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”許す”ということの前提には誰かからの迷惑行為に対する怒りや恨みの心が有ります。人は、様々であり誰もが不完全な存在です。誰もが成長の過程にあると言っても良いでしょう。仮に、誰かが行ったことを迷惑行為と感じるたとしたらそれは、人の不完全さを責めていることになります。すなわち、不完全な自分が他人の不完全さを責めているということです。他人の不完全さを責めることは自分の不完全さの顕れでもあります。他人を責めることで
人が、喜びを感じるのは自分が認められ、評価されているときです。一人の人として認めてもらえない・・ダメなヤツされてします・・無視される・・・これらは、人にとって大きな苦痛となります。誰かに、認められることを求めています。ある程度のところまでは自分が認められ、評価されれば喜びを感じることができますが成長するに従ってしれだけでは満足できなくなります。他からの評価と自己像が一致しなくなるのです。人が心の底からの喜びを感じるのは
私たちの前に現れる様々な課題は自分自身の成長のために私たち自身が招き寄せたものです。お金がない・・となればお金を得る方法を考えるか・・代わりのモノや方法をあれこれと考えたりします。病気になれば・・医者に治してもらおうと考えるか・・健康になるための方法をあれこれと考えたりします。これらの課題への対応をどのような考えでどのように行うかによって私たちの人生の道程が決まります。お金がないから・・病気になったから・・・もう何もで
私たちは、親や師あるいは先達の生き方や心の在り方を人生の灯(あかり)として道を歩みます。そして、いつの日にかそのような自分の生き方が他の人の道を照らす光となります。他の人の光となるのは為し遂げたことではなくそこに至る心の在り方であり語りや行いに顕われた心です。光りとなる心は他を思いやり慈しむ、愛の心です。愛の心は、他の個性を認め、受容れて敬いの心を示すものであり他を生かし、共に生きる心の在り方です。私
私たちの人生はそれぞれが何を思い、願っているかによって決まります。人の思いは、全て実現してしまうからです。”失敗したらどうしよう・・””病気になったら困る・・”などと言う思いは失敗や病気を現実のものとしてしまいます。”だましてやろう・・””奪ってしまおう・?”などという思いは騙し合いと奪い合いを現実のものとします。この様なマイナスの思いは暗く、不調和な人生を創ることになります。一方、優しさや思いやりに基づく
この世界は、人のひらめきや直観から新たなモノが創り出され、革新されてきたと言えます。ひらめきや直観はどこから来るのでしょうか?ひらめきや直観が得られるのは人が本物や真理を求めそのことに深く集中しているときです。そのような時、人は「欲」や「我」を超えて無我夢中になっています。全てと繋がり、その全てのものに働き掛けていると言っても良いでしょう。ひらめきや直観は、このような人が本物を追い求める働き掛けへの答えとして得られているもので
ものごとの真実を見て真実を語らなければなりません。嘘を語ると、その嘘の為にまた別の嘘を語らなければならなくなるので追い詰められ、苦しまなければなりません。嘘は、”力”を持った人たちがその力によって、自分の都合を通すためによく使う手段なので、世の中自体が、嘘で動かされてしまい不調和な世界が創られてしまっています。世の中が、”嘘”の世界になってしまうとそのしわ寄せを受けるのは”力”の無い人々です。”真実を語る”ことは自
”自分を尽くす”ということは持っているものを誰かや何かのために全て投げ出すということではありません。今、自分が持っている能力や思いをもって他人や何かのために集中するということです。中途半端な思いがあると良い結果でも悪い結果でも”もう少しやれたのに・・”という航海の思いが生じてしまいます。自分の出せるものを精一杯出すことができれば結果はそれほど問題になりません。また、中途半端なやり方は自分を小さく顕しているので
他人への慈しみや思いやり他人を認め、尊重することなどは”愛”の顕れです。”愛”は、人の本質なので”愛”を顕せば自分の内と外に調和を創り出します。”愛”を顕すことで他人の心に秘められた”愛”に光を当てそれを引き出すので”愛”は、周りに広がり大きな調和を創り出します。”愛”は、誰もがその内に秘め何時でもそのものになることができますが”愛”を顕そうとすると”恐れの心”が頭をもたげ”いいとこ見せようとしているのじ
ものごとには、いろいろなやり方があります。どのような方法を選択するかは夫々の思いに従っています。最もストレスのない方法は他人への慈しみと思いやりに基づく方法です。それは、”愛”が人の本質であり自分の内と外とが完全に調和した方法だからです。最もストレスを受ける方法は恨みや憎しみの思いからの方法です。恨みや憎しみの感情はそれだけでもストレスとなりますがそれを顕すことで相手からも同じような思いを与えられるのでストレスが
”謙虚である”ということは自分を支え、助けてくれている人々を信頼し、感謝して自分もまた、それらの人々のために自分を尽くす、ということです。努力して成し遂げた成果であれば”自分の手柄”としたいところですがそのことが、何故上手く行ったのかを虚心坦懐に振返ってみることが大切です。きっと、たくさんの人々の協力や助言があり運にも恵まれたことに気づくでしょう・・・自分に協力し、助けてくれる人々がいることを知ることは自分と他の人々との
”私はこういう人間だから・・”とそのことに拘りその枠の中から外に出ようとしない人が居ます。外に向かう自分は”こういう自分”と枠をはめ、固めてしまっています。それは、自分を枠の中にはめ込んでしまうことでそれ以下でもなくそれ以上でもない・・”自分”を守るためのものです。いわゆる”自我”であり世の中に”自分”を示すための自我像なのです。ところが、自分の内面では違う”自分”が頭をもたげてきて”本当はこういうことをし
人生には光りの世界に向かう道と闇の世界に向かう道があります。闇に向かう道は自分は一人であり自分を守るために、他より大きな力を得て他と競い合い、奪い合う道です。光りの世界に向かう道は自分は全てと繋がっていてお互いを慈しみ、思いやり持っているものを分かち合う道です。この世界は、全てのものを生かし調和して協働する世界である光りの世界へと向かっているので闇の世界に向かう生き方は何時も逆風に向かっている様なものであ
”知っていること”は、日々の生活や仕事の場で用いられなければ”知らない”ことと一緒です。”反省した”と言っていたのに同じ失敗を繰り返したのではそれは”反省”していなかったということになります。知識は、それが用いられてはじめて”知識”として生かされます。私たちは、人生において多くのことを経験し、学びます。その学びで得たモノは日々の生活の中で顕されてはじめて学びを自分のモノとしたことになります。学び・・それを用いて
私たちの腎背を導くものは私たちの外の神様・仏様でも、人でもモノでもなく私たち自身の心そのものです。私たちは、自分自身の心に導かれて自分の人生を生きています。人生で出会う師、教え、出来事、本などは誰かが準備してくれたのでも与えてくれたのでもなく私たちの”こう在りたい”という思いがそれらのものを必要により引き寄せたのです。したがって、良い人生にするためには良い心で居なければなりません。不安や恐れ、恨みなどの心はそれらの
あのことがあったお陰で成長した今の自分が在る・・という人とあのことがあったせいで惨めな今の自分がある・・という人が居ます。その差は自分が経験したことが辛いことであってもそれを受容れて、学びとしたか辛い経験を「辛かった・・」ことだけに止めその時の、不安、恐怖・・あるいは恨みなどの思いを今も引きずっているかの違いです。自分を惨めだと思っている人は辛い経験をした、その時に止まって前に進めていないのです。辛いこと
人は、それぞれに”自分の場”を持っています。この”場”が、自分に合っていないと「居場所が無い・・」「居心地が悪い・・」となりストレスを感じ、悩み苦しみます。自分の”場”は、自分の思いによって創り出されるものでありその思いを実現するための人やモノを引き寄せそれらの流れを創りそして、空気を醸し出し”自分の場”とするのです。”自分の場”を創り出すためには自分の思いを具体的で明確なものにする必要があります。そして、何
誰かを信頼するためにはその人のことを良く知ることが大切です。一方、誰かのことを信頼できるかどうかを最終的に判断するのは自分自身ですから自分のことも良く知っている必要があります。自分に自信がなければその判断を誰かに頼ってしまうことになるので自分を良く知り、自分で判断できるようにすることが大切です。私たちは、”自分”というフィルターを通して他人やものごとを見ています。自分の考え方の癖や長所や欠点・・などが私たち
私たちは、他の命から多くの感動や生きる力を頂いています。そして、私たち自身も、また他の命を支え、育んでいることを忘れてはいけません。この世界の全てのものはお互いに、生かし生かされている存在なのです。何時も大きくてきれいな花を咲かせる命があれば・・誰にも見られることのない秘境でひっそりと花を咲かせる命もあり・・数年に一度しか花を咲かせない命もあり・・更には、花を咲かせることのない命もあるかもしれません。どのような命もそ
”生きる”ということは”自分らしく在る”ということです。”自分らしく”ということは自分の思いを大切にすることです。私たちは、決して誰かに利用されるために生まれてきたのではありません。自分の持ち味=個性を十分に顕すことで自分を生かし、他を生かすために生まれて来ました。誰かのために・・、他人の為に・・であったとしてもそれらのものは、”自分らしく”の次に来るものです。”自分らしく”出来て、はじめて”他人の為”が成立します。
私たちが知っていることには限りがあります。しかし、私たちは、知っていること経験したことを通してものごとを見て、判断します。知らないこと経験していないことに出遭うと不安や恐れが生じそれを解消するために他人の知識や経験に頼ろうとします。ここに、人からコントロールされる可能性が生じます。他人をコントロールしようとする人は不安を煽り、情報を選別するので容易にその軍門に下ってしまいます。自由に生きるためには良く学び、多
結果だけを追い求めそれに拘っていると今、為していることのその人の思いや目的が忘れられてしまいます。”結果さえ出せればよい。”ということになってしまいます。結果は、人の思いと行動の付属物であり終着ではありません。正しい思いと、正しい方法で為したことだけが良い結果を生み出すのですから結果が良かったら”何故、上手くいったのか”を学び結果が悪かったら”何故、上手く行かなかったのか”を学ばなければなりません。この様にし
争い事は、人の心を蝕み、疲れさせ生み出すものは、ゼロ以下で持っていたものを失い、恨みや、憎しみを増大させるだけです。周りをも巻き込み暗く、重たい世界を創ってしまいます。周りと協調し、協働するところにはお互いへの敬意と思いやりがあり感謝の心でつながっています。強調し協働することで人は、自分の価値を知り他人の価値を知り夫々の生かし方を知ります。そして、一人一人の個性が生かされる調和した世界が創られます。人は、”自分”を
”何かをやろう”と考えるとき”何故、それを・・”と自分に問うてみると良い。”楽しそうだ・・”、”好きだから・・””お金を儲けることができそう・・などの答えが返って来るかもしれません。しかし、もっと自分の心の内側を覗くとそこには”他人の役に立ちたい・・””他人を幸せにしたい・・”などの高い意識からの思いが在ることに気付きます。この思いは、人としての本質である”愛”を源とした思いであり私たちの心の内にあって何時も出番を待っている思いです
人は、誰もが豊な人生を創るための魔法の力を持っています。それは、私たちの”思い”です。思いは、私たちの願いを何でも叶えてくれます。しかし、使い方を間違えると”思い”とは、全く逆の方向に向かってしまいます。不安や恐れがあるとそのことが現実として現れてしまいます。妬みや恨みなどの、ネガティブな思い人への避難や攻撃は自分に返って来て大切なものを奪ってしまいます。正しく”思う”ことは人への”慈しみと思いやり”を
私たちは、全てのものと繋がり相互に、生かし、生かされています。したがって、他を妬み、恨み、恐れることなどはその全てのものとの繋がりを否定することです。仮にそのような思いが生じたとしてもそのような相手が存在することに感謝しなければなりません。感謝の心はそれらのものが、自分のために何かをしてくれた・・という以上に自分のためにそこに在って・・自分を生かし・・、他を生かす機会を与えてくれた・・ことへの”ありがとう”の思いです。感謝
誰かに”認められよう”とすることはその人の価値観に自分を合わせるということです。モノや地位を求める人であればそれらを獲得しあるいは、提供しなければ評価してもらえません。人の道を求める人であればその人の価値観に合った道を示さなけれはこれもまた、評価されません。”評価されたい”という思いは”自分らしさ”、”自分の良さ”に未だ、気付いていないのです。私たちは、誰かに評価してもらう必要はありません。自分の人生を評価できるのは
人生において求められるものは結果ではありません。結果を出さなければ・・と思うのは人の欲であり、道を誤らせます。人生に求められるものは正しいことを正しい思いと、正しい方法で為すということです。結果は、その思いと方法についてくるものです。正しい思いと方法で為すということは全てと調和する”天の理”に随うということです。結果は”未来”のことでありそれを、どのような思いと方法で為すかは”今”のことです。未来を「こうせ
人生で、最も大切にしなければならないものは自分の”こころ”です。自分の”こころ”にそわないことは自分らしさを失わせ道を見失わせます。私たちの”こころ”が私たち自身の灯明なのです。これをやったらお金を儲けられる・・・高い地位を得られる・・というお金や地位の都合でもこっちが好い・・あっちが良さそう・・などの他人の都合でもなく自分の都合を第一とします。お金や地位や他人の都合ばかりを気にしているといつの間にか、とん
この世に、神や仏が存在するかどうかはその人の思い次第です。神や仏が存在すると思えば存在するし存在しないと思えば存在しません。私たちは、自分の生きる世界を自分の思いで創り出しています。したがって神や仏が存在すると思う人は神や仏と共に在りその庇護の下で生きることを選択し神や仏など存在しないと思う人はそのようなものに頼らず自分だけで生きる選択をしているのです。神や仏と共に生きる人は神や仏に近づこうと思い他