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太平洋戦争中のふるさと島根の様子について、島根県内の小学校6年生を対象にした「平和学習島根ふるさと読本」(仮称)のような教材ができないか検討しています。各小学校での語り部活動を通じて、〇児童にとって身近な私たちのふるさとの戦時中の様子を知りたい・教えたい〇ふるさとのどこでどのような出来事があったのかを調べ教材にするだけの時間的余裕がない〇児童が戦争を「時間的・空間的に遠い出来事」と捉えることなく、「自分とのつながり」で考えていけるような平和学習はどのようにして展開すればよいの
今年も、広島の街を「被爆電車653号」が走ります。これは、広島電鉄と中国放送の共催イベント「被爆電車特別運行プロジェクト2024」です。RCC中国放送のイベントを紹介するホームページには、「被爆者の高齢化が進む中、未来の世代に平和について考えてもらうきっかけになればとの思いで、RCC被爆70年プロジェクトの一環として2015年にスタートしました。」と紹介されています。2024年は、夏休み前の7月中の平日に、事前予約した広島県内の小学生の団体が乗車できるイベントになっています
誰のためにってサイボーグ009の歌知ってますか?ちなみに歌ってます女の歌うサイボーグ009誰がためにメドレーでは先日投稿しましたが動画編集でミスをしてしまい映像が少しずれてしまいましたので009の部分だけ再投稿いたします#サイボーグ009#誰がために#アニソン#石ノ森章太郎youtu.beそして誰がために鐘は鳴る17世紀のイギリスの詩人ジョン・ダンの説教「ゆえに人を遣わして問うなかれ、誰がために鐘は鳴るやと、そは汝のために鳴るなれば」の一節を引用している意味は個人は人類の一部で
太平洋戦争中の松根油を採取する乾溜装置には3種類あったようです。東日本を中心に設置されたのが「標準型の北川式松根乾溜装置」(長野県出身の北川多助氏考案)、そして西日本を中心に設置されたのが「山本式」。山本式の考案者であった山本四郎氏は島根県出身者でした。山本式は、設備が簡単で、設置に必要な資材が少なくて済み、取り扱いが標準型より簡単でした。さらに簡単な装置として、「ドラム缶式松根乾溜装置」があったようです。松根乾溜工場の立地に適した場所として、①松根原木が豊富な場所②松根を
NHK連続テレビ小説、2024年4月からは『虎に翼』が放送中です。主人公は猪爪寅子(ともこ)。大正3年寅年生まれであったため寅子と名付けられました。女学校卒業の年、女性に法律を教える日本で唯一の学校への入学を決意。やがて日本初の女性弁護士になる物語です。5月24日(金)の放送では、戦局が厳しくなる中、寅子の夫・優三のもとにも召集令状が届き、戦地へ赴く昭和19(1944)年の日本の様子が描かれました。アジア太平洋戦争における島根県内各地区の戦没者は、各市町村史に掲載されています。
/#昭和レトロ/#未来に残す戦争の記憶//#沖縄戦/昭和19年(1944年)台湾に疎開/[語れども語れども・うまんちゅの戦争体験](462)池間キヨ子さん(91)宮古島市平良下里台湾に疎開飢えに苦しむ玉音放送日本人に一斉反発|沖縄タイムス+プラス(okinawatimes.co.jp)//午後4:22·2024年5月26日//#昭和レトロ/#未来に残す戦争の記憶//#沖縄戦//#昭和/#昭和を垂れ流そう//#タイムラインをあたかも昭和にする/
太平洋戦争中の各国民学校に残る勤労作業記録として、「桑の皮はぎ」を紹介しましたが、それと同じく「松根掘り・松脂集め」もしばしば目にする作業内容です。昭和20(1945)年1月27日付の島根新聞には次のような記事が掲載されています。「B29を落とすために松の根を掘ろう。山林島根の名にかけて」松根油採取は、昭和17(1942)年から戦力増強運動の一つとして、供出量が各県に割り当てられました。昭和18年からは国有林や保安林も開放されました。昭和19年11月、政府は「松根油の緊急増産計
太平洋戦争中の各国民学校の記録が残っています。出雲市にある乙立国民学校の記録『乙立小学校百年史』にも、太平洋戦争末期の学校の様子が記録されていました。昭和20(1945)年5月6日、笈山に陣地構築のため、陸軍兵作業隊200名が来村し、国民学校に約1ケ月間宿泊し、仮兵舎になりました。そして、6月10日からは岡山の工兵隊10数名と徴用の石工10数名が、学校を宿舎にして作業を続けていました。また、昭和21年3月に国民学校初等科を卒業した今岡さんの手記「戦中教育の追想」によると、・若い人
ジブリ「君たちはどう生きるか」🎞️、難解。尖鋭化する宮崎駿、売れることで(🇨🇳100億円を1週間で突破)、宮崎駿の表現方法を世に認めさせるプロデューサーの役割が生きてくる。🎞️「君たちは〜」は一度じゃ解らぬほど比喩、比喩、比喩に満ちていて、ペリカンが突いて割る風船が🎈何か、何故、死んだ母親が屋敷の中で横たわっているのか、戦争体験からの予習が必要。🇺🇸のアカデミーを獲得、1年のロングラン、🇯🇵も売上100億(800万人が鑑賞)は立派。難解でも皆が観に行く枠組みを創った鈴木敏文氏も評価さ
太平洋戦争下の出雲市大津町の様子が『出雲市大津町史』に描かれています。その中に掲載されている昭和16年から19年の「大津小学校沿革誌」に残る記録です。昭和16年…少年団結成昭和17年…高等科と56年生男子が防空少年隊・海洋少年隊を結成昭和18年…4月14日:斐伊川畔開墾作業(現在のゴルフ場周辺)9月4日:高等科1年生が海洋訓練(海洋道場5泊6日)に参加昭和19年…7月18日:校庭を開墾し、サツマイモ栽培(21日まで作業)6月22日:新たに新田3反5畝歩の田植え三谷山で炭
俺の祖父は?俺が中学の時!祖父は亡くなった。戦争体験なんて。ほぼほぼ語らず。だけど祖父は?今は町村合併して。消滅した町の?町長を歴任?……したのかな?戦争体験より……。戦後の立て直し?それに奔走して……。それとも語りたく?語りたくない理由?……あったのかも。AbemaTVhttps://abema.tv/AmebaPickhttps://content.ameba.jp/ameba_pick/start/
自分で言うのも何ですが、個人的に読むことを推奨する話を書いておきます。【第15話】→広島平和公園の中で、有名な原爆供養塔の説明があるため。【第22話】→国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の上の噴水に関する事を書いているため。【第35話】→被爆アオギリ二世の春夏秋冬の写真が見れるため。【第43話】、【第44話】→広島平和公園で出会った観光客の中で一番インパクトのあったデンマーク人の彼の平和への想いがよく分かるお話であるため。作者とデンマーク人の彼※ピースをしている人間が作
待ちに待った、映画「喜太郎誕生ゲゲゲの謎」。Amazonプライムで、見れました。口コミで、どんどん人気が上がっていって、最初に言われていた、興行収入よりずっと多かったと水木先生の娘さんの呟きで知りました。私は、海外在住組なので、こうやって、ネットでしか見れませんが、常に、どういう日本映画が話題になっているか、気になっています。水木先生のファンになって、ずいぶん経ちますが、やはり、鬼太郎は特別です。子供の時から見ていたのですから。そ
本を読んでもドラマを見てもストーリーが素直にスッと頭に入ってくることはなくなった最低2回は見ないと読まないと内容が理解できなくなってるこれは老化のせいと毎日相続に関する小難しい単語が並んだ書類と格闘してるからかもしれない頭のキャパがなくなってきてしまってるのに次から次へと新しいものを頭に投してるしねもう記憶もパンパンだよなあまあススたちも同じように物忘れがひどいと言ってるけどねとにかく共通してるのはみんな疲れが出ているということだよそれだけは確かだわダンナの面会が
テーマの予告?予告みたいな?戦争のテーマ?俺には体験?戦争体験ない。もっとも俺の?俺の幼少期は?戦争体験者は?ごく普通に居た。こう言えば!俺の年齢バレる。ともかく戦争!それは非現実的?久しく戦争の?当事者でない。だからピンぼけ?AbemaTVhttps://abema.tv/AmebaPickhttps://content.ameba.jp/ameba_pick/start/
太平洋戦争末期の昭和20年7月28日、四国沖に迫ったアメリカ機動部隊から飛び立った艦載機は、海軍大社基地をはじめとした島根県東部の各地域に対して攻撃を行いました。この日の攻撃により大社基地では3名の将校が戦死した他、段原鉄橋や出雲市駅付近など県内各地が攻撃を受けました。『開校百周年記念誌』S49.11刊西須佐小学校編によれば、当時西須佐国民学校に勤務していた常松武男氏は、空襲当日の様子について、次のような手記を残しています。「時に思い出深い事は、上司の命令で仕方なく村長様の制止も
「大社宮島鉄道」という路線が、昭和7年から昭和39年まで出雲今市と須佐間に開通していたことをご存じでしょうか?出雲今市と広島県三次をつなぐ全長89kmの私設鉄道として構想、山陰と山陽とを結び出雲大社と厳島神社の参拝を容易にする目的があったようです。昭和5年12月に出雲今市と須佐間18kmが着工、昭和7年12月12日に営業開始となりました。この鉄道開設により、須佐駅周辺は活気を帯び、佐田町の中心地となりました。この時須佐は飯石郡須佐村でしたが、鉄道開通により、人やモノの流れが次第に出
2024年5月13日今日は雨と風で外出は禁止である。家の中をウロウロ歩いているが、憤死の言葉を思い出す。何時もの散歩道に墓場がある。槍の形をした軍人の墓も多い。暇な時には墓石の墓標を読みながら、「あんたはどこで死んだのか。悔しかっただろう。」と語りかけながら見て回る。墓石を見ているだけで年代がわかる。戦争始めの頃は上等兵でもすごく大きい。終わりでは少尉でもその半分もない。兵隊も、志願兵でも最初は日本の為だとか天皇の為だとか思っていたようだが、何年も苦労が続くと敵のアメリカ
実施時期は違っても、全国の各市町村で「戦没者追悼式」が開催されています。島根県出雲市では、8月の最初に式典が開催され、講話や小学生の平和への誓いメッセージ発表が実施されています。私の地元の学校も、今から7年前にそのメッセージを発表する役割を担当しました。ちょうど、「わたしたちのふるさとに戦争があった頃」の実践を初めて2年目の夏でした。そのメッセージは、担任と子ども達で学習から得た学びの言葉を選び出し、メッセージとしてまとめたものでした。その一部を紹介します。「修学旅行の
大阪西区の西六国民学校は、昭和19年9月から20年11月まで、島根県出雲市大社町・荒木村へ集団疎開した学校です。当時、国民学校6年生だった高田康子さんの体験を中心に「大阪から大社へやって来た西六国民学校の子ども達の体験」にまとめ、児童用読み物資料として『大社の史話218号』に掲載していただきました。PIECEofPEACE島根教師の会では、島根の子ども達が戦争や平和について学ぶ際、私たちのふるさと島根の戦時下の様子について知ることのできる読み物資料集を作りたいという計画を持ってい
タイトルだけ見て我が家の嘘つき少年に読ませようと意気込んで借りてきましたしかし内容が想定外!主人公が嘘を付く場面で私は泣きましたぼくはうそをついた(ノベルズ・エクスプレス55)[西村すぐり]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}今年の夏の課題図書です【中古】ぼくがバイオリンを弾く理由ノベルズ・エクスプレス2/西村すぐり【作】,スカイエマ【絵】楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}↑これは同じ登場人物が出てくるそう
沖縄首里第二国民学校元生徒有志で組織する楢木野会発行の『五丈の松と大いちょう』を読みました。太平洋戦争末期の昭和19(1944)年8月22日の夜10時過ぎ、アメリカの潜水艦から発射された4発の魚雷を受け、わずか10分余りで沈没した那覇の国民学校の児童を乗せた対馬丸。乗船していた834名の学童のうち生存者はわずか59名。対馬丸の犠牲者の半数は、学童疎開の子ども達でした。首里の国民学校の学童達が乗船した船は「暁天丸」。わずか6~700m先であっという間に沈んでいった対馬丸を、首里の子ど
沖縄那覇市首里にあった首里第二国民学校の学童疎開体験者有志で組織する楢木野会発行の『五丈の松と大いちょう』を読みました。編集委員長の玉城盛松さん、奥様のよし子さんから届けていただいた記念誌です。胸が熱くなるほど感動する内容でした。特に感動したのは次の5点です。・「対馬丸」と一緒に魚雷の海を渡った子ども達であった。・ひもじさ・寒さ・寂しさに耐え、家族の残る沖縄戦の「全滅したらしい」の結果を知らされた子ども達であった。・昭和62年に「楢木野会」結成後、30年間で400回近い定例会活
アマプラで見られます。犬神家の一族的な、ミステリーでもあり、水木先生の戦争体験なども織り込まれていてなかなか興味深い話です。主人公の新聞記者も少し嫌なやつだし、でもリアリティがあって感情移入はできました。始めの10分をみたら、とりあえず、面白く見られるのでは?鬼太郎の話はいろんなバージョンがあるので、まあ、細かい話にはこだわらなくていいかなと。。。これからの日本を憂いてるところは、なんか、考えさせられるものがありました。昔に比べて良くなっていますか?日本は?
映画祭りしたよん🧡🤣GW前半は仕事だったから、日勤仕事終わりの夜勤前にAmazonで映画2本見💚🤩どっちも面白過ぎて久々真剣に一気見💛🤩どっちも戦争体験したPTSDが関連してて、内容シリアスだったけど、ゲゲロウもゴジラもカッコ良すぎ💛🤩🤩🤩見る価値アリ💚💙💚💙
皆様、ご機嫌YOです!「ゲゲゲの鬼太郎」などの代表作を生み出し、様々な魅力的な妖怪を掘り起こし、生み出した漫画家、故水木しげる氏。水木しげると言えば妖怪漫画のイメージですが、それと同時に彼は太平洋戦争を題材とした数々の戦争に関する漫画も生み出しているのです。それは彼が徴兵されて南方戦線で味わった地獄のような体験から来る説得力のある作品であり、彼が戦争を徹底して忌み嫌う理由でもあります。今回はそんな水木しげる、本名武良茂氏の過酷な戦争体験を一緒に見ていきましょう。【水木しげる】
太平洋戦争末期の学童疎開に関する情報を集めるため、インターネット検索する中で、2023年6月22日付け琉球新報の次の記事が目に留まりました。その記事の一部を紹介します。~学童疎開の手記、36年越しに発刊首里第二国民学校の体験者「沖縄楢木野会」~首里第二国民学校(現在の那覇市立城西小学校)の学童疎開体験者らでつくる「沖縄楢木野(ならぎの)会」はこのほど、学童疎開記録集「五丈の松と大いちょう」を発刊した。米潜水艦に撃沈された対馬丸と同じ船団などで集団疎開した。熊本・阿蘇での疎開体
振り返るジョンさんがボイスオブアメリカで活動していた日々は猛烈で刺激的だった世界中のすばらしい・新聞記者・作家・哲学者・詩人などと知り合うことができた彼らの価値観や感性を身近に知り感じられたことがジョンさんにとってかけがえのない戦争体験になった
2024年4月30日のブログで、高尾山歴史探訪登山の様子について紹介しました。その際、確認できた戦争遺跡は数々ありました。最初に出会ったのは、西側のレーダー施設基礎跡【写真①】です。登山道から少し離れているため、その場所はわかりにくいです。現在、周囲は樹木に覆われており遠くを見渡すことはできません。当時は、レーダー監視方向の西側には樹木がなかったのではと思われます。次に出会ったは、登山道脇に設置された防空壕跡【写真②】でした。レーダー施設を攻撃された際の避難場所で、
作家の宗田理さんが4月8日に名古屋市内の病院で95歳で死去されました。宗田さんは昭和3(1928)年生まれ、戦争一色の少年時代を生きてこられた方です。学徒勤労動員として働き、特攻隊の訓練も受け、常に死を意識して生きてこられました。『早咲きの花~ぼくらは戦友』角川つばさ文庫2019年を読み終え、主人公の植松真次の姿は、同時代を同年齢で実際に生きた宗田さん自身の体験や思い、願いに重なって描かれていることが理解できました。父親の戦死、父の実家である愛知県三河地方への転居、そこでのガキ