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自分の娘が産んだのが女児であったことを悔やんだという九条兼実であるが、表面上はこれまで通りであろうとしていた。しかし、周囲はもう九条兼実から離れだしていた。藤氏長者にして関白である九条兼実の肩書きには誰一人として否定できないものがあるが、九条兼実に未来があるかどうかを考えると、無いという結論に至る。後鳥羽天皇との間に生まれた子が女児であったことは九条兼実を落胆させたが、後鳥羽天皇の年齢を、また、九条兼実の娘でもある中宮任子の年齢を考えても、そう遠くない未来に中宮任子が男児を産むことは期
熊谷直実が八月一〇日に鎌倉を訪れたのは吾妻鏡に記載されているとおりであろう。仮に吾妻鏡の記載が捏造であったとしても、東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺をこの頃に建立したことの記録が残っていることから、この時期に熊谷直実が鎌倉方面に向かったのはおかしな話ではない。つまり、鎌倉幕府の御家人たちはかつての同僚が僧侶となって鎌倉方面に向かっていることを知っていたし、その前に熊谷直実のことを思い出させる出来事も起こっていたことは間違いない。忘れてはならないのは、この時期の鎌倉幕府の御家人達は京都から戻ってき
雑誌「歴史人」の3月号を読了。テーマは、「奥州藤原氏」を中心にした東北地方の歴史でした。歴史人2024年3月号Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}さて、この中で、個人的に興味があったのは、古代、朝廷と蝦夷との戦い。いわゆる「38年戦争」のこと。日本の朝廷は、8世紀頃から、「蝦夷」と呼ばれる人たちが住んでいた東北地方に侵出を始めます。天平宝字3年(759)には、陸奥国北上川下流に「桃生城」を出羽国には「雄勝城」を築いたということ。し
さて、この時期の吾妻鏡の記事の中には古典の授業でも出てくる有名な話が出てくる。記事が記されているのが建久六(一一九五)年八月一〇日のことなので、ここで記しておくべきであろう。その話とは、熊谷直実。平家物語の平敦盛の最期の場面に登場する武士である。いや、武士であった。平家物語では、わずか一七歳の少年を自分の手で殺めなければならなかった現実に悲観して出家したという。そして、吾妻鏡の八月一〇日の記事も出家した身である熊谷直実が、この日、鎌倉を訪れて源頼朝と面会したとある。源頼朝はもう少し鎌倉でゆ
3月4日の歴史江戸幕府征夷大将軍230年ぶりに二条城に入る文久3年3月4日江戸幕府14代将軍徳川家茂が230年ぶりに京都・二条城に入る3代将軍家光が入って以降初!!家康が二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行ったこの将軍就任の儀式は息子の2代将軍秀忠孫の3代将軍家光までであり曾孫の4代将軍家綱以降は行われなくなったそれから230年がたち家光入城ぶりに二条城に将軍が入る事になるので荒れ果て
昨年(2023年)の大河ドラマ「どうする家康」は、私としては戦国時代から大坂の陣までの歴史の再勉強も兼ねて毎週欠かさず見てきました。そして毎週のドラマ最後には、その日放映された歴史的スポットの映像が流れて解説されるのが楽しみで、今日は何処が紹介されるのかワクワクして見ていました。そのスポットの中には、「家康」自身が関わった戦いの場所を始め、居住したり、立寄ったり、所縁がある場所等が登場して、中にはお城やお城に関わる場所が多くありました。そこで、私は昨年11月から「”家康”のでき
関ヶ原が終わった後に戦後処理を家康は行った。その中で興味深かったのが、西軍での総大将であった毛利輝元だった。毛利輝元は関ヶ原前に毛利一門の吉川広家が「輝元は安国寺恵瓊に総大将に祭り上げられた。」と家康に訴える。家康は毛利軍が参戦しなければ所領は安堵を約束する。しかし、毛利輝元が大名らに西軍参加を呼び掛けていたことの証拠が出てくる。家康はそのことを知って、山陽、山陰の120万石を没収する。吉川広家は、自分の所領を輝元に譲ると家康に直談判する。その結果、毛利輝元は周防
鎌倉幕府の面々が去り、京都は平穏を取り戻していた。本来ならばその平穏の様子を当時の記録から推し量りたいところであるが、非常に残念なことに、九条兼実の日記は建久六(一一九五)年五月から八月の記事が現存していない。ゆえに他の史料からこの頃の京都の様子を推し量るしかない。ただし、九条兼実という権力の中枢中の中枢にいる人物の残した記録ではないため、この頃の九条兼実の様子について、本人の心情を把握することなしに客観的に知ることができるというメリットもある。さて、建久六(一一九五)年五月から八
徳川将軍の月日の動向を記述し残した「徳川実紀」に、慶長8年の冬、徳川家康に初めて拝謁した人物として「角倉光好子與一玄之」という名が残されています。この年の2月12日、家康は征夷大将軍の宮下があり、同月21日に伏見城へ入洛した後に、二条城へ入った記されています。了以親子が初めて家康に拝謁したのは、家康が二条城若しくは伏見城に在城していた同年のことだと云われています。その席には新たに御家人となった織田・武田ゆかりの武士たちも同時に拝謁していましたが、彼らよりも先に、了以親子の名が
建久六(一一九五)年六月二五日、鎌倉幕府の面々が鎌倉へと出発した。表向きの目的である東大寺再建供養への参列は果たしたが、真の目的である大姫入内は果たせなかったこともあって、吾妻鏡における京都から鎌倉への帰路の記録は、統治者として、また、組織のトップにあるものとしては相応しい内容であるものの、大姫についての記録は不自然な形で抜け落ちている。とはいえ、全くの失敗であったわけではない。京都の政界でそれまでの絶対的な権勢が空洞化しつつあった九条兼実との関係を薄くし、その代わりに丹後局と土御
鎌倉幕府の面々が上洛したのは、主目的は源頼朝の娘を入内させることであったものの、表向きは東大寺再建供養への参列である。東大寺再建供養が終わっても京都に留まり続けたのも、主目的は源頼朝の娘を後鳥羽天皇のもとに入内させることであっても、名目としては東大寺再建に尽力した方々にまだ会えていないことが鎌倉へと戻らない理由になっている。つまり、重源上人と会った瞬間に源頼朝の京都滞在の理由は無くなるので、鎌倉幕府の一行はただちに京都を発って鎌倉に戻ってもおかしな話ではないのだが、現実問題としてそのような
修善寺の街を流れる桂川嵯峨野の竹林を想わされる優雅な小径である狩野川の支流である桂川岡本綺堂の戯曲「修善寺物語」鎌倉幕府2代将軍源頼家が描かれているかなりおどろおどろしい川ベリの樹上にノキシノブ修善寺の寺源頼家公の墓が近くにある実の母の命で「修善寺」に幽閉されたそして残酷に殺害された母親の実家北条家を守るためでもあるらしい話せば分かるなどというものではなく残酷である北条政子なる女性もそうかもしれない
京都を発って四天王寺に向かい一泊二日で戻ってきた、それも、どんなに少なく見積もっても一万人を超える人数が一泊二日で戻ってきたとあって、京都内外に鎌倉幕府の実力は否応なく広まることとなった。その上で、以下の記録を読んでいただきたい。建久六(一一九五)年五月二二日、源頼朝、参内。九条兼実と面会をする。建久六(一一九五)年五月二三日、源頼朝、六条殿に向かった後、後白河法皇が住まいとして構えていた法住寺へ参詣。二日連続で参内と参詣をしただけと考えるかもしれないが、源頼朝は五月二〇日に京
建久六(一一九五)年五月一八日、鎌倉幕府の一行は四天王寺へ向けて出発することを決めた。それも、鎌倉武士達にとっては珍しく、水路での移動であった。淀川に船を浮かべて南西へと進むのである。吾妻鏡はそのことについて、四天王寺にまで陸路で進むと、途中経路になってしまった荘園は鎌倉幕府の行列を歓待しなければならず、その負担はかなり大きな物となってしまう。このことを考えると水路で一気に南西に向かった方が途中の負担が小さくて済むという配慮であったとしている。その側面は無視できぬものがあったであろうし
先に、東大寺再建供養の場に大仏鋳造責任者となった宋人の陳和卿も、そして、東大寺復旧工事の総責任者である重源上人もいなかったことは記した。陳和卿についてはそのあとで源頼朝が面会を求めるも断られ、ならばとこの時代で最上級の贈答品を贈ったもののその態度は素っ気ないものであったことを記した。東大寺再建供養における貢献度でランク付けすると二番目に挙がる人物と面会できずにいる。これは源頼朝にとって痛事であったが、この痛事ですら微々たるものと感じられる痛事が源頼朝には存在していた。重源上人と連絡
娘を入内させることを目論む源頼朝にとって障壁となっていた九条兼実が障壁で無くなり、宣陽門院に協力したことで丹後局高階栄子のバックアップも得ることに成功したことで、あとは娘である大姫を入内させるのみとなった、はずであった。ところがここで九条兼実に大きなプラスが働いていることが判明した。後鳥羽天皇の中宮である九条任子の懐妊が判明したのである。九条任子こと藤原任子は九条兼実の娘であり、文治六(一一九〇)年に後鳥羽天皇の元に入内している。同年四月には中宮に立后しており、ここまでの流れは藤原摂関
「斎」が続いていますがいつき(斎)が由来する「斎川」のそばに、坂上田村麻呂を祀る「田村神社」があることは、あまり知られていないと思います。タタラ場があったのか、悪路王伝説もあり、退治したマロが武具を斎川で洗ったという伝説があります。ところで、京都では、あんまり坂上のサの字も、田村麻呂のマの字もなさそうだが・・・坂上田村麻呂「京都市京セラ美術館」としてリニューアルオープン。建築家青木淳・西澤徹夫による壮麗な歴史的美術館建築の画期的大規模リノベーション!京都の文化・芸術の歴史
九条兼実にとっては、長講堂領荘園の権利確認そのものが政治的に痛い話であった。私有財産への侵害だけでも問題であるのに、後白河法皇の保有する資産の相続に口出ししているとなっては政治的に大きな失態だ。建久六(一一九五)年四月一〇日に御所に参内した源頼朝は、朝廷内で貴族達と議論を交わしただけでなく、その日の夜には九条兼実と一対一で面会したことが記録に残っている。ただし、そのときの成果は思い通りの結果ではなかったようである。普通の政治家であればここで九条兼実に丸め込まれてしまうところであるが、源
画像は太田蜀山人が徳川幕府に奉職していた際、当時の大名各家へ命じて、系図史料などを提出させて、これを台命で纏めた物が『寛政杏花園集』とか『太田南畝・家伝史料』の名目で伝わっているが、その中の一つでこの『大日本古文書』の中の『蜷川家古文書』の中にあらゆる秘密がある。これが作成された寛政五年は、本能寺の変から二百十年たっているが、まだ春日局の子孫は栄えていたから信頼できるだろう。さてこの二つの系図をくっつけると、(稲葉一鉄の娘を嫁にし、それに春日局を生ませた斉藤内蔵介は一鉄の娘婿の斉藤
源頼朝が狙っていたのは娘の入内である。とは言え、仮に九条兼実が政治的ミスをやらかしていなかったならば、源頼朝は九条兼実との離反を考えはしなかったであろう。京都の政情安定と国民経済の向上に役割を果たしているならば、後鳥羽天皇のもとへ入内させるか否かについては議論が分かれても、政治的見解の一致から源頼朝はこれまで通り九条兼実と接近していなければならない。しかし、入内問題についての意見が分かれるだけでなく九条兼実の政治的失態が加わるとあれば、源頼朝は九条兼実と離れることとなる。鎌倉幕府は荘園
そのあたりの答えは建久六(一一九五)年四月一日の九条兼実の日記にある。九条兼実はこの日も源頼朝と面会したことは書いているが、そこにあるのはかつてのような友好的なムードではなく、源頼朝が九条兼実に対して段々と冷淡になってしていることへの嘆きである。源頼朝が丹後局高階栄子を六波羅に招いたこと、そして、大盤振舞と言えるだけのプレゼントを用意したことも知っている。源頼朝は丹後局高階栄子だけでなく九条兼実にもプレゼントを贈っているのだが、「源頼朝卿、馬二疋を送る、甚だ乏少」というのが九条兼実の日
ただし、源頼朝にしてみれば高階栄子に対する接近は必ずしも最良とは言い切れない。高階栄子は九条兼実に対抗する勢力の中心である土御門通親こと源通親と親しく、この頃には既に高階栄子が九条兼実に対抗する勢力の一員と見られるようになっていた。土御門通親の妻は後鳥羽天皇の乳母である藤原範子であるため、後鳥羽天皇に自分の娘を紹介することを考えたときの選択肢として不合理には一見すると感じられないが、土御門通親は既に義理の娘を後鳥羽天皇の後宮に送り込んでいたのである。藤原範子は土御門通親のもとに嫁ぐ前は僧侶であ
さて、その大前提となるのが大姫を後鳥羽天皇のもとに嫁がせることであるが、結論から言うと難航した。入内といっても大姫が皇后や中宮に立后されることは難しい。そもそも後鳥羽天皇の元には九条兼実の娘である任子が嫁いでおり、文治六(一一九〇)年四月には中宮となっている。なお、後に中宮任子が妊娠していることが判明するが、建久六(一一九五)年三月時点ではまだ判明していない。それでも正式な中宮がいる天皇のもとに入内させるのは難しく、源頼朝の権力でもどうこうなるレベルではないのが実情だ。そのあたりのこと
源頼朝とて、京都の貴族達から向けられている視線を理解していないわけはない。とは言え、そのまま放置することを良しとするほど無神経ではない。人間、脳内に作り上げている序列を崩すのは容易なことではない。テストの点数のように明瞭な数値で序列を示すことが可能な場面であっても、自らの脳内で抱いている序列に反するような結果については簡単に受け入れることができないし、一生受け入れることができないことも珍しくない。建久六(一一九五)年三月時点の源頼朝の立場で考えると、京都の貴族達が自分に向けている蔑視の
全国高校サッカー応援マネージャーで注目の藤﨑ゆみあ「週マガ」初登場で15歳の輝き発揮0001征夷大将軍★2024/02/14(水)12:48:09.76ID:q1K/IqKX9https://p.potaufeu.asahi.com/e598-p/picture/28254096/be4c230456dcdb9336122e12e49f18b0_640px.jpg女優、モデルの藤﨑ゆみあ(15)が13日発売の「週刊少年マガジン」(講談社)の表紙、巻頭グラビアに登場した。広島出身で昨
このことは源頼朝も当然ながら知っている。式典の翌日である建久六(一一九五)年三月一三日、源頼朝は復旧工事に尽力した陳和卿への面会を求めたが、陳和卿はそれを拒否した。仏門に関係する人間として、源平合戦で数多くの人を殺害した人とは会えないというのがその理由だ。源頼朝としても実際に数多くの血を流させたことは否定できず、会えない代わりということで、奥州合戦に使用した甲冑、鞍、三頭の馬、金銀を贈った。これはこの時代の感覚で行くと個人相手への最上級の贈答品だ。しかし陳和卿は、甲冑については大仏殿建
こんにちは音楽を聴きながらお掃除をして、お家でのんびりしてますお天気も晴れてるし気分もノリノリだからお散歩でも行こうと思って、スマホとBluetoothイヤホンの充電が終わるのを待ってたら、その間にお昼寝モード突入してしまって起きたらもうこの時間でした時間も中途半端だから、今日はただひたすらのんびりしますポチっと洗濯機を回してこよ~進化・進歩を感じることは?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう•••••cut•••••・1603年(慶長8年)2月12日、徳
僧兵と鎌倉武士との間で諍いが起こる寸前に至ってから時間が少し経過してから、後鳥羽天皇や九条兼実をはじめとする貴族達も大仏殿に到着し、未刻というから現在の時制に直すと午後二時頃に式典が始まった。そこには数多くの僧侶も詰めかけていた。東大寺復旧の式典であるとは言え、東大寺は他の寺院と違って半ば国営の寺院であることも手伝って、興福寺や仁和寺といった他の寺院からもその時代の著名な僧侶達が集結し、その数は一千名を数えたというのが吾妻鏡の記載だ。ところが、吾妻鏡には肝心な記録が無い。式典に誰が
「徳川家康」初午は稲荷神社を参拝し、いなり寿司を食べるみなさん、おはようございます振替休日の方も多いでしょう休日は多くなりました今日は初午です稲荷神社を参拝して稲荷寿司を食べる今年の金運をいただきましょうアリガトウ「2月12日」の國史です「徳川家康、征夷大将軍になる」慶長8年(1603年)関ヶ原の合戦で天下を掌握した徳川家康は後陽成天皇から征夷大将軍を任命されます武家の棟梁として地位を確立しました大坂城には豊臣秀頼がいます16
2月12日の歴史徳川幕府の始まりの日慶長8年(1603年)2月12日徳川家康が征夷大将軍に就任し江戸幕府を開く慶長8年(1603年)2月12日朝廷より六種八通の宣旨が下り徳川家康を征夷大将軍淳和奨学両院別当、右大臣に任命家康は伏見城にてその任命を受けたのです3月12日伏見城から二条城に移る3月21日御所に参内3月27日二条城で将軍就任の祝賀の儀を行う豊臣が果たせなかった武士の棟梁としての地位を家康は完全に果たしたのです300年も続く徳川に