥山に等しいほどに積まれた乾草に、もし入が芥子ほどの火を点ずるならば、火はその乾草を焼き尽くさずには置かぬだろう。なぜなら、火性はことごとく能く焼くから。仏子よ、如来のみもとにおいて種える少しの善根もまた此のごとく、悉くよく一切の煩悩を焼きつくして余すことなく、涅槃を究竟するだろう。なぜなら、如来のみもとにおいて種えるもろもろの善根の性は究竟するから。(旧字体、旧仮名遣いは改めました)
寒山百得の中で「朦朧体」という画法が披露されていました・・・・・・写真1(↓):朦朧とした二人組寒山拾得のトレードマークである巻物と箒は、どこにあるかはっきりしません。馬に乗っている方は、兜を被って剣を掲げているので、ドン・キホーテでしょうか。すると、歩いているのは従者のサンチョ・パンサで、馬はロシナンテ号と思われます・・・寒山拾得が東洋の奇人コンビの代表ならば、ドン・キホーテとサンチョ・パンサは西洋の変人コンビの代表と言えるので、横尾画伯の頭の中で東
こんばんは。山の下不動尊のkaoruです。ご訪問頂きありがとうございます。私の個人的な見解ですがやはりこの世は悪が蔓延る世の中で五濁悪世であいます。こうじょく、けんじょく、ぼんのうじょく、しゅじょうじょくみょうじょくが五濁であります。また、悪を無くし善に生きるの教えの元生きてましたが善行に潜む悪意(真宗大谷派)と言う教義もあります。まさにそのとおりです。中でも新興宗教の中でも邪悪な教団真如苑(以下如苑)に関しては何でもあなたの為ですよ!とぬかしながら己の苦しみを両
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)303〜304頁仏子よ、たとえば人あって如何に少分の金剛を食するとしても、金剛は決して消化せられることなく、かならず体外に押し出されて、金剛輪際にいたってそこに止住する。なぜなら、金剛は消化さるべきものでないから。此のごとく仏子よ、如来のみもとにおいて如何に少分の善根を種えるとしても、それは必ずあらゆる有為の煩悩をやぶり、ないし如来の涅槃を究竟してそこに止住する。なぜなら如来のみもとにおいて種えたもろもろの善根は消尽することが出来
こんばんは。山の下不動尊のkaoruです。ご訪問頂きありがとうございます。さて、前回の日記である教団の信者について怒りで書きましたが。。。常にそのこころではいけないとは考えています。常にこころ静寂涅槃の状態を保つ修練が必要とも考えています。一宗教家としてつ常に世の安泰を願い一人でも多く仏門を通して人間とは何の為に生かされているのか常に自問自答し仏知をいただけるかだとも痛感しております。ただ、御霊言だけに頼るのでなく日々自分自身で思い考え当たり前の様の生きない
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)50代から60代の方なら、これを聞くとアレを思い出しますよね?そうです、レインボーマンの変身呪文です。彩虹化身俠(變身7)レインボーマンダッシュ7変身!!!持佛咒:あのくたらさんみゃくさんぼだい阿耨多羅三藐三菩提阿耨多羅三藐三菩提阿耨多羅三藐三菩提結手印戴上白色口罩變身!!!出發!🦸🦸🦸無上正等正覺OMAhViRaHumKhaCaRah!!!🙏🏻🙏🏻🙏🏻youtu.beこれを変身呪文に使った原作者河内康範のセンスは
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)301〜303頁そのとき普賢菩薩が重ねてこの義を明そうとして、つぎの偈文を説かれました。『たとえば円満明浄の日は、一切の法界に等しく、影を一切の水にうつす。ただもろもろの破れた器は例外である。最勝もまた此のごとく、あまねく一切の世に現われたもう。ただ信心のない衆生は、ほとけ涅槃に入りたもうと思う。たとえばあらゆるものを焚焼する猛盛の火、草木、人家のない処(ところ)にゆけば、おのずから消滅する。最勝もまた此のごとく、法界に充満して
こんにちは。山の下不動尊のkaoruです。ご訪問頂きありがとうございます。ココロの殻を破るとありますが迷い苦しみの世界から抜け出すにはシガラミと言う殻をやぶり新たな(真の自分に)生まれ変わる(輪廻転生)が必要と実感です。経典であれば大般涅槃経がそうでないのかと実感しています。輪廻転生が頻繁に起きているときは善い事が多くありました。また、めっしこうもうあん(漢字がでません)とある様に煩悩の海(闇)を滅し涅槃(ニルバーナ)に到達する事が必要であると思います。(涅槃=