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北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑱“度重なる不信感”※くらしと福祉北九州」2022年4月1日号より転載(平和とくらしを守る北九州市民の会発行)さて、2018年9月20日、北九州市は城野遺跡の方形周溝墓部分(約350㎡)を含む計640.05㎡を大和ハウスから無償譲渡されたのであるが、譲渡一週間後の9月28日に大和ハウスは市内の建築会社に残りの開発予定地5,866.12㎡を転売している。当初落札した面積は、現在開業しているユメマート城野店敷地部分9,529.08㎡を含む計16,
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第6章立ち上がる市民と城野遺跡①“守ることと伝えること”2011年2月も後半になる頃、文化財行政を担う市職員からは、城野遺跡の保存交渉などについての情報が全くないまま時間は過ぎ、発掘終了時期が近づいてきました。このままではせっかく見つかった玉作り工房跡も壊れてしまう……、私の担当調査区でみつかった九州で2例目の貴重な遺構をこのまま埋め戻すわけにはいかない。私は、遺跡を守るということは内部の組織と戦うことだ、とその時思
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑰“人の褌で相撲を取る”※くらしと福祉北九州」2022年3月1日号より転載(平和とくらしを守る北九州市民の会発行)2013年7月、福岡財務支局が公共広報により城野遺跡の土地を公的団体向けに土地売却する公募を開始したが、参入者がなかったため2015年11月には一般競争入札の公示を行い、計16社の応札があったという。そして翌2016年1月19日に開札され、そのうちの1社が落札した。これが大手の住宅建設会社大和ハウス工業株式会社である。ところが北九
山梨県立考古博物館風土記の丘研修センターこちらにも土器の展示があります。風土記の丘研修センターの前ここで失態を💦景色に満足して、研修センターの北東にある「東山南遺跡B地区(勾玉の広場)」へ行くのを忘れてしまいました。東山南遺跡B地区からは、弥生後期竪穴住居跡1軒と古墳時代中期の低墳丘円墳2基が発見されています。溝からは県内最古の須恵器樽型𤭯(はそう)と把手付椀が出土してるんですよ~。周溝
とてつもなく立派な増上寺には目をくれず、芝公園内の芝丸山古墳を目指す。都内の古墳と言うのを見てみたかった。5世紀頃の南武蔵の有力豪族首長墓とのこと。埋立地とビル群とアスファルトを全て頭から取り除いて、往時の風景を想像しでみる。上野恩賜公園、摺鉢山古墳。墳丘上は沢山の人が憩っていた。東大本郷キャンパスの一角にある弥生貝塚、弥生式土器発掘ゆかりの石碑。弥生土器、弥生時代の弥生は、この場所の町名から名付けられた。人生2回目の東大侵入(自由に見学して良いと書いてあった)。弥生二丁目遺跡?
吉野ケ里遺跡にきました古墳時代でないですがいいでしょう邪馬台国かも知れないし、この訪問の後には新たな発掘でニュースにもなっていましたし、そう知らなかったのですがここは何と国営です『弥生時代と吉野ヶ里』弥生時代とは、今から2400〜1700年前、およそ700年間続いた時代です。吉野ヶ里遺跡は、この弥生時代700年間の流れを辿っていける全国唯一の遺跡です。現在復元しているのは、今から1800年前頃の吉野ヶ里の姿です。みなさん、ゆっくり弥生の世界を楽しんで下さい。…西暦200年頃と
真岡市指定史跡稲荷山遺跡指定日平成4年3月13日史第6号所有者真岡市稲荷山遺跡は、故佐藤行哉氏らの研究によって、古くからその存在は知られていました。この遺跡を含む西高間木・伊勢崎地内に昭和50年より大規模な土地区画整理事業が実施されることとなり、その工事に先立って昭和51年から3次にわたる発掘調査を実施し、弥生時代後期後半(二軒屋式)の竪穴住居跡1軒、古墳時代前期の方形周溝墓5基、古墳時代後期の竪穴住居跡4軒が発見されました。また、方形周溝墓の周溝より縄文時代草創期の微隆起線文
前回(#117セルフアーカイブ埼玉県立歴史と民俗の博物館2)は関東平野の弥生土器の変遷を順番に追ってみまして全体像が分かりにくくなってましたので地図上に可視化してまとめますね。まずは東京都・埼玉県の方形周溝墓の分布を図にしてみました。↓明るい茶色の部分は丘陵、台地ですが東京から埼玉までしか描いていませんのでご承知を。水色は主要河川で黄色ポイントは方形周溝墓です。河川は現在の状況を描いておりまして弥生時代では水域が現在よりもかなり広大だったと思われますので、たとえば荒川は茶色の台地の間を
炎天下は突然にやってくる。寒い冬の現場。暑い夏の現場。どちらがいいかと言われると、大抵の仲間は冬⛄!と言います。冬は何でもかんでも着込めばいいからです。夏の暑いのはどうにもなりません。日差しを避けるために帽子やタオル、長袖を使えば、今度は暑くなります。それでも直射日光に晒すわけには行きません。それから水、とにかく水。お茶は一本飲めば胸焼けがします。だから水が1番です。それにお茶やコーヒーは水分補給になりません。そして漬物。浅漬けの素の美味しいのが沢山あって、揉むだけとか、つけるだけでOK。美
今夜は6月23日に訪れました安満遺跡公園探訪記第4弾をお送りしたいと思いま〜す!『秋の収穫』地点の続きになります水田からほど近い場所に、このような施設とパネルを発見パネルには『用水路と井堰』と書かれています弥生時代のこの地には、すでに水田に水を供給する用水路と水位を調整する井堰が存在していた様子これくらいの小さな区画の水田で稲作が行われていた様子🌾その周囲に用水路と井堰か整備されていたんでしょうね〜現代とあまり変わらないお米の栽培方法が確率されていたんですねここか
6月5日、吉野ケ里遺跡で発見された石棺の蓋が開けられ、「“謎のエリア”の墓から赤い顔料、有力者であれば邪馬台国につながる発見の可能性」(2023/6/5RKB毎日放送)と大きく報じられ、全国ニュースでも繰り返し取り上げられました。6月14日、発掘調査の結果、人骨や副葬品は見つからなかったようですが、6月24日、25日の一般公開には歴史的発掘を一目見ようと全国から2600名もの参加者があったようです。佐賀県は「人の骨は有機物のため分解され副葬品はもともとなかったとの見解を示した一方、墓
「城野遺跡の会」のブログをご覧いただきありがとうございます。更新が滞り大変申し訳ありませんが、まだまだ続けますので今後ともよろしくお願いします<(__)>さて、本ブログは2016年9月に開設しましたが、トップページはタイトルの名称以外はほとんど修正しないまま、今日に至っていました。この度、タイトル下の説明文、メッセージボード、プロフィールの3カ所を遅ればせながら修正しました!特にプロフィール欄には、会のオリジナル動画「朱塗り石棺の謎」「城野遺跡実録80分弥生墓制の真の姿」とともに
相原山首遺跡は中津市相原にあります。4~9世紀にかけての墳墓群です。「風の丘葬斎場」の敷地内に、古墳公園として整備されています。方墳7、円墳1、方形周溝墓1、土壙墓7、火葬墓17。1号墓は直径18m、市内最大の円墳です。周溝あり。周りには火葬墓が点在しています。2号墓、方墳です。周溝あり。石室は2m×3m。手前に排水溝があります。3号墓、方墳。周溝あり。石室は持たず中央に火葬墓。9世紀の築造。4号墓、方墳。周溝あり。全長10m、方墳の
『弥生時代』第8回「中期」時代区分早期・前期・中期・後期の4期区分水稲農耕が始まった縄文時代晩期末には、既に弥生時代に繋がる文化が見られることから、これらを縄文時代とは区分して、弥生時代早期という時代に位置付けるようになりました。現在では、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつあります。====================2003年(平成15年)に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化物の測定結果を発表しました。
『弥生時代』第7回「前期」時代区分早期・前期・中期・後期の4期区分水稲農耕が始まった縄文時代晩期末には、既に弥生時代に繋がる文化が見られることから、これらを縄文時代とは区分して、弥生時代早期という時代に位置付けるようになりました。現在では、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつあります。====================2003年(平成15年)に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化物の測定結果を発表しました。弥
昨日、センター北駅の近くにある、大塚・歳勝土(さいかちど)遺跡公園に、行きました。まずは、『バゲットラビット』で、パンを買い。公園での、パンランチを考えていて。大塚・歳勝土遺跡は、大塚遺跡と、歳勝土遺跡からなります。弥生中期の遺跡で、大塚遺跡は、集落跡。歳勝土遺跡は、墓の遺跡。縄文時代は、住居のそばに、穴を掘って埋葬していたらしいのですが、弥生時代になると、近くの場所に、甕棺、石棺、木棺などを用いて埋葬したとか。1972年に、『港北ニュータウン』の開発にともない発見されて。で、現
大阪・高槻市の駅から北方の山の中腹、そこに3世紀の中頃、邪馬台国の時代に造られたであろう安満宮山古墳があったわけですが、テラス状になって見晴らしのきくその眼下には弥生時代の安満遺跡が広がっていたのですな。古墳の被葬者はおそらく安満遺跡となっている環濠集落の長でもあったろうかと。こんなふうに安満遺跡を見下ろし(集落の長になった気分とは言いすぎですが)、やっぱり立ち寄ろうという気になってしまうわけですな。阪急の高槻市駅からは徒歩10分ほど(JRからは13分らしい)、すっかり整備された安満遺
山鹿市鹿央町千田に所在する市指定史跡の浦大間(うらだいま)古墳群です。山鹿市鹿央市民センターの東側の補助整備された農地の一角にあります。説明板によると、昭和55年度の県営圃場整備事業により、古墳時代の方形周溝墓と中世の墳墓等が確認されたそうです。現在は、遺構平面表示等もなく芝が張られている状況です。※写真は2020年5月撮影
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑪“さらに続く低次元の文化財行政”ここまで数回、城野遺跡の発掘調査に関わる文化財行政の問題点を指摘してきた。そして今回また城野遺跡に関して考えられない疑念と不信感を所管課が引き起こしてきた事実を述べざるを得ない。まず、この貴重な遺跡をなんとか保存できないか、現場サイドでは発掘調査期限も迫る中、九州2例目の玉づくり工房や竪穴住居など貴重な遺構群を保全した上で埋め戻すための方策を文化財課の係長に投げかけた。具体的には遺構の壁面や床面を保護するとと
みなさま、こんにちは今年5月に「城野遺跡公園を実現する会」から「城野遺跡の会」に変わりましたが、引き続きブログでの情報発信はボチボチながら続けています。今後ともよろしくお願いします<(__)>さて、連載「北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う」は、2020年10月から「くらしと福祉北九州」に毎月寄稿されている記事を2021年3月から転載しています。北九州市の数ある遺跡の発掘調査に40年以上携わった佐藤浩司氏(埋蔵文化財調査室前室長)が北九州市の埋蔵文化財行政の問題点を具体的な事例
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第4章立ち退かされた弥生人②“栄枯盛衰は世の常か”前回のブログでは、弥生時代後期前半期に約200年間、城野遺跡の集落が途絶えた事実をご紹介しました。その後また集落が築かれ、城野遺跡が最も栄えた弥生時代終末期は、まさに邪馬台国の女王卑弥呼がこの国の王として君臨していた時代です。当時、中国は魏・呉、蜀(しょく)が覇権を争う三国時代(220~280年)でしたが、239年、卑弥呼は魏の国に使いを送り、「親魏倭王」の称号と金印を手にし
2年ぶりに大宮八幡宮様へ、夫と参拝しました。杉並区にあります。私は2度目の参拝です。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%AE%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE_(%E6%9D%89%E4%B8%A6%E5%8C%BA)大宮八幡宮(杉並区)-Wikipediaja.m.wikipedia.orgこの日テレビを観ていたら大宮八幡宮様が紹介されていて、行こう❗と突然思い立ち車で出かけました。
2009年~2011年に北九州市小倉南区の城野医療刑務所跡地の発掘調査で発見された弥生時代後期(1800年前/邪馬台国時代)の城野遺跡。九州最大級の方形周溝墓と水銀朱(中国産)がたっぷりと塗られた幼児の箱式石棺2基、石棺に描かれた「方相氏」ともいわれる絵画文様、九州2例目の玉作り工房などが見つかり、日本考古学協会が発見当時から国県市に3回も「現状を保存し、史跡として整備・活用を求める」要望書を提出するなど、学術上極めて重要な遺跡です。そして、2020年3月、方形周溝墓は「地域の有力者
(143)群馬県富岡市弥生時代後期の高地性集落中高瀬観音山遺跡(確認調査現地説明会)今から約1900年前の2世紀後半、魏志倭人伝(『三国志』魏書卷30東夷伝倭人)によるところで、倭国は大乱の時代であった。大乱のあった地域や範囲は特定されていないが、群馬県富岡市の関越自動車道建設の際に、平地から50mの台地上に弥生集落の跡が発見(1989~0990年に発掘調査)されたことから、東日本の地域までその乱は及んでいたのではないかとの仮説が立てられるようになった。その遺跡が中高瀬観
前回の続きで、福井県の古墳巡りについてです福井県内で、どうしても行きたかった古墳のひとつが、この王山古墳群です鯖江市日の出町にあり、最寄りはJR鯖江駅。駅から徒歩で約15分弥生時代中期末~古墳時代中期にかけて、丘陵に計54基の方形周溝墓や方墳などが造られました整備済みなので、歩きやすいです東登り口から丘陵に入ると、道の脇に古墳が見え始めます(西登り口もあります)登りきったところに、王山40号墳が登場1世紀頃築造の方形周溝墓、東西23.5m、南北21m、高さ推定3m墳丘から東側を見
2009年~2011年の広大な城野医療刑務所跡地の発掘調査で発見された弥生時代後期(1800年前/邪馬台国時代)の城野遺跡。かろうじて現地が保存された方形周溝墓が「福岡県指定史跡/城野遺跡公園」としてオープンしました!発見当時、全国的に注目され、現地見学会には約600名が参加し、北橋健治市長も視察し、日本本考古学協会や九州考古学会も国県市に「現状保存し、史跡として整備・活用」を求める要望書を出すほど、学術上極めて重要な遺跡でした。北九州市は国(財務省)と2年にわたり保存交渉をしました
こんにちは東武伊勢崎線竹ノ塚駅の北1kmのところ白旗塚古墳があります直径は12m、高さ2.5m、築造は6世紀ごろと推定されます現存するのはここ1基ですが、江戸時代までは周辺に7基ほど塚や古墳があることがわかっています古墳の南側には埴輪のレプリカが展示してあります古墳の周りをぐるっと一周、次に向かいます白旗塚古墳の西800mのところ伊興遺跡公園に来ました伊興遺跡は主に古墳時代前期に栄え多くの土器や勾玉などを遺しましたが後期(6世紀)以降衰退しまし
今日は“節分”ですね。実は、城野遺跡は日本における節分の始まりを400年早めるとも言われています。それは、城野遺跡の九州最大級の方形周溝墓で発見された幼児の箱式石棺に描かれた絵画文様が「方相氏」の可能性があるからです。手に盾と矛をもつ四ツ目の「方相氏」は古代中国の「周礼」に登場する悪霊払いをする役人で、日本では節分の鬼やらい(追儺)となり、京都の吉田神社の節分祭の鬼は「方相氏」の姿を今に残しています。※最後に掲載している発見当時の朝日新聞一面の記事をご参照ください。さて、1月23日、九州
『古墳』第2回「前方後方墳」(ぜんぽうこうほうふん)前方後円墳の後円部を方形にした古墳の墳形の一種。東海地方では、3世紀前半の弥生時代終末期頃から前方後方墳の祖形である方形周溝墓が造られ始めました。方形墓の周壕が一周するものや、方形の一辺に突出状の祭壇を設ける墓が多く造られました。そしてやがてその際壇部や陸橋部が発展し前方後方形が出現しました。方形周溝墓から前方後方墳の出現(赤塚氏)方形周溝墓から前方後方墳への成立に濃尾平野が重要な役割を果たしたと考え