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2024年3月30日(土)『室原城』→『今城』→『根本城』その2の続きです。最後は根本城です。根本城は武田氏の一族でもある若尾氏によって築かれた城です。武田氏の東濃侵攻に伴い最先端の拠点として築城されました。武田氏滅亡後も若尾氏はこの地にとどまり、若尾甚正は兼山城主・森長可に従っていたようです。主郭北側の曲輪の土橋土橋架かっている堀切主郭北側の曲輪主郭と北側の曲輪を隔てる大堀切(高さ約4mある)主郭南側の腰曲輪主郭南側の切岸(高さが約6m
2024年3月30日(土)『室原城』→『今城』→『根本城』その1の続きです。次は今城です。今城は金山城主・森長可に仕えていた小池家継の居城です。1582年(天正10年)に織田信長が「本能寺の変」で討たれると、それまで森氏に従っていた東美濃の豪族が反抗するようになり、長可に鎮圧されました。その後、1584年(天正12年)に起きた「小牧・長久手の戦い」の際に森氏が改修して利用したと考えられています。大手門(大手口ではなく、ただの竪堀だと思う?)古地図にも大手門と記載され
2024年3月30日(土)今回も可児市の山城の攻城最終回です。(とりあえず)まずは室原城です。室原城は、築城年代は定かではないが可児氏累代の居城であった。永禄8年、美濃を制した織田信長は、森可成を金山城主に封じて東美濃の旗頭とした際、城主可児秀行は森氏に臣従した。慶長5年、森忠政が信濃川中島へ移封された時、可児勝行もこれに従って信濃に移り、室原城は廃城となった。南側出曲輪の土橋南側出曲輪の土橋の横にある竪堀南側出曲輪の折坂虎口南側出曲輪主郭東側腰
2024年3月10日(日)『大森城』→『下切城』→『土田城』その1の続きです。次は下切城です。下切城は関ヶ原合戦で徳川家康に味方した岡田善同は可児、羽栗郡内に五千石を与えられた。これによって築かれた。麓にある水の手?(今でも水が湧き出ている)横堀らしき溝竪堀らしき溝削平された場所(後世の竹林の耕作地か?)切岸らしき法面腰曲輪らしき削平地主郭らしき場所(祠が祀られている)主郭からの眺望縄張り図がないので、想定ではあるが削平
2024年3月10日(日)今回も可児市の山城の攻城4弾目です。まずは大森城です。大森城は金山城主・森長可に仕えていた奥村又八郎元広の居城です。1582年(天正10年)、織田信長が「本能寺の変」で討たれると、それまで森氏に従っていた東美濃の国衆は森氏に反旗を翻しました。又八郎も長可を謀殺しようと計画しましたが内通者が出て発覚したため、長可に攻められ、又八郎は城に火を放って越前へ逃亡して前田利家に仕えました。その後、「小牧長久手の戦い」の際に森氏により金山城周辺の押さえの拠点として
「ラテン語四週間・村松正俊著・大学書林発行」の中の羅文を和訳する部分の逐語訳に挑戦しました。あくまで私見です。いよいよ第4週です。「ガリア戦記第2巻31節」を改変したものと思われます。塔が(turrim)動かされ(movērī)そして(et)壁に(mūrīs)近づいていくのを(appropinquāre)見た(vīdērunt)時(ubi)新しい(nōvā)光景によって(speciē)心を動かされ(動揺して)(commōtī)カエサル(Casarem)の
滋賀県米原市太尾山城のつづきです。南城から北城へ侵攻します。こんな感じです。南城から北城への尾根道。尾根を断ち切る堀切。南から北城へ侵攻する敵をここで防御、または遅延さす。堀切の土塁を越えての小郭ですが、こんな感じで茂ってます。~からの段差上は主郭手前(南)の郭。こちらもシゲシゲ状態なので、歩き回るの遠慮します。シゲシゲ郭を抜けると主郭の城塁。城塁左から主郭へ。北城主郭読むも読まぬもアナタ次第。主郭からの眺望。眼下に米原
2024年2月18日(日)『明智城』→『上恵土城』→『羽崎城』その1の続きです。二城目は上恵土城です。上恵土城は築城年代は定かではありませんが、天正10年(1582)頃の城主長谷川五郎右衛門は大森城主奥村又八郎と謀って、金山城主森長可を攻め滅ぼそうとしますが、逆にその謀議の報告を受けた長可に攻められ、落城したと伝えられています。土塁と空堀城址周辺は削平されていて住宅と畑になっている。土塁らしき場所はあるが、一部すぎて城の全容がわからない。最後は羽崎城です
2024年2月18日(日)今回も可児市の山城の攻城3弾目です。まずは明智城です。明智城は明智光秀が生まれた城として知られています(諸説あり)。光秀は11歳で城主となり、斎藤義龍に攻められ落城するまでの30年近くをこの城で過ごしていたと考えられています。大手曲輪の切岸大手曲輪大手曲輪からの眺望大手口(冠木門があったが撤去されていた)東側尾根の曲輪群東出丸東出丸の虎口?(後世に切土した感じが残る)中の丸の切岸(石積み?の跡が残る)
紀伊国撤退途中に伊勢国で1城抜いて帰りました。三重県多気郡多気町伊勢・五箇篠山城(ごかささやまじょう)別名:五ヵ城築城は鎌倉時代(1185~1333)中期~南北朝時代(1337~1392)とされ、築城者は上野国から伊勢国へ移住した野呂氏代々の居城であったとされる不確実な説。南北朝期には国司北畠氏に属して南朝方の拠点のひとつであったが、伊勢守護の仁木義長に攻められ落城したとされる。室町期には北畠氏被官の五箇氏が居城してたとされるが、五箇氏は文明年間(1469~87)に北畠氏に背
2024年1月28日(日)『千村陣屋』→『久々利城』→『本陣山城』→『権現山城』その1の続きです。三城目は本陣山城です。本陣山城は築城年代は定かではないが天文年間(1532年~1555年)に小栗信濃守によって築かれたと云われる。小栗信濃守がそれまでの居城権現山城から本陣山城を築いて居城を移した。天文21年(1552年)小栗信濃守は土岐郡の高山城を攻めたが敗り、逆に小里氏や遠山氏によって攻められ御嶽城は落城、信濃守は自刃して果てたという。登城道(階段が続く高低差が結
鬼ヶ城より伊勢方面へ移動しました。三重県北牟婁郡紀北町海山区小山浦紀伊・後山城(うしろやまじょう)後山城は13〜14世紀頃に新宮荘園の荘司である木本盛房が居として築いたと云われています。盛房が木元に移ったあとは廃城となり、その跡地に三浦の豊浦左衛門が屋敷を構えたと云われています。現在城址には石積や土塁のほか、石垣の水門が残っています。とのこと。まずは近くの歴史スポット。焼窯跡。興味のある方はお読みください。後山城の登城口です。右は長泉寺、左には本陣を敷かせ
2024年1月28日(日)今回は以前、可児市の戦国山城ミュージアムに行ったとき可児市の山城の紹介があったので、数回に分けて探索及び攻城をしようと思う。まずは千村陣屋です。千村陣屋は木曽氏の一族である千村良重によって築かれた旗本陣屋です。良重は木曽義昌・義利に仕えていましたが、徳川家康に召し出されると「関ケ原の戦い」で功をあげて旗本となり、久々利城の根古屋であった場所に陣屋をかまえました。千村陣屋の敷地内に可児郷土歴史館があります。久々利城が隣接していて久々利城の資料
2024年1月26日(金)今回は村積山に登るついでに奥殿陣屋に寄ってみた。奥殿陣屋は松平乗元を祖とする大給松平家によって築かれた陣屋です。松平乗次の代に1万6千石の大名になると、松平乗真の代に大給から奥殿に移りました。廟所石垣土塁物見場金鳳亭(模擬復元)書院(移築復元)裏山の村積山山頂村積山からの眺望(恵那山が見えた)物見場、土塁、廟所などの遺構は残っているが建物の位置関係は移築されていて当時とは違う。ついでに村積山に登って眺望が楽し
2024年1月6日(土)『美濃金山城』→『顔戸城』その1の続きです。次は顔戸城です。顔戸城は斎藤妙椿によって築かれた城だと伝わっています。東側土塁と空堀(堀の深さは約5.5mある)西側土塁と空堀南側切岸南側土塁と空堀北側空堀北側虎口の土塁北側土橋北側虎口(土橋がある場所)東側土塁北東隅の櫓土台(周りの土塁の高さより高くなっている)北東隅の櫓土台のすぐ横にある虎口(空堀には土橋がなく木橋が架かっていたのだろう
2024年1月6日(土)今回は「センゴク一統記」9巻に出てくる「美濃金山城」と周辺の攻城です。まずは美濃金山城を攻城する前に戦国山城ミュージアムで勉強です。美濃金山城縄張り模型久々利城縄張り模型戦国山城ミュージアムでは美濃金山城だけではなく、久々利城、大森城、今城、明智城の資料も手に入るので入館する価値があります。それでは美濃金山城の攻城です。美濃金山城は1537年(天文6年)、斎藤正義が「烏峰城」として築城したのが最初です。その後、織田信長が森可成に
2023年12月17日(日)『小川城』→『岩根城』→『藤井城』→『木戸城』→『本證寺城』その2の続きです。最後は本證寺城です。本證寺城は浄土真宗の寺院で鎌倉時代後期に慶円によって開かれました。16世紀前半になると二重の堀と土塁が築かれ城郭寺院となる。永禄6年に勃発した三河一向一揆の拠点の一つです。北側の外堀東側の外堀庫裏西側の土塁と空堀庫裏北側の一重目(内側)の土塁と空堀庫裏北側の二重目(外側)の土塁と空堀本堂北西側の水堀本堂西側の水
2023年12月17日(日)『小川城』→『岩根城』→『藤井城』→『木戸城』→『本證寺城』その1の続きです。3城目は藤井城です。藤井城は南の東条氏・吉良氏に備えた藤井松平氏の城館でした。台地にの東端に築かれた城館であり、かつては堀に囲まれた土塁があったと伝えられている。土塁のなごりらしき場所現在、遺構はないが矢作川から眺めると台地の端部に城館があったことがわかる。4城目は藤井城のすぐ近くにある木戸城です。木戸城は文明年間頃、松平親忠に従い木戸村に移り住ん
2023年12月17日(日)今回は抗がん剤治療中で気分がすぐれない時があるので、近場の城を攻城することにした。まずは小川城です。小川城は石川政康が築城し、その子、康長、春重の三代の居城となった場所です。小川城の北にある的場の地は家臣達の弓術の練習場でした。現在は住宅地内にある公園の片隅に石碑があり、公園の片隅の盛り上がった部分は遺構ではなく、公園整備の時の築山と思われる。次に岩根城です。岩根城は鎌倉時代に加藤正成が築いたと伝わる城館です。賤ヶ岳七本槍の一人であ
宵田城の後に楽々前城(ささのくまじょう)を攻めようと企てていたところ、城名とは正反対の登城道なくて斜面を直登せなあかん激過酷な城攻めとなりそうな山城ということを思案した挙句、やっぱやめました2年前に攻め撮った画像をPCに落した数日後にPCさま討死にいたしまして、HDに落とす前に「鶴城、豊岡城、豊岡陣屋跡」の画像が消滅したので、再度この鶴城だけでもと2度目の攻城です。前回見れんかったとこも見たかったので。豊岡市山本字鶴ガ城・上ノ谷但馬・鶴城(つるじょう)別名:田結庄城別題
皆様、おはようございます。☀☀☀☀☀本日も見事な攻城日和(攻城日記は後日にアップ)さてさて早速、本題の代行情報ですぞ!!(珍しく脱線しない)本来ならすでに決まっていた代行が1日だけあったので期日が迫ってからのアップで良かろうと思ってましたが!!担当IRが体調不良のため12月一杯お引き受け致します。😅😅😅😅1日・8日・15日・22日・29日シンプリーエアロ⭐⭐11時45分〜12時25分K東大島になります。😉😉😉😉⬆️⬆️⬆️⬆️⬆️⬆️⬆️先週のマル
前の7月に出陣した柳生から間を置いての9月の攻城記録です。何故なら地獄のような激夏であった8月の攻城数0なんです。9月になっても激残暑ですが辛抱たまらず出陣したということです。越前国へおろしそばとソースカツどんを食いに行きました。その前に城攻めです。福井県南条郡南越前町今庄越前・燧ヶ城(ひうちがじょう)別名:燧城、火打城旧北陸街道、今庄宿の背後にある通称愛宕山に平安時代末期頃に築かれた標高267mの山城です。令和3年8月、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定さ
獅子吼城を後にし、車をしばし走らせ、新府城へ向かいます。途中、こんな風景が。最近、稲刈りの後こういう干し方みてないなあ。そうこうしてるうちに、新府城に到着。駐車場は、道路を隔てた向かい側にありました。この道路、車が結構スピード出してるので、渡る時要注意です。この神社の階段を登ると、本丸に行けるようなのですが、それじゃつまらんので、左側にある登城口から、いざ参らん!こんな感じの道です。歩いていくと、ところどころに看板が。こちらは、帯曲輪。細長い曲輪なんで、「帯」というんでしょ
夏休みもそろそろ終わりの頃。今年の夏休みは、息子はバイトに明け暮れておりましたので、この日はお出かけしましょうと、やって来たのは、埼玉県比企郡にある菅谷館跡。……ですが、到着した時間が遅すぎて、こちらの資料館は閉館してしまった。残念。次はもうちょっと早く来ようぜ。で、どうしても諦めきれない息子は、割と近くにある小倉城というところに行くことにした。時間は午後4時すぎ。早くしないと暗くなっちゃうよね。とか言いながら、山の中へ突入。普通に山道。土塁です。わりと分かりやすく残ってい
広島県福山市の山手銀山城の(後編)です。毛利旗下の勇将として知られる杉原播磨守盛重。盛重の死後、兄弟の家督争いによって、毛利氏に討滅されてしまった杉原氏。そして城は廃城となる。戦国の家督争いあるあるであるある。主郭からのスタートです。主郭には表面が平べったい石が散らばっています。礎石であろうか?左の張り出しが主郭、右手から奥がⅡ郭。段差部とⅡ郭にもゴロゴロ石が散らばっている。石の大きさからしてだいたい想像は付きますね。Ⅱ郭に下り立つ。奥がやや低くなりⅢ郭。北から
さて、腹を満たしたところで、次は戸倉城へ。戸倉城の主張が薄い……お散歩コースくらいの道を登っていくと本丸と思われる場所になにかある。螺旋階段を昇っていくと……展望台でした。Wikipediaによると、今川氏が築いた説と北条氏が築いた説があり、定かではないらしい。残念なのは、公園化で遺構がよく分からなかったことですね。ただ、駐車場のところから見上げると、山城だったことがわかります。ちょっと残念感でした。つぎは沼津駅方面へ移動🚗³₃
夏休みから息子はコンビニでバイトを始め、なかなか出掛ける機会もなく。夏休みにどこにも行けないと呟いた息子。猫がいるので泊まりがけは難しいので、毎回遠くても日帰り旅行してたんですが、なんか淋しそうだったので、ちょいとビンボーではありましたが、息子の行きたいところに行くことにしました。最初、ガソリンも高いのでなるべく近場で、と言ってたのですが、韮山城に行きたいと言うので決行。静岡県伊豆半島の付け根にある、北条氏の山城です。朝4時前に家を出て、下道走って空が明るくなる頃に都内に突入したら、
今回の東北旅行でちょっと焦ったベスト3です①ラストに泊まったホテルの部屋でWi-Fiが繋がらなかったフロント前のロビーでしか繋がらないとの事で3ギガをオーバーしたくないから、部屋ではなるべくスマホをみないようにしてたけど、夜中に目覚めて何もするが事なく困りました。明るくなり散歩できるようになるまでの2、3時間が結構キツかった~今考えたら着替えてロビーに行ってれば良かったなぁ。②帰りの新庄からの山形新幹線に乗るなり、車内アナウンスがあり、この列車にコンセントはありません!とうっそー
山に登るのは足腰が鍛えられるといわれる。山に登るには足腰を鍛えておいた方がよさそうである。「名将言行録」よりろくもんの名言。西曲輪群(図の右側)から遂に城門を突破し、いよいよ東曲輪群(図の左側)へ突入します。目指すは本丸がある大筈!城門を超えたら再び地獄襲来!いだぐるじい~上におなじ~あ足が上がらな~い上がって上がってやや下がると削平地へ到達。三の丸と思ったら、三の丸手前(西)にある窪地状な郭のようです。ということは、本丸までこの郭
前編で次は後編と予告しましたが、中編となってしまいました。あしからず。備中・楪城(後編)本丸広いっ!からスタートです。主郭が三の壇であった。ということは、この先にあるあとで行く南東にある壇が四の壇になる。本丸は新見氏時代のもので、その後の二村氏の時代に二の丸、三の丸が増築されたものと思われる。なお北東側面の一部に野面積み石積みが残ってると書かれてますが、ヤブヤブ斜面なために安全を考慮して未確認です。城址碑裏撮り城址碑。石碑の左と向こうの樹が楪(ユズリハ)である。