ブログ記事114件
☆用明天皇河内磯長原陵(こうちしながはらのみささぎ)河内国石川郡大阪府南河内郡太子町大字春日(P有、常時開放されているかは不明)第31代用明天皇の治定墓。「二上山」と「岩橋山」との間の谷筋を縫うように走る「竹内街道」沿い、「王陵の谷」と称され、敏達天皇陵・用命天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と王陵が密集する地。周辺の古墳を含めて「磯長谷古墳群」と称されます。学術名は「春日向井山古墳」。東西65m南北60mの方墳。空壕が巡らされ、外堤までも含めると100mほ
☆敏達天皇河内磯長中尾陵(太子西山古墳)河内国石川郡大阪府南河内郡太子町大字太子(P無し、近隣停め置き不可)第30代敏達天皇の治定墓。母の石姫皇女が合葬されています。「王陵の谷」と称される敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と王陵が密集する地。5つの陵墓がまるで梅の花びらの如くと「梅鉢御陵」とも。「二上山」と「岩橋山」との間の谷筋を縫うように走る「竹内街道」。5つの陵墓はこの街道筋付近に築かれました。「磯長谷(しながだに)」と呼ばれています。また周
一喜一憂しないみなさん、おはようございます雨のところが多いです洗って、祓っていただきましょうテレビ、マスコミは怖い勢力です世の中は混沌としてきましたこんな時は一喜一憂しない自己をしっかりと持っていきましょうアリガトウ「4月3日」の國史です「憲法十七条、制定」推古天皇12年(604年)聖徳太子は第1条で和を以て貴しとなすと神道を述べます篤く三宝を敬え仏教ですその他、儒教、道教、キリスト教の考えを織り込みます十七条の17の意味は
中大兄皇子によって飛鳥への還都が断行され、さらには最愛の妻にも裏切られた形の孝徳天皇が翌年に崩御した結果から考えますと、この事件は、乙巳の変につづく第2のクーデターといえます。その仕掛け人はもちろん、中大兄皇子です。しかし皇子はこのときも皇位につかず、孝徳崩御翌年の655年、皇極天皇が斉明天皇として重祚(ちょうそ=退位した天皇がふたたび行為につくこと)しました。その理由として当時の天皇即位年齢が挙げられています。7世紀に在位した天皇の即位年は最年少でも敏達天皇の
11月22日、八尾の大聖勝軍寺に参拝してきました。この日は大聖勝軍寺だけでなく、近隣の太川神社、渋川神社、比枝神社にも参拝してきました。自転車で4社巡り、ヘトヘト…話は変わりますが、あれだけ流行った『鬼滅の刃』も観ていなかった息子が、最近『呪術廻戦』にハマり、漫画まで買いだしました。ココ数日、兄妹で呪術廻戦の話で盛り上がっています。ワタシは五条悟が大好きなので、昨日は五条悟の話で会話に参加してました。で、気付くのです。あれ?大聖勝軍寺に呼ばれたタイミングで五条悟の話ばっかりさせら
ちょっと休憩水分補給に馬路村の柚子のドリンクを飲みました^^そして息長陵へ敏達天皇の皇后、廣姫の御陵敏達天皇、広姫の後の皇后は後の推古天皇。敏達天皇と推古天皇は異母兄妹…住宅地を抜けると景色はガラッと変わり、田んぼが広がっています。考古学的には、この皇后塚は古墳時代中期の5世紀代の築造と見られ、広姫の墓とするには否定的な見解が強いそうです。私は考古学者じゃないからその辺の事情は実はどっちでも良くて、ただただのびやかさを満喫できる空気が溢れていました。そういう意味では時
この勅許の後、蘇我馬子の病いは治りましたが、敏達天皇は崩御されました。次に即位されたのは聖徳太子の父、用明天皇です。太子は陛下に「長寿はかないません」と予言されました。その予言通りに、即位二年目にして病に倒れられました。陛下が食事されないときは太子も食事をとらず、香炉を持って祈祷され続けました。用明天皇は病床から群臣を集められ言われました。「私は三宝(仏法僧)に帰依いたします。そのことの是非を論じてください」天皇陛下が三宝に帰依されることはこの国が公に三宝に帰依することと同義です。物部守
蘇我馬子大臣は、深く仏教に帰依していましたが、なぜかいつも病気がちでした。原因を占うと「神の祟り」と出ました。そのことは天皇陛下にご報告されました。陛下は、側に控えていた太子に問われました。「我が国の基は国神(くにつかみ)の祭祀にある。大臣は他国神(あだしくにのかみ)を招き、祀った。それ故の祟りであろうと思うが、太子はどう思うか」太子は、「神々は三宝に従うものです。神祇があえて仏とたがえ、祟りをなすなどということはありえません。大臣が仏法を請じたことは、国にとって福でございます。大臣には仏を
第三十代敏達(びだつ)天皇は大和時代の天皇です。御父欽明天皇の第二皇子、御母は宣化天皇の皇女で欽明天皇の皇后石姫。異母弟に聖徳太子の父である用明天皇と崇峻天皇、また異母妹の額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)、古事記では豊御食炊屋比賣命(とよみけのかしきやのひめのみこと)は、後に敏達天皇の二番目の皇后となり、また即位もされる後の推古天皇ですが、いずれも母方が蘇我氏である蘇我系の異母兄弟達です。※当時は異母姉妹との結婚は普通。ただし同母姉妹とは禁止。御名は渟中倉太珠敷命(ぬなくらのふとたましき
2019/01/15配信<第30代敏達天皇>沼名倉太玉敷尊[ぬまなくらふとたましきのみこと](皇后)推古天皇(皇子)竹田皇子(若くして死)(皇子)難波皇子ー□ー□ー橘諸兄(楠木・分家)
8月29日に訪れた福島県の古墳、続きです。三春町の「へいどう壇古墳」をあとにして次の古墳を目指していたら・・・・↑道の横にマウンドを発見↑角度を変えて※写ってる車は今回利用したトヨタレンタカーマウンドの上には小さな祠もあります。三春町にある「そや壇古墳」かと思いましたが、場所は本宮市です。場所はこちら:37.483372,140.499273こちらのマウンドの詳細、ご存知の方、コメントお待ちしています。上記のマウンドから10分ほど走っ
愛宕山の縁起によると、敏達天皇が10歳の聖徳太子の教育係として百済より日羅上人を呼び寄せます。ところが、天皇の内政や、三韓情勢に関する献策や、無断渡航に怒った百済王の追討軍との間で、難波における戦闘となります。日羅上人は百済軍に勝利しますが撃退した自責の念から、淀川を遡上し愛宕山に隠棲することを決めます。最初愛宕山の天狗は妨害しますが、ついに日羅上人に屈服して上人を守護するようになります。その後、聖徳太子は死に瀕した日羅上人を愛宕山に見舞い、日羅上人は太子に仏教興隆を勧め、自らは愛宕山の大権
少しずつ書き綴って参りました、和歌山旅行と大阪旅行の記録の続きです。弘法大師様ご生誕1250年のまたとないおめでたい年に高野山に上ってお祝いとお礼とを申し上げる事が叶い、またそれに先立って覚鑁上人ゆかりの根来寺さまと西国三十三観音札所の粉河寺さまとに参詣出来た上に、聖徳太子様と弘法大師様ゆかりの龍泉寺様にお詣りする事が叶っただけでなく、さらに聖徳太子様御陵のある叡福寺さまに参詣して月命日のご法要にまで参列する事が出来るなんて、何から何までなんと有り難
おはようございます昨日も暑かったですがこのところ暑さに負けてウォーキングをしていなかったので少し気温が下がった16時頃から少し歩きました目的地が無いと歩く意欲が湧かないので昨日は自宅から1キロちょっとの推古天皇陵まで歩きました到着した時、お一人お参りされている方がいて熱心に参っておられたので少し待つ事にしました推古天皇は、第33代の天皇で、日本で初めての女帝とされています推古天皇の下で蘇我馬子と共に政治を行ったのが推古天皇の執政
先日、日本最古の官寺四天王寺に参拝してきました。四天王寺金堂ご本尊救世観世音菩薩初めて金堂に入ったのですが、救世観世音菩薩が美しかったです。釈迦の誕生から涅槃までが描かれた壁画も素晴らしかったです。五重塔の内部は上れるようになっていましたが、今回は上ってません。次回は上ってみたいと思います。さて、サインに従って呼ばれる場所に参拝してるのですが、最近呼ばれてる場所を振り返ると、四天王寺七宮に呼ばれていたことに気付きました。四天王寺七宮とは?(まとめ)四天王寺七宮(してんのう
敏達天皇~橘~牛島家一門の家系図が完成しました!(20230603版)
敏達天皇~橘~牛島~牛嶋治太郎への家系図が完成しました!
敏達天皇~橘~牛島家一門の家系図が完成!
2023-02-04そろそろ上がるのかな?日本橋駅を通り過ぎますトコトコ〜国立文楽劇場いっぺん生で観てみたいなぁ〜てか、生じゃなくても、どんなんか観てみたいかも〜あ、カワイイそろそろ行こ谷町九丁目駅通り過ぎま〜す熊野街道上本町駅ハルカスが見えてる〜今日のゴールは天王寺てことは、ハルカス目指して歩けば着くねトコトコ〜五條宮敏達天皇が御祭神聖徳太子のお父さんの兄(異母)推古天皇の旦那さんであり兄(異母)入ります樹齢500年のいちょう…修復のために切っ
「船王後墓誌」考(続)一,はじめに多元№一七三に古賀達也氏の「宮名を以て天皇号を称した王権」なる論考が掲載されている。そこでは,まず「橘高修さんの問題提起」として次のように述べられている。『東京古田会ニュース』二〇六号(二〇二二年九月)に掲載された橘高修さん(東京古田会・事務局長,日野市)の論稿「『船王後墓誌』から見える近畿王朝」で重要な指摘がありました。本稿ではその問題点を紹介し,古田説への影響について考察しました。筆者は,「東京古田会ニュース」の会員では
昨年末の墳活一人旅、一日目(12月28日)に訪れた古墳、続きです↑国土地理院の航空写真から地理院地図/GSIMaps|国土地理院磯長谷(しながだに)古墳群の支群、葉室古墳群を今日はアップします葉室塚古墳は周溝の痕跡も航空写真でわかりますね↑まずはモンド塚古墳「モンド」という名前・・気になります調査はされてないようで、古墳かどうかもハッキリしていないようです。備忘録:右奥に写ってるのが今回3日間利用したレンタカー、軽自動車、トヨタのピクシスジョイ。
今日アップするのは第30代敏達天皇の陵墓です訪問日は昨年12月28日。高校で日本史を勉強すると、廃仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子の対立が激化した頃の天皇として学びます。ちなみに敏達天皇は廃仏派で、仏教禁止令も出しました。↑国土地理院の傾斜量図地理院地図/GSIMaps|国土地理院前方後円墳というのがよくわかります墳長93メートルもしくは113メートルの前方後円墳。埴輪をもちます。↑ここから坂を上って行きます。ローソン上宮太子校前点に車を停める
『日本国記』『日本国記』厩戸皇子は聖徳太子-「利歌彌多弗利わがんどおり」であった。限りなく真実に近いアナザーストーリー【30A】ひじかたすいげつ「聖徳太子」はいなかったという人がいたが、もしそうなら「推古天皇」より前の「天皇」もいないことに。当時の天皇は「天皇」という名称ではなかった。当然、厩戸皇子も「聖徳太子」ではなかった。だからと言って、「推古天皇」はいなかったことにはならないし、「聖徳太子」もいなかったことにはならない。59
『日本国記』「17条の憲法」は「蘇我馬子に対する挑戦」であった。限りなく真実に近いアナザーストーリー【29A】ひじかたすいげつ「和をもって貴し」という言葉を知らない人はいない。聖徳太子はなぜこんなことを言うのか?604年聖徳太子は「17条の憲法」と作った。作ったと書いたのは、この「17条の憲法」は国家としての憲法でもなく、天皇としての推古天皇が詔したものでもない。厩戸皇子が勝手に作ったものであり、憲法ではない。なぜこんなも
閑話休題(四四)一,令和四年七月十八日(月)BS・TBSで,にっぽん!歴史鑑定「古代ミステリー日本初の女性天皇推古天皇」が放送された。番組は,初の女性天皇である推古天皇の即位とその後の推古の政策について,「日本書紀」の記述を下に進められた。ただ,「隋書」のみに記載され,「書紀」には記述の見えない六〇〇年の第一回遣隋使についてはその事実を取り上げている。そして,記事の重要な部分について,遠山美都男(学習院大学講師)氏がコメントを挟むという形で番組は進行した
春日神社(桜井市戒重)大和国十市郡奈良県桜井市戒重557(P無し、何度も参拝しているので歩道に乗り上げ短時間で済ませています)■延喜式神名帳他田坐天照御魂神社大月次相嘗新嘗の論社■旧社格村社■祭神天児屋根命天太玉命武甕槌命比売命国道169号線沿い、桜井市街地内に窮屈に鎮座する小さな社。◎当社は式内大社他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてるみたまじんじゃ)の論社。別に論社として桜井市太田に鎮座する他田坐天照御魂神社。また境内は敏達天皇の「訳語田幸玉宮(おさ
胡宮神社(このみやじんじゃ)の創建年代については不詳であるが、青龍山の巨石(磐座)信仰が起源と言われており、御祭神は多賀大社と同じ伊邪那美命・伊邪那美命である。当神社は、敏達天皇(572~585年)の勅願により、聖徳太子が創祀したとされる天台宗の敏満寺の鎮守社として祀られ、敏満寺の境内のこの地に鎮座している。敏満寺は、48伽藍の寺院であったが、戦国時代の浅井長政、織田信長の焼き討ちによる兵火で敏満寺は焼失し、徳川時代に神社だけが再建されたとされる。当初は、多賀大社胡宮大明神と称していたが、
2019/01/15に公開<第30代敏達天皇>沼名倉太玉敷尊[ぬまなくらふとたましきのみこと](皇后)推古天皇(皇子)竹田皇子(若くして死)(皇子)難波皇子ー□ー□ー橘諸兄(楠木・分家)