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クーデターとしてもよい建久七年の政変を主導したのは土御門通親である。その後の政権運営を見ても土御門通親の意向が強く反映されていることが読み取れるというのが人口に膾炙されているところである。しかし、よく見ると、本当に土御門通親の意向なのかと疑念に感じる点も出てくる。公卿補任を見る限り、建久七年の政変に伴う人事と断言できるのは、関白が九条兼実から近衛基通に変わったことと、藤原兼房が太政大臣を辞職したため太政大臣が空席となったこと、そして、一条高能が新たに参議に任命されたことだけである。しか
【8/133日目④】お次に寄ったのは、史跡胆沢城跡。ふむふむ。城といっても、石垣があるようなものではないんですなぁ。東北と言えば、あるあるの坂上田村麻呂案件です。平安時代に坂上田村麻呂が築いた城…というか砦…というか役所跡なんだそうです。でもまあ、蝦夷のところにやってきているので、それなりの城郭ですな。復旧というか、復活というかの城壁の一部。別場所から撮るといい感じなんです。相変わらずの右下がりな写真ですけど。青空が気持ちいい。白い雲がぷ
現時点で土御門通親のもとに集っているのは九条兼実に対する反発である。ここで九条兼実がいなくなり、藤原兼房がいなくなり、さらに慈円も天台座主の地位から降りたために権力の中枢から九条家がいなくなる。つまり、九条兼実への反発だけを軸にして集まっている勢力から共通の敵を奪ったらどうなるか?集団が瓦解する。関白は近衛家が継承したものの、近衛家が九条家に変わって政権を握ることのできる可能性は低い。何しろ主導権は土御門通親こと源通親が握っているのだ。近衛家でないどころか藤原北家ですらない。さらに土御
それにしても、九条兼実はなぜ関白の地位を手放したのか?従来の説では、関白の地位を手放したのではなく失脚させられたということになっている。これも遠城悦子氏は別の視点から捉えている。中宮任子は後鳥羽天皇の子を産んだが女児であった。一方、土御門通親の養女である源在子が後鳥羽天皇の男児を産んだ。この点を遠城悦子氏は注目した。そもそも源在子は土御門通親の養女であったのかという疑問だ。源在子は藤原範子の娘であり、藤原範子の土御門通親の妻である。しかし、娘を産んだときの藤原範子は僧侶の能円の
ここで着目したいのが、そもそも九条兼実が実弟でもある太政大臣藤原兼房のことをどのように捉えていたのか、という視点である。藤原兼房は、兄の引き立てがなければ太政大臣になることはあり得ない人物であった。何しろ太政大臣になる前は内大臣であったのだ。内大臣であった者が、右大臣にも左大臣にも就くことなく太政大臣に就くことは何例かある。そして、その全てが、太政大臣に出世させることで実権力から遠ざけることを目的とした空虚な出世である。どういうことか?内大臣は大臣であるが、手にしている権力は小さい
建久七年の政変の幕開けから二日後の建久七(一一九六)年一一月二五日、誰もが信じられないニュースを耳にした。関白九条兼実、更迭。上表すら許されず、後任の関白には前摂政の近衛基通が就くこと、併せて近衛基通を藤氏長者に任命することが発表された。愚管抄によると、土御門通親の指示のもと、権右少弁の平親国と五位蔵人の藤原朝経が中心となって動いたとある。なお、このときに九条兼実の流罪を検討したとあるが、後鳥羽天皇自身が九条兼実には流罪に値する罪科がないことを理由に、関白罷免のみとさせたとある。た
エジプトのピラミッドが建てられた目的はいったい何でしょうか?墓、公共事業、天体観察等諸説ありますが、どれも兼ね備えた建造物だと思います。私はもう2つ目的があるように思います。1つは港(ナイル川に隣接した物流施設)、さらに人の想いを増幅(あるいは政治目的で国民をコントロール)する装置の可能性です。私が師と仰ぐ筑波山曰く…『人の想い(想念)を増幅器する機能は山にもあります。現代人は自然界を観る能力が消失していて、道具、技術、通信等の発明によって補って余りある生活をしているので、自然界に学び潜
私が育った街・衣笠に等持院という名刹があります。小学校の友人の家が等持院の境内にあったことから、よく自転車で遊びにいった思い出の地です。この院を創建したの征夷大将軍の足利尊氏。夢窓疎石が開山した等持院(中京区)の別院として衣笠山の山麓に「北等持院」を建造します。その後、尊氏の菩提寺となり、応仁の乱後に等持院と合併し北等持院が「等持院」となりました。堂内には足利氏歴代将軍の木像13体が安置されています。尊氏は後醍醐天皇の「建武の新政」に反旗を翻し、光明天皇を拝して北朝を立て、建武式目
後鳥羽天皇と関白の娘との間に女児が生まれ、土御門通親の養女との間に男児が生まれた。性に目覚める年齢の少年の周囲に性の相手をする女性がいる、それも、女性のほうから数多くやって来るという環境であることを考えると、年齢から言っても後鳥羽天皇はこれから何名も子をもうける可能性が高い。実際、建久七(一一九六)年一〇月一六日には坊門信清の娘との間にも皇子をもうけている。これは九条兼実としても状況を悪化させる事態である。状況悪化は九条兼実自身だけでなく、九条兼実の周囲にも及ぶ話だ。九条兼実は実弟であ
3月24日その1出来事1603年(慶長8年2月12日)-徳川家康が征夷大将軍に就任する。日本史における江戸時代の始まり。1993年-シューメーカー・レヴィ第9彗星が発見される。忌日・亡くなった日1602年(慶長7年2月1日)-井伊直政、戦国武将徳川四天王の1人。関ヶ原の戦いで負傷し、それが元で亡くなったと言われる。
ここ数日、大谷選手がらみのニュースで持ちきりですが・・・。暗い話題でなく「へぇ~!」という話題で笑とある情報番組で大谷選手と親交のある元大リーグ選手の言葉。大谷選手曰くピッチャーが仕事でバッターが趣味なんだとか。「打つ」という作業が楽しいのだそうです。数日前の中受生小6Nさんとの授業。この日は社会科。歴史は江戸時代の最初のところ。ひさぺーの大学での専攻は日本近世史。解説にも熱が入ります。Nさん
夫とわかみやさんで朝食を食べながら、鎌倉殿の13人の話題が出ました。鶴岡八幡宮様の御祭神は応神天皇で、若宮の御祭神は応神天皇の親王の仁徳天皇です。頼朝公は応神天皇を自分に仁徳天皇を嫡男の頼家公になぞらえて、鎌倉幕府の弥栄を祈念したのだと私は思います。その若宮である頼家公の修善寺でのご最期は謀りごとによるもので、蒸し風呂で無防備な所を卑怯な騙し討ちで襲われたのでした頼家公は武勇に優れ怪力無双だったので丸腰だったにもかかわらず3人がかりでも抑え込む事
先に記したように、吾妻鏡は建久七(一一九六)年から建久九(一一九八)年までの記事が現存していない。ゆえに、この三年間の鎌倉幕府の動静は吾妻鏡以外の情報から記さねばならない。壇ノ浦の戦いで平家が敗れてから十一年目。鎌倉に刃向かう平家は滅んだということになっているが平家の残党は探せばまだ存在していた。もっとも、かつてのように朝廷の中枢に君臨して政権を操るレベルの強大さではなく、存在はするものの国政に何ら影響を与えることのない、それでいて迷惑極まりない犯罪集団として、平家の残党が存在している。
3月21日の歴史徳川二条城の完成🏯1603年3月21日(慶長8年)徳川家康造営による二条城が完成する完成と同年の前月2月12日に家康は伏見城で征夷大将軍補任の宣旨を受けたのです3月12日に二条城に入城しそして21日には二条城は完成してます天守は3年後の慶長11年に完成天守は伏見城から移築27日に二条城で重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った二条城から徳川幕府は始まった!!完成から8年後の慶長16年には二条城の御殿で家康と豊臣秀
九条兼実が摂政となってから一〇年が経過している。とは言え、九条兼実はまだ四九歳であり、政界引退を考える年齢ではない。しかし、周囲は九条兼実の政界引退を予期するようになっていた。それまでの九条兼実の独善的な行動を支えてきた源頼朝はもう九条兼実を選ばず、慈円のおかげで制御できていた比叡山延暦寺も怪しくなってきている。だからこそ、周囲の思惑とは逆に九条兼実自身は関白の職位を手放さないことに執心するようになった。仮にここで九条兼実が関白を降りたら、実弟の太政大臣藤原兼房でもなく、九条家の後継者とな
その流れの中において、天台座主が慈円であるということ自体が園城寺の僧侶にとって許容しづらいものであったのだが、建久七(一一九六)年四月一八日に四天王寺別当の定恵が死去したことが混乱をさらに深めるものとなった。九条兼実は慈円に四天王寺別当を兼任させようとしたのである。しかし、四天王寺はかつて園城寺の支配下にあった寺院であり、園城寺が灰燼に帰したことで一時的に園城寺の支配から離れることとなっていたが、復旧しつつある今、園城寺の意向を無視して天台座主慈円にさらなる権勢を与えることは容認しづらかったの
愚管抄は歴史書であるが、源平合戦以降の歴史について言えば同時代史料でもある。どういうことかというと、著者である慈円の生まれたのが久寿二(一一五五)年であり、慈円は建久七(一一九六)年時点で四一歳であるから、愚管抄の記事のうち源平合戦以降の記述の多くは慈円自身が体験し、あるいは見聞きしたことである。この慈円という僧侶であるが、九条兼実の実弟であると同時に天台座主である。天台座主に就任できたのは兄が九条兼実だからという側面もあるが、徒然草の吉田兼好は天台座主としての慈円を書き記しており、能力の
後鳥羽天皇は幼帝ではなく、天皇親政を、そして院政を目指して行動する若き帝王へとなっていたことに気づいた。後鳥羽天皇が政治家として勢力を築き上げていることを源頼朝は知っていたのか?おそらくだが知っていたであろう。だが、具体的なアクションについてはわからない。どういうことか?吾妻鏡が欠けているのだ。吾妻鏡は建久六(一一九五)年一二月を最後に三年間の空白があり、次の記事が建久一〇(一一九九)年まで飛んでいる。建久一〇(一一九九)年がどのような年かは後に記すことになるが、建久七
こんにちは今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそ今日も前回に引き続き、『藤原薬子』の物語の続きです安殿親王はもともと病弱で精神的にもろいところがあり、年上で美貌の薬子に頼りがいを感じ、精神的にますます薬子に依存し、彼女にとらわれていきました薬子も親王に寵愛され、宮中の華やかな生活を経験すると元の生活が平凡に感じられるようになり、出世したい薬子の兄、仲成と思惑が一致して、なんとか親王のもとに戻る機会をうかがっていたのですそしてついに806年、二人を引き離した桓武天皇が亡くなり、安
困ったぞ、どうも坂上田村麻呂は黒人らしい。坂上田村麻呂黒人説-Wikipediaja.wikipedia.org我が国史上初の征夷大将軍が黒人となれば、日本では平安時代から黒人が居て、かつ朝廷から要職を与えられるぐらいに出自も能力も評価されていたという事に他ならない。それであれば坂上家への縁談が絶えなかっただろうし、平安時代の武家は黒人やその血族ばかりになるだろう。でもまあ、古くからの京都府民に副島淳さんみたいな人はあんまりいない気がする。副島淳-Wikipediaja.w
建久六(一一九五)年一一月一〇日、除目。九条良経こと権大納言藤原良経、内大臣に昇格。土御門通親こと中納言源通親、権大納言に昇格。吉田経房こと権中納言藤原経房、中納言に昇格。関白九条兼実の息子の九条良経が内大臣になり、後鳥羽天皇の第一皇子の祖父となった土御門通親が権大納言となった。そして、土御門通親の後を受けたのが、今や誰もが認めることとなった源頼朝の協力者である吉田経房であるため、九条兼実も、土御門通親も、そして源頼朝も何ら文句の付けようのない結果となったのである。このとき
中宮任子が女児を産んだ。九条兼実は自分の娘の産んだ子が女児であったことに落胆したし、九条兼実ほどでないしても後鳥羽天皇も落胆があった。とは言え、天皇の実の子であり相応の待遇が用意されている。建久六(一一九五)年一〇月に中宮任子が産んだ女児である第一皇女が内親王宣下を受けた。後に春華門院と呼ばれることになる昇子内親王である。この時点では昇子内親王のみが後鳥羽天皇の実子であり、九条兼実は中宮任子の次の妊娠の期待もあったし、可能性が薄くなってきていたとは言え源頼朝も娘の大姫の入内を諦めてはい
後鳥羽天皇が九条兼実を見限っていた頃、鎌倉の源頼朝は政治家としての判断を下していた。先に、統治者に求められる国家規模の経営能力として、戦争をしないことを書き記した。ならば源頼朝の奥州合戦はどうだったのか、戦争を仕掛けて奥州藤原氏を滅ぼしたではないかと感じる人も多いであろうし、実際にあれは侵略以外の何物でもない。しかし、同じ侵略でありながらロシアがウクライナに対してしでかしたことと、源頼朝の奥州合戦との間には大きな違いがある。それは、侵略した土地に住む人に対する扱い。源頼朝は奥州
そろそろ目を覚ますときみなさん、おはようございます相撲の白鵬問題やっと浄化が始まりましたしっかりと最後まで詰めて欲しいですアリガトウ「3月13日」の國史です「後白河法皇、崩御」建久3年(1192年)後白河法皇は天皇の在位(77代)はわずか3年で第一皇子の二条天皇(78代)に譲位以後、30余年にわたり院政を行いました藤原氏、源氏、平氏との戦乱の中で強大な権力を築いたのです源頼朝は後白河法皇のことを「日本一の大天狗」と言ったほどの悪です頼朝
この意味で、源頼朝は大きなアドバンテージを獲得していた。何と言っても戦争を終わらせた当事者である上に、源頼朝の元には京都の貴族社会に入ることの許されない低い地位に生まれた者が周囲に結集している。それまでの権力のもとでは権勢を掴むことをできなかった者をまとめ上げることに成功しているだけでなく、現在進行形で平和の維持に成功させている。ついでに言えば、鎌倉幕府の御家人に対して守護や地頭という形で、平和の維持と実利の付与の双方を実現させている。これは源頼朝にしかできない話である。そもそも戦争を終結
それでも白河院政が絶大な権力を握ることに成功していたのは、それまで絶対的な権力として君臨していた藤原摂関政治における不遇への反発を最大限活かすことができたこと、藤原道長は身分の低い者でもそれなりに抜擢していたが藤原道長の死後は従前のようにその人の生まれでその人の上限を定め、いかに優秀でも抜擢されることがなくなっていたために、白河院政の時代となると白河法皇のもとに赴くことしか藤原摂関家に対する反発を示す方法が無かったことが挙げられる。一方、後鳥羽天皇の時代となると、まずは鎌倉幕府が存在し、藤原摂
途中、何社か寄りましたが、鎌倉宮を参拝しました。建武の新政下での征夷大将軍護良親王を祀った神社です。その護良親王は足利軍との戦いに負けて処刑されています。菊の御紋です。奥に護良親王の身代わりとなって戦死された村上義光さんの木像があります。この村上義光さん、北信州の長槍歩兵戦術の考案者村上義清さんの祖先的な関係者なのかな?※武田信玄さんの生涯戦績は2回だけ負けていますが、その2回が村上義清さんです。鎌倉宮の御朱印です。見開きで600円でした。では失礼します。
院政復活を意図する後鳥羽天皇は、権力掌握を考えれば最善の行動をしていたと言える。しかし、権力を握って何をするかという視点で捉えると疑念を感じるところがある。政治家として最も大切な要素、すなわち、いかにして庶民生活を向上させるかという観点が完全に抜け落ちているのだ。後鳥羽天皇にしてみれば、平家政権という混迷、源平合戦という混乱、そして、その渦中で迎えてしまった養和の飢饉という悲劇があったのだから、それより前の時代に戻ればそれで社会が良くなると考えたであろうが、その考えは甘すぎるとするしかない
後鳥羽天皇はもう幼帝ではなかった。関白はいるものの摂政を必要としない元服済の天皇であり、政治的意志を持った一個人として天皇親政を、そして、院政復活を狙うまでになっていたのだ。後鳥羽天皇の目指すべき政治体制は、実体験しているわけではないが知識としては問題なかった。ベストは白河院政、次点で鳥羽院政、妥協して後白河院政だ。後白河院政はその大部分が平家政権と重なっており、平家政権と重なっていない部分は木曾義仲と鎌倉幕府の強い影響下だ。鳥羽院政はそれなりに強固なものがあったが藤原頼長をは
大崎近郊には各地にいろいろな史跡旧跡がたくさんあります。下記4枚の写真の中で大崎市の写真はどれでしょうか?ヒント:かの征夷大将軍の頼朝も来たのでないかといわれますが?私は頼朝が来たところを見てないでのはっきりとわかりませんが??見慣れない場所が多い?でしょうか、かんでいってみましょう!なおアルバムや映像等は【大崎検定問346(中級編)大崎市内の旧跡はどれ?】を参照願います。大崎バックグランドメニュー歴史家庭菜園大崎検定