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桜の季節に来たかった場所吉野山と枚方八景の一つ牧野公園ここは牧野の桜と呼ばれる名称そして阿弖流為と母禮の塚が有る場所です『神様の御用人』特集|メディアワークス文庫公式サイト2021年3月25日発売『神様の御用人(著:浅葉なつ)』第10巻は豪華声優キャストによるドラマCD付き特装版の発売が決定!神様にだって願いがある。フリーター青年が神様の“御用人”を命じられ狐神との東奔西走の日々が始まる!mwbunko.com神様の御用人が10巻をもって完結した最後に登場する阿弖流為と母
足利尊氏は1336年11月に「建武式目」を制定し、「鎌倉殿」を称しました、現在の歴史教科書では、この時点で室町幕府の成立としています。昔は尊氏が北朝の天皇から「征夷大将軍」に任じられた1138年に幕府を開いた、ということになっていましたが、鎌倉幕府がいい国(1192)作ろう、から、いい箱(1185)に変わったように、室町幕府のほうも変わっているわけです。つまり征夷大将軍という称号は「鎌倉殿」に付いてくるオマケというか権威付けというか、征夷大将軍にさえなれば武家の棟梁になれるというものではなか
先日、浜松に行った際立ち寄りたかったスポットの一つ浜松八幡宮…こちらには徳川家康が三方ヶ原の戦いで大惨敗した時に逃げてきて隠れたと言われる楠の木があります。雲立楠と言われています。わかるでしょうか?楠の間が洞窟のようになっており、そこに身を隠し再起を誓ったと言われています。八幡宮と言えば鎌倉…鎌倉八幡宮と言えば源氏…源氏は皆様ご存知、征夷大将軍になった武士…その八幡宮で、後に征夷大将軍になる家康が再起を誓うというのは何か感慨深い物を感じます。ちなみに今使っている御朱印帳鎌倉八幡
南北朝の争いは「南朝が正統」で決着しました。北朝の天皇が「北朝1」「北朝2」みたいな脇扱いされているのは、そのときの「政治決着」が今も生きているからです。北朝のスポンサーである室町幕府、足利義満が、三種の神器を南朝から取り戻すための方便として、名目上だけ妥協した、ということです。どういうことか、以下、説明します。天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂したのは鎌倉時代のことで、これは純粋に天皇家の内輪もめです。後嵯峨上皇という困った人がいて、末っ子が可愛いからといって、兄
平氏長者というものは、正式には存在しません。ネットを検索すると、平清盛が平氏長者であったとか、その後は執権北条氏が平氏長者を継いだとか、自信満々に書いておられる方のいますが、何を出典とされているのでしょうか。ネット情報というのは孫引きの孫引きで、不確定な情報がいつのまにか「多数決」で優勢になってしまうということがあります。「源氏長者」には必ず「淳和奨学両院別当」が付いています。淳和院、奨学院というのは、皇族の子弟が通う学校であり、その(名誉)理事長が「別当」です。つまり、「皇族が通う学校の
本来は前回の塩ノ沢入林道と今回の記事は1つの記事として書きました。容量オーバーの警告も無く、何故か入力完了をタップしたのに上書き保存されず、初期保存状態のままでした。スマホ投稿は文字や写真容量を考えないといけませんね。では、塩ノ沢入林道を出たところからの続きです。K36を北東へ進みます。看板に従い、東金砂神社へ到着です!ナニナニ。。。この渋い神社むちゃくちゃ歴史があるところでした。征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐前に、多宝塔を建立しただと?!今日は時間が無いので寄りませんが、機会
さて、建久九(一一九八)年二月二〇日に土御門天皇の即位の儀のために、父である後鳥羽上皇も、内裏の中に入れないにしても大内裏には行こうとしていたこと、そして、直前になって予定を白紙に戻したことは既に記したとおりである。まだ三歳である土御門天皇はさすがに自分がこれから何をするか深く理解できていなかったであろうが、それでも自分がこれから父の後を継ぐこと、そのための儀式が執り行われること、そしてその儀式が他ならぬ父によって直前に予定が乱れたことは理解できていたであろう。さて、先に、三月三日まで
近くに用事があったので、源頼朝のお墓にお参りしてきた。白旗神社近くの公園に、地元の子達が調べた紙が貼ってあった。よく学習しているね。頼朝のお墓は、53段の階段を登った先にある。地元の子達の情報によると、頼朝が53歳で亡くなったので、それにちなんで53段なんだって。私の1個上だな。早稲田大学で日本史の勉強をした時、課外授業で鎌倉のお墓をめぐって勉強した。このタイプのお墓は時代が古い型だよね。江戸幕府を開いた徳川家康は、日光東
それにしてもなぜ鳥羽か?過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。なぜ独自の根拠地を持たなければならないかというと、実は、上皇や法皇は内裏に入ることができないのである。平治の乱で藤原信頼によって後白河上皇が二条天皇とともに内裏に監禁されたことがあるが、これは例外中の例外で、天皇が内裏を離れて父や祖父や曾祖父のもとを、すなわち、上皇や法皇のもとに向かうことはできても、上皇や法皇が内裏にいる子や孫や曾孫のもとを、すなわち、天皇のもと
忘れてはならないのは鎌倉幕府の存在である。源頼朝が遠く離れた相模国鎌倉にいながら、その距離を感じさせないレベルで京都内外の情報を収集していたことは後鳥羽上皇も知っている。そして、情報伝達経路というものは一方通行ではなく往復で利用可能である。つまり、源頼朝が鎌倉にいながら京都の情報を手に入れることができるということは、後鳥羽上皇にとっても京都にいながら鎌倉の情報を手に入れることが可能だということである。しかし、ここで一点の問題がある。鴨川東岸にある六波羅だ。かつて平家が根拠地として構え、源平合戦
幕末の激動期、ペリー来航から始まった開国要求とそれに反対する尊皇攘夷の中で、公武一和のもと仁孝天皇の皇女・和宮(15)の14代将軍徳川家茂(16)への降嫁が決まりました。文久元年(1861)旧暦10月20日に京都を出発した行列は、中山道を一路江戸へと向かいました。京方1万人、江戸方1万5千人、諸藩の警固1万人、その他人足や賄の人数を含めると総勢8万人といわれ、まさに空前絶後の大行列でした。行列は、11月3日に藪原宿で御泊り、11月4日には奈良井宿で御小休、贄川宿で御昼、本
歴史イベントの最大のお楽しみ。征夷大将軍就任足利将軍家を倒し、山城を含めた30国以上の国を支配することが条件です。・引き受けると、対象大名家の家臣忠誠度+10領国の文化+10対象大名の魅力+10・断ると、対象大名の政治・魅力+10なお、足利将軍家で30国支配になっても、何も起きません。(動画に関しては、間違いがあるようですが、スペックのせいでしょう)せっかくなので、足利将軍家(ここからは、「将軍家」で省略します)にまつわる歴史イベントをもう一つ。「○○追討令」とい
石清水八幡宮に到着した後、後鳥羽上皇がどのように過ごしたかの記録も残っている。すなわち、石清水八幡宮に参拝した後、巫女の里神楽を奉納し、大僧都弁暁が導師として経供養を行い、ついで浄衣で若宮に参ると、近習の人々や巫女三十人ほどが拝殿に集まり、乱舞に堪能の輩が白拍子を舞って、御幸の一日目が終わったというのがこのときの石清水八幡宮詣である。豪奢にして壮麗に感じるであろうし、緊縮財政論者が聞いたら卒倒する内容に感じられるであろうが、治天の君である上皇の参詣ならばこれぐらい当たり前である。ついでに言うと