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〜〜〜尊敬〜〜〜〜少林流金城珍作先生・一心流島袋龍夫先生・本部御殿手上原清吉先生から伝わった「技・心」を守り今も変わらず理解者と共に武の探求を続け会長知花先生を先頭に活動を続けている、琉球古武道清道会。稽古は基本をひたすら続け体に染み込ませ、考えずとも勝手に体が動くまで生涯鍛錬を続けています。単独会派となった今でも変わらず師への尊敬の心は忘れていません。清道会が守る「武の心」を守るそして絶やさない為に理解者に届くよう発信も続けながら、少数会派ですが、地位や名誉ではなく仲間と共に自己鍛
〜稽古〜(琉球古武道清道会)は先人から受け継いだ知花先生を先頭に「沖縄空手・古武道」を保存し稽古している団体です。様々な団体が存在している現代ですが、清道会は昔ながらの稽古内容を大切にして「武」の探求を日々続けています。琉球古武道清道会HPhttps://seidou-kai.com「沖縄空手・古武道武の心を後世に清道会」事務局。
「沖縄空手•古武道武の心を後世に清道会。」事務局。まつ〜合同稽古〜6月20日木曜は他県に在住の門下生が沖縄県で師範に師事を受ける為に来沖します🌺週一オンライン稽古を行い共に稽古励み、お仕事や家庭にお時間ある時に沖縄空手•古武道発祥の地沖縄で共に稽古を取り組んでいます。距離は離れていますが、気持ちが一緒であれば関係ありません共に「文化」を継承する仲間として切磋琢磨稽古に励みます。琉球古武道清道会琉球古武道清道会~基本理念~琉球古武道清道会は、昭和63年に流会派にとらわれず武道を探求
「沖縄空手•古武道武の心を後世に清道会」事務局まつ。〜門下生〜沖縄県内には約367ヶ所沖縄空手•古武道道場が存在すると言われ、門下生の数も減少傾向あるところや門下生が多い団体等バラバラだと感じ様々な理由があると思います。清道会も少数会派の一つです。〜現代そしてこれから〜「琉球古武道清道会」は流会派にとらわれずに先人から受け継いでいる「武と心」を大切に活動しています。歴史のある「琉球古武道清道会」の魅力が発信通じて少しでも伝わるようこれからも稽古同様取り組んで参ります。知花先生を含め
本部直樹これまで、アメブロで本部流並びに空手・古武道の歴史ついての考察記事を、日本語、英語で書いてきました。また海外の有志の方々による英語、フランス語、ポルトガル語の翻訳記事も発信してきました。ただアメブロは外国語での記事発信を想定しておらず、タイトルを含め様々な制約がありました。従いまして、今後は外国語記事はMediumと呼ばれるアメリカの同様のプラットホームに移行して発信していこうと思います。併せて、日本語の記事も今後はnoteで発信していく予定です。また、過去の記事も順次
TraduzidoporLucasBarbozaJūhatsuKyoda(1887-1968)foiumestudantedeKanryōHigaon'na.Alémdisso,omesmoestudoutambémKaratecomKentsūYabunaEscolaNormaldaPrefeituradeOkinawa.SegundoKatsumiMurakami,umalunodeJūhatsuKyoda,
「大塚博紀の乱取形」の記事において、松濤館の前屈立ち下段払いの構えは大塚先生がピンアン二段(現・平安初段)から技を抽出して作ったのではないかと述べたところ、海外の方からコメントを頂いた。その方が言うには、喜屋武朝徳の弟子の組手写真でも同様の構えが見られるという。確かに言われてみると、喜屋武先生の弟子の写真にはそのような構えの写真があった。ただそれが偶然の一致なのか、ある程度沖縄で行われていた組手の構えなのかは慎重に判断したほうがいいと考える。たとえば、遠山寛賢の著書に掲載されている組
WrittenandtranslatedbyMotobuNaokiThefollowingdescriptionisfoundinTomikiKenji's"ThePrinciplesofJudoandKendo"(1972):Manyofthescrollsofjūjutsuillustratethephysiologicalpressurepointsandpathwaysthatwereintroducedt
前回紹介した松田隆智『秘伝日本武術』(1978)に、「大東流発生と伝承の謎」と題して、以下の記述が見られる。大東流が新羅三郎源義光によって創始され、会津藩に秘密武術として伝えられたという説には、疑問を持っている人も少なくない。その理由として、一、いくら秘密武術とはいえ、数百年も存在が知られずに、伝えられることがあるだろうか?(中略)御留め武術とされていた徳川藩の柳生新陰流、島津藩の示現流、南部藩の諸賞流など、藩外の者が学ぶことは不可能であっても、存在や伝承は明らかである。(中略)二
富木謙治「柔道原理と剣道原理」(1972)に以下の記述がある。柔術の伝書の多くが、大陸伝来の経穴経路の生理的急所を図解し、殺傷力の効果を強調している。だが、その後の歴史に、「当身技」は、形としても、また、練習法としても、その内容が乏しく、見るべきものが伝承されていない。大正12年(1923)沖縄という特殊な歴史的背景の中で発達した「空手」が内地に伝来するまでは、ほとんど忘れられていた。ここで一つの疑問に遭遇する。江戸時代に流行したという「当身技」に、はたして沖縄空手にみるような威力や、「
志々田文明・成山哲郎『合気道教室』(1985)に以下の記述がある。西郷隆盛の蹶起(けっき)の気運高まるなか、惣角は神職を放棄し九州に出立します。東京で榊原鍵吉から渡された添書をもって西下した惣角は、前記のように大阪堺の桃井春蔵の道場を訪ね、剣術の修業に励んでいますが、西郷挙兵の報に接し、急ぎ九州に向かいます。惣角は九州に上陸しますが、西郷軍との合流には結局失敗し、西南戦争も終結をみます。この後、惣角は軽技師の一団に加わり各地を巡回し、九州熊本で沖縄手(空手)使いの者と素手で立合い、これを倒
「船越義珍と武田惣角の弟子:佐藤啓輔」の記事で述べたように、和道流開祖の大塚博紀は大正13(1924)年5月5日に開催された皇居済寧館道場での演武のために「乱取形」を制定した。今日和道流で行われている「真剣白刃取り」「短刀取り」「約束組手形」などは作成当初にくらべると大分内容に変化がみられるものの、原形そのものはこのときに作られたものである。当時大塚は明正塾通いの同行者・秋葉英雄(中央郵便局員)を説得し、連日猛稽古に励んだ。幸い秋葉は剣道家だったので真剣を振っての鋭い斬り込みは、並いる観
WrittenandtranslatedbyMotobuNaokiAspreviouslymentioned,SatōKeisuke(1907-2001)wasastudentofbothFunakoshiGichinandTakedaSokaku.SatōandTakedafirstmetwhenTakedawasgivingaseminarataryokan(Japaneseinn)inSatō'shomet
「沖縄空手・古武道武の心を後世に清道会」事務局。まつ●〜教え〜・「琉球古武道清道会」の知花良光先生は決して清道会という組織を拡大や儲け等は思っていません。・私たち門下生には常に「沖縄空手・古武道は自分自身の稽古。周りを気にせず、苦労した分だけ沖縄空手・古武道は身につく。ひたすら基本を繰り返しなさい。」とおっしゃいます。●〜発信する理由〜・私は発信する理由は地位や名誉の為に広める事ではありません。・清道会の武の心を絶やしては行けないとその純粋な気持ちで発信活動をしています。真の理解
前回紹介したように佐藤啓輔(1907-2001)は、船越義珍と武田惣角の両方に師事した人物であった。佐藤氏と武田氏の出会いは、佐藤氏の故郷、山形県瀬見で武田氏が旅館で講習会を開いていたのがきっかけであった。教授の時期は昭和4~5年の頃である。武田氏は生涯道場をもたず、旅先の旅館や名士の家に滞在しながら教えていた。佐藤氏は武田惣角から相当気に入られたらしい。あるとき、会津に住む武田氏の子息から父親のことで相談があるので来てもらいたいと手紙を受け取った。そして、いざ訪ねてみると、以下のようなや
WrittenandtranslatedbyMotobuNaokiGenerallyspeaking,atemi(strikingtechniques)inkoryū(oldstyle)jūjutsurarelyincludeapunchingtechniqueliketheseiken-zukiofkarate.Seiken-zukiisatechniqueinwhichthefistisheldattheside
一般に古流柔術における当身(打撃技)では、空手の正拳突きのような突きは稀と言われる。正拳突きとは身体側面に手のひらを上向きにして拳を構え、内旋させながら手の甲を上に向けて突く技である。これに対して、柔術では空手でいう縦拳か裏突き(手のひらを上に向けた突き)を多く用いる。柔術の突き。井口義為『殺活自在柔道極意教範』(1934)より。拳の握り方は柔術では親指を四指で包むやり方が一般的で、また肘も上図のように伸ばしきらない。高橋賢『佐川幸義先生伝大東流合気の真実』(2007)によると、武
「沖縄空手・古武道武の心を後世に清道会」事務局まつ。「琉球古武道清道会」※前身本部流清道館●〜ちょっと昔ばなし〜・知花先生が道場を持つ前に、共に切磋琢磨し稽古しながら一心流時代から汗を流した兄弟子がいます。・「本部流錬武館上間義夫氏」です。上間氏は本部御殿手上原清吉先生から「練武館」という看板を授与され沖縄県うるま市にて道場を開設されました。・私の師匠清道会の知花先生は一時期「上間氏は本部流第一練武館」「知花先生は本部流第二練武館」として活動していました。その後、本部
WrittenandtranslatedbyMotobuNaokiThefollowingisfromthe"TakedaSōkakuChronology"in"TakedaSōkakuandDaitō-ryūAikiJūjutsu"(2015).1877(Meiji10):AttemptstojoinSaigo'sarmy,butfailsduetostrongcaution.September:Afterth
TraduzidoporLucasBarbozaKingfoiumarevistadeentretenimentogeralpublicadapelaKōdanshaLtd.dofinaldaeraTaishō(1912-1926)atéoperíodopós-guerra.Foiaprimeirarevistanacionalnahistóriadapublicaçãojaponesaavendermaisdeu
WrittenandtranslatedbyMotobuNaokiInTokashikiIken'sbook"OkinawaTraditionalKaratedō:ExploringtheBloodlinesoftheTwoMajorSchoolsofNaha-te(Gōjū-ryū)andTomari-te(Matsumora-ha)"(2017),thereisaphotoofYoshimuraChōgi(義村朝義,18
渡嘉敷唯賢『沖縄伝統空手道那覇手(剛柔流)・泊手(松茂良派)二大流派の血脈を探る』(2017)に、義村御殿の義村朝義が刀を構える写真が掲載されている。以前紹介したように、義村御殿の家譜には、琉球国王から刀や槍を拝領したとの記載がある。乾隆四十三年八月廿二日蒙賜殿宅二十五日移徒因蒙恩賜刀大小二腰鑓一本現代語訳1778年8月22日。義村王子朝宜は、国王から邸宅を賜った。彼は25日に転居した。国王から大・小の刀を二腰、および槍一本も賜った。また、義村は松村宗棍から棒術と
奥山竜峰『奥山竜峰旅日記』(1958)には、先日紹介した少林寺拳法の宗道臣(当時、中野道臣)の手紙とされる文章以外に、もう一つ文章が紹介されている。流説について。昭和22年頃丸亀の「新日報」という新聞に大きな宣伝がしてあるをたまたま帰省した私が=当時は大阪に住んでいました=公開のあつた翌日彼の宿舎え尋ねましたが、部外者には見せないとの事なので彼の言うままに三百円出して十ヶ条ほどの技を見せて貰いました。その時彼の附添いの女の人がもう五百円だしたら「ガクン」という秘技が教えて貰えるから、是非五
前回の記事で述べたように、八光流元師範の安田秀則(1940年生)は講習会後、上原清吉に弟子入りした。安田氏は亜細亜大学でも合気道を学んでおり、結果的に1960年代に八光流、合気道、本部御殿手を学んだ稀な人物であった。筆者は2007年と2009年に安田氏にインタビューし、三者の技法的相違についても質問した。その内容は興味深かったので以下にすこし紹介しよう。まず八光流と合気道について。安田氏によると、両者は基本的には同じであった。八光流の技は全部合気道にあった。違いは八光流は力を抜けとい
WrittenandtraslatedbyMotobuNaokiIrecentlyreceivedacommentonFacebookabout"assumptions"inthestudyofkaratehistory.Youcancallthempreconceptions,preconceivednotions,orprejudices.Inshort,itisamentalattitudethatisso
先日、Facebookで空手史研究における「思い込み」についてコメントをいただいた。先入観、先入見、偏見と言ってもいい。要は固定観念にとらわれて、新しい事実を受け入れられない心的態度のことである。空手史に関する書籍を読んでいると、しばしばこのような心的態度に基づいて推論しているのではないかと思われる記述に出くわす。最初からほしい結論が決まっていて、それを「証明する」ために推論を重ねるのだが、その過程で都合のいい証拠だけ取り上げ、都合の悪い証拠は無視する。心理学では、こうした心的態度は確証バ
TraduzidoporLucasBarbozaNoanoretrasadoescreviumartigosobreMōtokuYabiku,quefoiumdiscípulodeKentsūYabu.GraçasaesseartigoconseguientraremcontatocomobisnetodeMōtokuYabikuelogodepoisrecebialgumasfotosdele.Essasf
WrittenandtranslatedbyMotobuNaokiAfterUeharaSeikichi'sdeath,amartialartsmagazinepublishedamemorialfeatureonhim.Althoughtheoverallcontentofthefeaturewasexcellent,Ihadaquestionaboutthedescriptionofoneofthephoto
TraduzidoporLucasBarbozaEssahistóriafoicontadaàNaokiMotobuporseuparenteemOkinawa,ofalecidoSr.TomokatsuMotobu.Emcertaocasião,ChōkiMotobufoiemboscadoeperseguidodentrodeumbairrodediversõesnodistritodeTsuji.Pro
TraduzidoporLucasBarbozaDolivro"BunoMai"(DançaMarcial)porSeikichiUehara,1992.AutobiografiadeSeikichiUehara9PorqualrazãoaMotobuUdundīfoitransmitidaparamim?PorqualmotivoaMotobuUdundī,umaartequehaviaatéen