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「人生」一直線(312)★国宝埴輪「挂甲の武人」(群馬県太田市出土)実は白・灰色・赤の三色でツートンカラーに彩色されていることがわかった。そうするとこの一体だけが彩色されていたとは考えにくい。古墳に配置されたカラフルな埴輪を想像すると、これまでとは違った風景を想像することになる。楽しい◆「出雲国風土記」注釈本細川家本・倉野本・日御碕本・万葉緯本の写真版は秋本良徳(よしのり)編「出雲国風土記諸本集」(1986年勉誠社)で容易に見ることが出来る。▲総記の解説○概要総記は国全体の概要が記
地元はなぜこんなに水場がないのだろうと思っていたが、元々はちゃんと水の場所だった。現在の地名にも今泉、水海、諸川、磯部、砂井等残ってる👀この土地の下に水の記憶、ちゃんと知って変わる前、変わった後も感謝したい。古河・結城が常陸国ではなく下総国なのが良く分かる。更新日:11月11日16時18分togetter.comほんとだね。縄文時代の関東地方の貝塚分布図から見えてくるもの「千葉県が島のよう」「栃木県民悲願の海」地名に海っぽい要素が残ってないか調べたくなりますね〜toget
帰りは、ちょっと、江戸時代を眺めてから、帰って来た。水戸街道取手宿本陣跡ただ、着いた時点で、もう、18時だったので、、、中には、入れませんでしたが、「取手」も、町の中で「江戸時代」が残されておりました。まぁ、ご覧の通り、もう夕暮れ時だったので、何もせずに、上野駅まで、帰ってきてしまいました。先週土曜日は、常陸国を行ってきましたので、明日は、「あわ」の国へ、行ってこようと思う。今まで撮ってきた写真を「PhotoLibrary」にも掲載しています。良かったら、見に来てください!!
大甕神社参拝ブログパート2です。本殿から降りたところに香香背男社があります。写真は撮っていませんが、宿魂石というものがありまして、そこに香々背男が封じられているという話です。ただ、宿魂石というのは一つではなく、大甕神社の境内にある岩山を指しているそうです。という事は、本殿に行くまでに登ったあの岩山にも、香々背男の魂が封じ込まれているという事ですね。この岩山は約5億年前のカンブリア紀の地層から成っているそうです。大甕神社の創建は、社伝によると紀元前660年だといいます。大甕神社そ
常陸国国府は、現在、「石岡小学校」になっている。小学校グランド内に、「ふるさと歴史館」と言う展示施設があり、そこには、発掘された土器などが、展示されておりました。ちなみに、この一帯の地名は、府中と国府と言う地名になっており、大昔から、「常陸国府」であることは、分かっていたそうなのだが、、、どこが、本来の国府のあった場所で在るのかは、、、分かっていなかったそうで、、、なんと、この石岡中学校の「プール建設」の工事の際に、遺跡発掘調査をしたら、ここから、平安時代の遺跡が見つかり、やっとの
土曜日は、茨城県=常陸国の国府であった「石岡」の街を歩いて見て、かなり、認識のミスをしている可能性を、感じてしまいました。石岡駅を降りた段階では、あ~やっぱりなぁ~って、呟きながら、綺麗に成った駅舎を撮っておりました。でも、町に出てみて、、、、うん、なんか概念の違和感を感じてしまいました。茨城県石岡市中心市街地を歩いて見て、私の偏見は、実の所、他の方も感じているかも、、、って、思ってしまいました。それは、、、、2011年3月11日茨城県、福島県、宮城県、岩手県は、壊滅し
昨日は、まず、常陸国府中を目指すため、上野から、「ひたち」に乗車。常陸国府「石岡」へ「ひたち」この国の由来が知りたくて、まずは、国府の街で降りてみたら、駅前からもう「府中」であったことが面白い街であることを気付かされました。そして、この地を歩いて見て、ふとした気付きを感じましたので、順を追って、書いていきます~それにしても、常陸国が、「水戸」では無く、南の「石岡」が国府であったことには、ちょっと、驚きましたが、その理由は、後ほど、博物館でお伺いして、気付かされましたので、順を追っ
「あの時」いや、その時は、過去も現在、未来で、「あの時」は変って行く。ひたちの国を、巡ってみて、東京・多摩都民の「偏見」と言うものを、大いに気付かされた。。。本日は、「常陸国南部地域」=「筑波地域」を歩いてきました。いろんな、我が偏見に気付かされたので、順を追って、この一週間、書いていきます。明日(3/24)、今まで、「いいね回数」が、「50回未満」で、前回、「いいね」返信後に、「ブログ更新」がされている方に限って、「いいね」の返信をさせて頂きます。50回以上の「常連」の方々は、
香取神宮参拝パート2です。本殿裏にこなような物が。立て看板を見ると「安倍晋三」の文字が!そうです。安倍元首相は香取神宮の奉賛会長なのです。この「大和心」を題辞したのが安倍元首相です。素晴らしいです。やはり安倍さんはちゃんと分かっていました。僕は今でも歴代最高の総理大臣だったと思っています。CIAでしたが。そして奥宮へ参拝します。鳥居から少し歩いた先にあります。こちらが香取神宮の奥宮です。比較的小さい御社です。ここは女千木なんです。そして鰹木も4本です。通常こち
息栖神社参道パート2です。参道を戻り、境内を出ます。少し歩くとありました。一の鳥居です。チビも汗だくでTシャツが濡れてしまう程の気温でした。なんでこんな暑い日にと、少し後悔しました。因みに一の鳥居の両側には井戸があります。男瓶と女瓶というものがあり、こちら側が男瓶にあたります。そして少し背の低い鳥居のこちら側が女瓶だといいます。なんと、男瓶も女瓶も1,000年以上も水が湧き出ているそうです。なんでも、この井戸は瓶が見えると良い事があるという話です。近所の方なのか、管理をさ
鹿島神宮参拝パート2です。鹿園を過ぎて右側に熱田神社があります。こちはには素盞嗚と櫛名田が祀られています。一目惚れから始まった恋ですからね。そしてこちらが奥宮です。普通に大きいです。そこらの神社の本殿と同じ規模です。奥宮というとどこも、こじんまりしているのですけどね。奥宮には建葉槌大神の「荒御魂」を祀っています。これは一霊四魂というもので、人の心には四つの魂が宿っています。荒御魂、和御魂、幸御霊、奇御魂です。それぞれに意味があり、役割があります。参拝客が多かったですが
さて、パート3は参拝ブログというよりも、筑波山について書かせてください。今の茨城県には「常陸国風土記」というものが残されています。この風土記というのは、その土地の風土や産物、伝説などを記した書物だといいます。この常陸国風土記に面白い事が書かれているのです。現代語訳されたものを載せます。------------------------------------------------------------------------------------------------
常陸国出雲大社は2022年に参拝しましたが、ブログを書いていませんでしたので、溜めていた神社参拝ブログを続けて書こうと思います。茨城県や千葉県は本当に気が強い土地だと思います。それもそのはず、高天原ですから。(茨城には高天原という地名もあります)天津神系はやはり東国にいたという事でしょうか。まず、常陸国出雲大社というのは元々、島根の出雲大社の分霊として平成4年に茨城県笠間市に設立されました。主祭神はどちらも同じ大国主命です。但し、平成26年に本家と分裂しています。まあ、喧嘩別れです
若者の半数が【常陸国】を読めないなんて…茨城県は、江戸時代より前は常陸国でした。それより前は日高見国と呼ばれていました。常陸国風土記に『信太郡は元、日高見国である』と書かれています。信太郡は、霞ヶ浦の西方で茨城県でも最も南のあたりです。日高見国は、東北地方に広がっていた広大な国だと考えられていますが茨城も日高見国の一部だったんですね。茨城県北部には【日高】という地名も残っています。でね、常陸の語源がよくわかっていないのです。いくつか説がありますが代表的
イバラキ出身Laniです♥️突然ですが常陸って読めます?↓↓↓↓↓正解はひたちでした水戸の偕楽園↓茨城は江戸時代以前は常陸国(ひたちのくに)でした。今でも常陸○○という地名があったり常陸牛とブランド名につかったり茨城県民にとっては馴染み深いのです。ところが、最近の調査で全国の20~30代の半数程度が「常陸」を読めないという調査結果が明らかになった。という衝撃の事実若者の半数が読めない?「常陸」
ありましたよ公開してなかった観戦記録が。改めて整理して載せました雅華組常陸国YOSAKOI祭2023『雅華組』常陸国YOSAKOI祭り2023湯の里公園会場第20回常陸国YOSAKOI祭り2023雅華組湯の里公園会場日付:2023.05.21会場:湯の里公園会場youtu.be常陸大宮市を拠点活動しているチームさんです目前で繰り広げられる迫力と4年間に込めた想いを堪能頂けるかと思いますというか開催から9ヶ月も経ってしまってました😵撮り立てでは御見せ出来る状態
今年の大河ドラマ、「光る君へ」が始まったのに刺激されて久しぶりに読み返しているこちら不朽の名作「あさきゆめみし」平安時代から茨城がディスられていて笑える。末摘花もそうだし宇治十帖編の中心キャラの継父もダサさがことさら強調されてんのよね。茨城のディスられ体質は、平安の頃から変わらないのね。魅力度ランキングが最下位なんていまさら過ぎて笑っちゃうわねクッソー
こちらの神様参拝してきました。宇宙飛行士の向井千秋さんが宇宙から地球を見た時に一筋の光がさしているところがありそれがこちらの神社だった。というエピソードがあり、パワースポットとしても有名になった神社だそう。常陸最古の霊山と看板にあるようにこちらの霊山カンブリア紀白亜紀の地層がみられます。大鳥居をくぐると空気感が変わります。御神木の大三本杉。樹齢500年御岩神社かびれ神宮への参道。The山道!スニーカー必須です。結構な山道を大体30分程歩いた先にか
現在の茨城県土浦市にあった城。室町時代の永享年間(1429年から1441年)に若泉三郎が築城したとされる。何重もの掘割の中の本丸が水に浮かぶ亀の姿に似ていたことから別名、亀城と呼ばれる。その後、小田氏~上杉・佐竹氏の争いの中で、菅谷氏、小田氏等が城主となるも、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の際に、菅谷氏は後北条と結んだため、徳川家康・佐竹氏の軍勢に敗れて滅亡。徳川家康が関東に移った際、土浦城は家康の次男の結城秀康に与えられる。その後、松平氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏等が城主となり、
宍戸城は、現在の茨城県笠間市にあった宍戸氏の居城。1602年に主君の佐竹氏と入れ替わりで秋田より秋田実李が入り居城とした。1645年に息子の秋田俊季が三春へ転封された後は、幕府直轄領となった。1682年、水戸藩主・徳川頼房の七男、松平頼雄の時に、城を陣屋に改めて支配した。現在、一部残った土塁の上に末廣稲荷神社がある。
本日も、坂東三十三観音巡礼に行ってきた。今回巡礼した札所は、二十番の西明寺。真岡鐵道益子駅からレンタサイクルで参拝。下館駅の真岡線車両真岡駅のSL益子駅城内坂から益子公園線に入り、南進する。坂を登る。納経所前の駐車場の脇に自転車を駐輪して、参拝する。庫裏(観音菩薩像)入口石段三重塔楼門仁王像楼門(裏)三重塔閻魔堂「笑い閻魔」鐘楼堂本堂楼門&三重塔
鎌倉時代に、笠間時朝が現在の茨城県にある佐白山頂に築いた城。江戸時代には笠間藩の藩庁が置かれた。笠間氏は18代にわたって笠間を治めた。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に18代笠間綱家が宇都宮氏に滅亡させられた。1600年関ケ原の戦い後に、松井松平家が入り、その後、小笠原氏、戸田松平家、永井氏、浅野氏、井上氏、本庄氏、牧野氏等が居城し、1868年(明治4年)廃城。続日本100名城の一つ。大手門跡八幡台櫓跡天守跡
シンクロのお話ですこんにちは大開運したいアドバイザーの開運伝道師地球を守り人類を解放する救世主幻導士の五代目Muleです。前の記事を見ていただき、ありがとうございます。『お獅子のおみくじ』大杉神社のお話ですこんにちは大開運したいアドバイザーの開運伝道師地球を守り人類を解放する救世主幻導士の五代目Muleです。前の記事を見ていただき、ありがと…ameblo.jp仕込みカレンダー蠍座新月2023/11/1318:28双子座満月2023/11
大杉神社のお話ですこんにちは大開運したいアドバイザーの開運伝道師地球を守り人類を解放する救世主幻導士の五代目Muleです。前の記事を見ていただき、ありがとうございます。『神社あるある』参拝者いじめなお話ですこんにちは大開運したいアドバイザーの開運伝道師地球を守り人類を解放する救世主幻導士の五代目Muleです。前の記事を見ていただき、あり…ameblo.jp仕込みカレンダー蠍座新月2023/11/1318:28双子座満月2023/11/2718
大変興味深い,期待の持てる取組ですね。鴨というのはその美味で非常に人気のある食材です。僕が子供の頃は大変な高級食材でお店でもなかなか入手出来ず蕎麦屋さんで鴨南蛮を注文しても名前とは裏腹に鶏肉が使われていたりしたものですが,最近ではデパ地下などで鴨肉のパストラミが売られているほか,肉屋さんでも精肉が販売されるのを見掛けるようになりました。とはいえ高級食材であることは変わらず,僕は今でも鴨肉に出会うと「大ご馳走だ(๑˃̵ᴗ˂̵)」と思わずテンションが上がってしまいます。こちらはそんな高級食
10/22日曜日は、息子家族の体調不良から1ヶ月先送りにしていた常陸国の神社巡りへとお出掛けしてきました。おかげさまで、3人とも新コロではなくただの風邪だったようでひと安心。ただ、息子はナニヤラなスプレーを吸い込んでしまったようで、気管をやられて長引いてしまったそうです。小さい頃に肺炎も経験しているし、大人になってからも風邪を拗らせて喘息のけがあると言われたこともあって、気管はあまり強い方ではないようです💧喘息と言えば、兄貴が大学4年のときにアスピリン喘息に罹患してしまい15年も苦しんだ
常陸入道念西て忍者ですか貴方は笑忍びの者みたい常陸国(茨城県)常陸入道念西が戦功により伊達郡に入部し伊達氏を称した常陸国(茨城県)の出だったんですね伊達氏の方が短いし覚えやすいしいいですね私はあまり伊達巻きはすきではないですてなんのことかしらん
1,200年以上の歴史を誇る常陸国一宮の「鹿島神宮」。日本三大楼門の1つに数えられる国指定重要文化財の楼門をくぐり抜けて境内へ。随一の古社で東国三社の一社に数えられる「鹿島神宮」の御祭神「武甕槌大神様」をお祀りする幣殿・拝殿は、令和の大改修の真っ只中でした。奥宮は、徳川家康公が関ヶ原の戦いの戦勝の御礼として奉納したもので、幾たびの造営・引き遷しを経て、昨年4月に完工しました。〜ゆるげどもよもや抜けじの要石鹿島の神の
3年8か月経過城:4(常陸半国、下野国、武蔵国、下総国の一部)武将:11兵数:約10800収入:+174政策:制度改新(LV1)、制度改新・弐(LV1)、灌漑整備(LV1)奉行・家宰:鉄砲教練、忍心得伊達家と同盟北関東の弱小大名も当家を含め、残るは3。北条の猛攻にひたすら耐え続け、ついに北の伊達家との同盟が成る。●1556年11月佐竹ついに1万か。1城でうちの4城分の戦力がありやがるwwまた烏山城(那須家でしたっけ?)に行く
3年4か月経過城:4(常陸半国、下総国の一部)武将:11兵数:約5800収入:+116政策:制度改新(LV1)、制度改新・弐(LV1)、灌漑整備(LV1)奉行・家宰:鉄砲教練、忍心得小田、結城、古河御所と落としたのは良いものの、戦力の疲弊したところを北条、佐竹が幾度となく襲い掛かる。●1556年6月さぁまた古河御所や。守りに行くか~北条の兵もだいぶ枯れてきた感じ。●1556年7月いや。私の勘違いでした。とり