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『表と裏の顔を持つ...男が詠んだ歌...②』『表と裏の顔を持つ...男が詠んだ歌...①』『2024.1.23チノポス書道史③「趣味が功を奏して…」』前回のブログでも記載した通り三筆「嵯峨…ameblo.jp前回のブログで「小野篁」に関して、記載しました。その続きです。参照チャンネルむっちゃん百人一首篇【11番】---ある日、右大臣・藤原良相(藤原良房の弟)は死の淵に立たされその時、閻魔大王と謁見した。この時点で、地獄行きが確定
『表と裏の顔を持つ...男が詠んだ歌...①』『2024.1.23チノポス書道史③「趣味が功を奏して…」』前回のブログでも記載した通り三筆「嵯峨天皇、空海、橘逸勢」に関する先生のお話をチノポス・…ameblo.jp前回のブログで小野篁が隠岐に流された時に詠んだ歌に関して、記載しました。その続きです。参照チャンネルむっちゃん百人一首篇【11番】「百人一首」かるた大会で勝つための本「百人一首」なんでも辞典---遣唐使に選ばれる男の条件と
2024.5.1のブログを一部改正致しました。『2024.1.23チノポス書道史③「趣味が功を奏して…」』前回のブログでも記載した通り三筆「嵯峨天皇、空海、橘逸勢」に関する先生のお話をチノポス・書道史に沿って御衣黄の覚書から、記します。*詳細が気になった方は著書…ameblo.jp前回のブログで小野篁が、流罪に処された(隠岐に流された)事に触れました...その時、詠んだ歌と小野篁に関して先生がyoutube上で語られていましたので御衣黄なりに、まとめてみます。
初参拝になります、石清水八幡宮🙏😆石清水の境内は広いです〜仁和寺にある法師じゃなくても、どうお参りして良いのか迷います今回は時間の都合もあり、ケーブルカーに乗り手水石清水のお水は「つきぬみいつ」なのですねありがたいです!お水綺麗〜御本社御祭神神功皇后応神天皇比咩大神はじめまして、お参りさせていただけてとてもとても嬉しいです🙏😆特別公開中の金の雨樋と左甚五郎作の目貫の猿を見せていただきました😊解説をとてもとても丁寧に熱心にしていただいて「ブラタモリ?」という気分
皆様どんなゴールデンウィークをお過ごしでしょうか?🎏我が家は今回のGW主人もGW真ん中がお仕事子供達も今回は帰省しないのでダラダラゴロゴロ溜まったドラマの録画を見たりお墓参りに行ったり家の片付けをちょっぴりしたりしばらくご無沙汰していた友人に会いに行ったりそんなGWを過ごしていますあ、ご近所さんのご不幸もありましたがGWにどこへも行けないと思っていたのでその前に行って来ましょう!とずっと気に掛かっていた大好きな神社さんへ今年はぜひ寒川神社さんで御祈祷をして
関裕二氏の『蘇我氏の正体』の興味深い点に係る記載を続ける。・丹波から朝鮮半島に旅立った脱解王(新羅王)と、その末裔の武内宿禰(天日槍)が日本に舞い戻ってきたという一連の歴史を「浦島太郎」という一人の人物に仮託して、「浦島太郎神話」に述べられている。・蘇我氏の祖は武内宿禰であり、天日槍である。武内宿禰(天日槍)は、新羅に渡った倭人、脱解王の末裔であった。蘇我氏は一度、ヤマト建国ののち没落していたようである。そして、6世紀から7世紀にかけて、不死鳥のように蘇っている。このとき、曾我や宗我
古代史作家である関裕二氏の『蘇我氏の正体』における興味深い内容の続きを記す。・ヤマトの裏切りにより、トヨ(神功皇后)、武内宿禰、幼い応神らが鹿児島県の野間岬に逃避行した後、ヤマトの地で、天変地異が相次ぎ、疾病が蔓延し、人口の半分以上が死んでしまうとの惨状に見舞われ、これはトヨの祟りにほかならないとの事になった。・大分県宇佐市の宇佐神宮は祟る神功皇后らを祀っている。ヤマトに帰れなかった神功皇后の御霊を鎮めるためである。神功皇后の親族を祀っているはずの宇佐神宮で、本来中心で祀られるべき仲
以下、華頂宮さまのお話をまとめて書いてみました黄金の龍→これは天皇のことです唯一、ただおひとり、俗に云う、南朝系のアロン(兄)とモーセ(弟)の家系とはアロンは、古神道で云う徐福の家系、土御門家弟モーセの家系は神武と一緒にやって来た武内宿禰なんです。古事記&日本書記は天皇が作った。それは、ある家の地下に隠されていたがそれらが全部、公開されます。それが陛下が京都にお帰りになる、1番、大きなお役目です。明治から大東亜戦争まで一つの戦争だったと聞きました。天皇
今回は、摂津八十八ヶ所巡りを兼ねて大阪玉造周辺を散策しました。JR玉造駅(たまつくりえき)を下車して3分ほどです。三光神社は、玉造の南の小高い丘陵(旧姫山)に鎮座し、ご祭神は天照大神、月読尊、素戔嗚尊の三柱で古くから中風除けの神様として知られています。末社は、武内宿禰は富貴長寿の神として祀られて、大阪七福神巡りの寿老人として七福神巡りでも参拝されています。この地は、真田丸の一部と考えられ「真田の抜け穴」と呼ばれる大阪城までの地下道が設けられていたと伝
4月末に連休があるので、今年に入ってから鳥取県の宇倍神社と白兎神社にお参りする計画を立てた。宇倍神社は、一宮神社としられまた、名神大社でもあり格式が高い神社と聞いた。鳥取県はよく行っているが、宇倍神社は今回、初めてお参りをさせていただく。この神社は武内宿禰が祀られており、360歳まで生きたと伝えられ、立身出世、健康長寿に御利益があると信仰を集めている。大正・昭和と、1円・5円紙幣に社殿と命の肖像画が掲載されているらしい。(紙幣、持っていないな)白兎神社は因幡の白兎に因ん
蘇我氏に関する定説とは異なる内容だが、古代作家の関裕二氏の『蘇我氏の正体』を読んだので、興味深い点を以下のとおり記す。・ヤマト王家の弱い立場を強いものにしようと考え出されたのが、6世紀に登場した王家の直轄領「屯倉」であった。屯倉は7世紀から8世紀にかけて整備が進む律令制度の先駆けとなるものだった。6世紀の「屯倉制」を、王家が独自に進めたわけではなく、蘇我稲目や馬子といった蘇我本宗家が尽力したと考えられている。・ヤマト王家を守り、律令制度を整えたのは蘇我氏であった。藤原氏は始祖の中臣鎌
木本八幡宮権殿(きもとはちまんぐうかりどの)紀伊国名草郡和歌山市木ノ本1153(200mほど先の木本八幡宮P利用、「権殿」横のPはすべて幼稚園のもの)■祭神息長帯姫命誉田別命木本八幡宮は江戸時代に、「木ノ本」の社に芝原八幡宮が合祀されたと伝わります。当社は芝原八幡宮跡に残されたもの。◎神功皇后の三韓征伐凱旋後に、異母兄弟の香坂王・忍熊王の乱が起こりました。皇后と皇子は当地に避難し頓宮を営み、難を逃れたと伝わります。◎欽明天皇の御代、562年にこの頓宮跡に「芝原八幡宮」が創
九鬼くかみ文書の古史古伝焚書事件によれば物部・中臣連合🆚蘇我と厩戸皇子の政争が武力闘争に発展して物部守屋邸宅が消失したと云う然し、物部氏、中臣氏、春日氏、越中の武内宿禰一族が、実は、それを保存していたらしい。九鬼文書だけでなく、竹内文書安倍文書には古代日本とユダヤの交流が記されていた中でも、竹内文書には『キリストは日本で死んだ』❗️神倭かむやまと、垂仁天皇の代、来日した、18歳のユダヤ青年が皇祖皇太神宮で5年修行して天皇からユダヤ国王の印授を受け帰国したが、ロ
木本八幡宮(きもとはちまんぐう)紀伊国名草郡和歌山市西庄字宮山1(P有、「権殿」横のPは幼稚園のもの、当社Pは最奥にあり要注意)■旧社格県社■祭神応神天皇神功皇后日孁大神紀伊国の歴史を紐解く上での重要な一社。後に紀伊国造家(紀直)となる天道根命が「日像鏡(ひかたのかがみ)」(日前大神)と「日矛鏡」(國懸大神)を携え、一時留まったとされるのが当社。◎「紀伊続風土記」には降臨の経緯が記されています。先ず降臨したのは淡路国「御原山」。そこから天道根命により紀伊国「賀太浦」(加太
神功皇后は、龍神と深く関係がある。彼が持つのは海の潮を操る二つの珠。★目次☆1志賀海神社の安曇磯良神☆2高良神と神功皇后☆3饒速日命と御炊屋姫☆4祇園祭の龍神*安曇磯良神☆5八大龍王社*浦島太郎は神を示唆☆6伝承が繋ぐ神と珠と乗り物☆7能と平家物語龍宮と呼ばれてる社は、福岡の志賀海神社。祭神が綿津見神=海神。別名、安曇磯良神(あずみいそらかみ)。社家は安曇氏であり、彼が祭神と同神となる。志賀海神社「新撰姓氏録」には、安曇氏の始祖
神皇正統記によれば甲斐国(山梨県)一宮浅間あさま神社は、阿祖間神社だったかもしれないつまり、富士山は阿祖山だった宮下家の天井から出てきた文書があります。宮下文書です。宮下家は、山梨県富士吉田市にある、浅間神社(旧称阿曽谷宮守神社)の宮司でした。さらに、宮下文書は『武内宿禰が書かせた、という記事を見つけました(シドニーミナト氏)』。また、塵劫記には、地図が載っていて阿祖→北、南、東、西とあり阿曽が、本州にあるんですね。(華頂博一氏)皇祖皇太神宮は、武内宿禰73世
今日は運命の日ドコモショップに一括請求の解約に予約をして、2時にとれたので最寄りの神社を探します😅道中に参拝。かりんとうに九州行くぞと。産土の神であり父であり兄であり、友である素戔嗚尊に九州の話と今日の運命について話します。素戔嗚尊からある条件を認めるかどうか問われる事に。先日見つけた稲荷神社にご挨拶自転車に乗ってドコモショップ、の前に(笑)長野の鎮大神社で汲んできた水を片瀬の諏訪神社へ持って行きます。吸い込まれるようにお稲荷さまへ「持ってるぞ」そしてもう一つの御
「アテラ」1漢委奴国と邪馬台国と日本国川崎一水「日本」という国号は、文武天皇4年・西暦700年に完成した令11巻とその翌年の大宝元年・西暦701年に完成した律6巻からなる大宝律令に定められた。それまでは「倭」であった。しかしその名も実際には国名ではなく、その時の中国からそう呼ばれていたというだけのものであった。そして唐の時代に編纂された『翰苑』には後漢に朝見した倭の王は「倭面上国王帥升」であるとある。つまり、唐の時代には「倭面上」があったことにな
2024年度香椎宮春季氏子大祭香椎宮春季氏子大祭は、祭神であられる神功皇后の命日(4月17日)に近い日曜を祭日と定め、隔年(香椎宮は偶数年)で行われる神幸式の年は土曜・日曜の二日間で執り行われる。香椎宮の神幸式は、土曜日に三基の神輿に乗られたご祭神が本宮から外出され、頓宮(鹿児島本線踏切近く)で一泊され、翌日の日曜日に本宮に戻って来られます。土曜日の神幸を「お下り」、日曜日を「お上り」と言います。今回は4月13日(土)の「お下り」の様子を紹介します。↓僕が香椎宮に到着
4月13日と14日に香椎宮の神幸祭があった。神事ももちろんだが、今回はこの旗を直に見たかった。武内宿禰さまと四氏族が並ぶ。★目次☆1神幸祭☆2大三輪氏と宗像神☆3高良神と神功皇后神幸祭13日に行ったので、前日に頓宮へ向かったお神輿が戻ってくる日。香椎宮*楼門15時に頓宮出発。神功皇后と仲哀天皇が、頓宮で夫婦水入らずで過ごすという。まもなく、行列が見えた。来た!五つの旗!後に。神輿は三台。住吉神、神功
【中大兄の殺戮の先にある天皇家の安定政権】中大兄の殺戮のうち、蘇我倉山田麻呂事件、有間皇子事件の密告者は蘇我氏系だった。言うまでもなく乙巳の変で中大兄は蘇我氏本宗家を滅ぼした。この時も蘇我倉山田麻呂を味方につけている。蘇我氏の内部分裂を利用して乙巳の変を起こし、弱体化した蘇我氏残党を配下に入れて次々と政敵を倒していく構図が見えてくる。天武天皇は八色の姓を制定したが、最上位の「真人」を側近13氏で固めて、次位の「朝臣」に蘇我氏の血脈に近い氏族の多くを配当している。依然として強
皆さんこんにちは。SILKYニューヨークお風呂バウムは、いま細かい調整を行っているところです。本日夜9時前後には発売出来るようにします。製品はお風呂バウム+レギュラーおはぎちゃん4個のセットになっており、お風呂バウムにはホワイトとシルバーの2種類があります。詳細はのちほど!さて、私はこれまでハーモニーズで「クォンタムウォッチ」をいくつも出してきましたが、ふと気付いたことがあります。たとえば私があと100年生きるとします。つまり、まず寿命を自分で設定発動する。そこから逆算してカウン
「伊」には、神威を承る楽器、宰相の意味があった。彼は武内宿禰であり、高良神、住吉神。神功皇后と夫婦とされる。では、仲哀天皇とは。★前の記事『「儺の國の星」~結言~脊振は櫛布留岳(くしふるたけ)』脊振はそほりの嶺といった。ほりは布留。脊振は布留神の山を意味していた。★前の記事『儺の國の星~40、葛城星~ヒメコソ神と巨勢氏と物部の神』子孫が祖神を祀る…ameblo.jp★目次☆1伊は、神意を承る楽器、宰相☆2五つの異なる伝承伊は、神意を承る楽器、宰相(「儺
この季節には、チューリップやパンジーが目立つ。パンジーはいまでも家の門前花壇で彩を添えるのに利用されるが、チューリップは主に公共花壇で多用されている。↑↓は元浜緑地(公園)で見かけた花壇のチューリップ。の尼崎市内には、「山」や「台」の付く地名はほとんどない。山や台地がないからである。それでも皆無ではない。家の近所には、栗山町という町名がある。現在の尼崎市は6つの地区からなる。私が住む地区は、立花地区。尼崎市に編入される前は立花村であった。立花村の歴史:1889年(明治22年)4
朝鮮語で牛🐃はソ肉はコギだろ!😁と思いますが…正確には牛肉はソ.コギです。前回書いたツヌガアラシトですが朝鮮名はウシキアリシチカンキとソナカシチです。ソは牛🐃シチは来るで牛が来た!または…ウは牛🐃シキは来るでシチと同じアラは知るや聞くカンキは長や王で牛の王がやって来た!となります。どうですか?ツヌガアラシトと牛さんは無関係では無いですよね?牛臭ですよね?🐃🤭牛と言えば…あの人ですよね?では今回ももう一人書きます!同じ時期に出雲に新羅の王子も宝を持参して渡来した。
岐阜市・茜部神社(ぎふし・あかなべじんじゃ)(同名神社と区別するため地域名を付加しています)社号:茜部神社八幡神社所在地:岐阜県岐阜市茜部寺屋敷3丁目135番地名鉄竹鼻線「西笠松」駅より北西へ直線約830m先に鎮座されています。岐阜バス茜部三田洞線「寺屋敷」バス停下車、徒歩3分JR岐阜駅バスターミナル4番のりば「下佐波」「高桑」「県自動車会館」行き名鉄岐阜のりば2番のりば「下佐波」「高桑」「県自動車会館」行き名古屋鉄道竹鼻線、西笠松駅より徒歩
主エル・カンターレ大川隆法総裁先生の御著書『武内宿禰の霊言ー日本超古代文明の「神・信仰・国家」とは』最近歴史ものが好きになってきた。学生時代に習った歴史はただ年号と出来事を丸暗記するだけのつまらない授業だったから、記憶がない。でも海外に行くと日本人の自覚が芽生えてくる。・日本人とな何ぞや!・日本の歴史って何?・日本が海外で誇れるものは何?と考え出す。そんな時に前述の著書『武内宿禰の霊言ー日本超古代文明の「神・信仰・国家」とは』を拝読す
さおりさんの霊視のシーン一つ目。卑弥呼のような人と男性。★前の記事『霊視と古代1~卑弥呼のような~』ここから数話、先日X(Twitter)で起こった不思議な出会いを書きます。こういう話は苦手という方は避けてください。(怖い話では無いです)さおりさんは…ameblo.jp前回、X(Twitter)で知り合った、霊能力者のさおりさん。(前回の記事、参照)ご実家が、宝満山と大根地山の合間にあると言う。2月に帰省してから見たという映像を、ブログに書いてくださった。さおり
瀬田の唐橋滋賀県大津市瀬田27忍熊王、逃無所入、則喚五十狹茅宿禰、而歌之曰、伊裝阿藝伊佐智須區禰多摩枳波屢于知能阿曾餓勾夫菟智能伊多氐於破孺破珥倍廼利能介豆岐齊奈則共沈瀬田濟而死之。〈現代語訳〉忍熊王は逃げるところがなく、五十狭茅宿禰を呼んで歌を詠んだ。いざ五十狭茅宿禰、内朝臣の頭槌によって痛手を負わされるより、鳰鳥のように水に潜って死のう。そうして共に瀬田の渡しで死んだ。(『日本書紀』)ここ唐橋もやっぱり交通の要衝で、壬申の乱、寿
逢坂碑滋賀県大津市逢坂1-18-11(安養寺前)逢坂(おうさか)「日本書紀」によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。武内宿禰、出精兵而追之、適遇于逢坂以破、故號其處曰逢坂也。(『日本書紀』)故、逃退逢坂、対立亦戦。爾追迫敗於沙沙那美、悉斬其軍。(『