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朝早く起きて長野日帰りの旅。白馬の公園でのんびりし善光寺へ。戸隠そばを食べてから、幼少期に育った街をぶらり散策。小学校の歩道橋から北アルプス後立山連峰が綺麗でした。天気良く槍ヶ岳も見えて大満足。川中島合戦場を見学し富山へ帰宅😍
おはようございます週末は夏日だったのに今日は10℃以上下がるという…温度調節が難しい季節ですが、皆さんお変わりありませんか前回のブログから1ヶ月。4月は1回のみの更新になりましたがこれからも細く長く綴っていきたいなぁ〜と思っておりますので、またお時間のあるときにご覧いただけたら嬉しいですさて、今年のGW。行き先は大好きな長野県。まだ行ったことがなかった『川中島古戦場史跡公園』へ。今年のGWは天候に恵まれて最高でしたね〜武田信玄と上杉謙信の戦いで有名な川中島古戦場。公園内に市立博物館が
「川中島古戦場史跡公園」武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いがあったところに作られた公園今はのどかな場所ですが、ここで何度も戦ったんですね。武田信玄と上杉謙信、一騎討ちの銅像本当に一騎討ちがあったのかどうかには諸説ありますが、武田信玄も上杉謙信も今に至るまでとても人気が高い武将である事には変わりがありません。天と地とAmazon(アマゾン)Amazon(アマゾン)で詳細を見る楽天市場で詳細を見る${EVENT_LABEL_02
なんば新館ブログファンの皆様!佐藤の週末ブログ‐第13弾‐がやってまいりました皆様、こんばんわ!新館の放浪者、佐藤ですGWいかがお過ごしでしょうか?!世間の皆様はきっと色んな所に遊びに行かれてることでしょう(羨ましい。。。)先日、母から唐突に写真が送られてきました。どこなんだよく見ると『善光寺』の文字が長野県の善光寺でした(笑)どうやら旅行に行ってるようで何故長野?とは思いましたが、善光寺は私も行ったことないんです。個人的に善光寺といえば「
長野県の史跡の一つ『川中島古戦場跡』戦国時代の有名武将『甲斐の虎』こと武田信玄と『越後の龍』こと上杉謙信が度々激突した戦場があった場所に作られた公園で、市立博物館や神社もあります。https://www.city.nagano.nagano.jp/museum/other/park.html公園さんぽ|長野市立博物館www.city.nagano.nagano.jp歴史好きや戦国好きじゃなくても知っているレベルの武将武田信玄と上杉謙信ゆかりの地ですが、今回が初めて
⌒*723⌒*⌒*⌒*⌒*⌒信州プロレスリングファンクラブ通信2024年04月22日号*⌒*⌒*⌒*⌒*⌒*⌒*⌒おはようございます。信州プロレスファンクラブ会長代行KAKです。今回のファンクラブ通信は川中島古戦場史跡公園で開催された三太刀祭りのレポートです!先ずは八幡神社に参拝します。武田信玄上杉謙信一騎打ちの像。夜桜を楽しみます。川中島古戦場史跡公園|ながの観光net(na
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前回から1ヶ月以上経ってブログアップになります、ご無沙汰しておりますおかげでついに記事は1年遅れになってしまいましたが、今までのような季節感のズレがなくなったと好意的に解釈していただければ幸いですさて、去年4月長野県長野市へ遠征して、当初は旭山城と葛山城という、上杉謙信vs武田信玄の「川中島の戦い」で両軍が睨み合った山城に行くつもりでしたしかし東京からの日帰りでは大物の山城2つは、時間的・体力的に回り切れず、旭山城のあと、葛山城は諦めて善光寺を回り、さらにもう1箇所回りました今回訪れたの
桜が咲き誇る松代城跡・4K武田信玄の足軽大将、山本勘助が築城し川中島の戦いで武田側の拠点となった松代城(当時は海津城)その後は真田家が引き継ぎ真田十万石として信州松代を発展させました。現在は明治に建物が壊され石垣だけが残っていますが北アルプスや戸隠山などが望める絶景スポットで桜の季節には多くの花見客が訪れます。撮影日・2024年4月15日www.youtube.com
メルキュール長野松代スバ&リゾートをチェックアウトして向かったのは松代城址。川中島の戦いで武田本陣、武田の軍師・山本勘助築城で、当時は海津城と言われていたよう。その後は松代藩主・あの真田家のお城で、松代城と言われるように。駐車場からすでに桜が美しい。北アルプスと桜のコラボお城の周りも綺麗でした。つづく…
散りゆく桜典厩寺の春・4Kショート作品になりますが昨夜からの風雨に耐えた典厩寺のしだれ桜の様子を撮影しました。撮影日・2024年4月9日www.youtube.com
典厩寺のしだれ桜のロケハンに・4K信州では厳しい寒の戻りから一転、一気に春の陽気になりました。先日、ロケハンしアップしたあんずの里では昨日30日に開花宣言が出され、今日は典厩寺のしだれ桜も明日には開花するのではと思うほどピンク色のツボミが大きく膨らんでいました。「春爛漫」信州の四季・写真展開催のお知らせ。写真展会場・飯綱町霊仙寺湖の近くの...www.youtube.com
先日3/6~8間の2泊3日、「春のお城めぐり」ツアーをしてきました。今回の行き先は、長野県、山梨県の2県で、伊丹から羽田までマイレージを使用して7時5分の飛行機でのフライト。当日大阪では朝方まで雨が降っていていましたが、フライト時には雨が上がったものの、ドンヨリした分厚い雲に覆われた出だしとなりました。ANA986便「羽田行」↓浜松町駅で、webで発注していたJR東日本の乗り放題切符「旅キュン早割パス」(10,000円)をアウトプットしました。JR東日本の乗り放題切符「旅
今回は、去年4月に訪れた長野県長野市の旭山城の続きになります余湖くんのホームページより、本郭(1郭)から始まります本郭の西側の竪堀も魅力的ですがまず東側の尾根伝いに進むことにしました余湖くんのホームページより1郭から2郭への堀切字が読みづらいですが、木曽義仲の碑がありました、この地へ逃れた逸話でもあるのでしょうか?尾根伝いに進むと、またいい堀切が登場いい堀切に巡り合うと足が止まりますね先に進むとまた堀切巨岩が出てきました、見張り台に使ったのでしょうか余湖くんのホームページよ
人に規則を守らせるには、まず自身の言動を反省し、非があれば直ちに改める姿勢を強く持たねばならない武田信玄(1521年-1573年)武田信玄(たけだしんげん)/武田晴信(たけだはるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏第19代当主。武田氏の第16代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源晴信(みなもとのはるのぶ)。表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。甲斐の守護を務
2月22日、川中島古戦場の次は、バスで松代駅バス停へ。バス停の一番上には真田の六文銭。鉄道が通っている訳でもないのに松代駅と言う理由は、以前ここに長野電鉄屋代線の松代駅があったから。松代駅の駅舎今はバスの待合室中も見ておくといいでしょう駅舎の裏側へ抜けると、向こうに土塁が。松代城(別名、海津城)の土塁です。松代城は戦国時代に上杉謙信と対峙するために武田信玄が家臣の山本勘助に命じて1559年から築城。(山本勘助が実在したかどうか定かではないでど)1561年の
2月22日、長野駅へ降り立つ。大昔は日本で長野駅と奈良駅の2つだけが寺社風に造られていることで有名だったが、長野駅は長野オリンピックを機に改築したのだったかな。今はこんなビルになっています。駅の善光寺口、目の前のバス停から出発川中島古戦場を経由して、松代駅まで行く路線川中島古戦場の有名な像が描かれている。20分少々で川中島古戦場へバス代は20分でも500円以上。高い。しかも現金のみ。武田信玄vs上杉謙信による川中島の戦いは1553年~1564年に5
2週間ぶりのブログアップ・・・自分にしては久しぶりのブログアップになりますかね〜今回の記事は去年4月、長野県への遠征した時のものですまず訪れたのは長野県長野市の旭山城です旭山城はかなり古い時代からあった城らしく、戦国時代初期には村上氏に属した朝日右近が城主だったそうですこの城が有名になのは、なんと言っても天文24年(1555年)の「第二次川中島の戦い」の舞台となったからでしょう善光寺別当栗田鶴寿(栗田寛久)を味方に引き入れた武田信玄は長尾景虎(上杉謙信)の川中島進撃を牽制するために、善
『2月生まれの歴史人』2月28日は『上杉謙信』さんの誕生日🎂戦国時代の大名ランキングでは一位に輝くなど、ダントツの人気を誇り、義神とも称される謎多き謙信さん。武田信玄さんと繰り広げた歴史的な「川中島の戦い」は有名ですよね!ということでホロスコープ鑑定をさせていただきました!上杉謙信さんは現在の新潟県上越市春日山生まれ生年月日は享禄3年1月21日これをユリウス暦にすると→2月17日さらに現在のグレゴリオ暦にすると→1530年2月28日となります。魚座男子ですね♓️謙信さんは慈
※川中島古戦場跡八幡社境内内に建つ巨大な「三太刀七太刀の碑」…信玄VS謙信の「一騎討ち」歴史に残る舞台となりました川中島古戦場史跡公園3️⃣川中島古戦場には、今回初めて行きました。日本合戦史に残る有名な合戦である「川中島の戦い」は、要衝地である「川中島」の争奪戦です。「川中島の戦い」は、天文22年(1553)から永禄7年(1564)まで、通算5回、約11年もの長期間にわたり、繰り広げられた、日本合戦史上類例を見ない「合戦」です。
※川中島古戦場跡八幡社境内内に建つ巨大な「武田信玄VS上杉謙信銅像」…「法体姿」の謙信が自慢の大太刀を振るい、信玄に斬りかかる、「諏訪法性院鎧兜姿」の信玄が鉄製の軍配で太刀を受ける、有名な「三太刀七太刀」が題材になっています多くの観光客の「撮影スポット」となっています川中島古戦場史跡公園2️⃣川中島古戦場には、今回初めて行きました。日本合戦史に残る有名な合戦である「川中島の戦い」は、要衝地である「川中島」の争奪戦です。「川中
※川中島古戦場史跡公園案内板…平成29年に「都市公園化」され、広大な芝生公園となり、川中島古戦場跡(八幡社)、長野市立博物館などの施設があり、「市民の憩いの場」となっています川中島古戦場史跡公園1️⃣川中島古戦場には、今回初めて行きました。川中島は、千曲川と犀川の合流地点にあたる、古来から交通の要衝地です。また、河川が作り出した肥沃な土地が広かっていたため、源平の世から、この土地を奪い合う「合戦」が頻繁に起こっていました。日本合戦史に残る有名な
※武田信繁公の墓と案内板…中央の自然石に「松操院殿鶴山巣月大居士」と信繁公の法名が刻まれています信繁公の自然石の供養墓の左隣には、信繁公の小型五輪塔(当初建っていたものと思われます)があります信繁公五輪塔の小型五輪塔の左隣にはもう一つ小型五輪塔が建っていますが、これが、「伝・真田信繫公五輪塔」です信繁公供養墓、2基の小型五輪塔以外に複数の石造物が見受けられますが、向かって右側の卵塔は、おそらく当時の住職のものと思われます向かって左手前の変形五輪塔、方柱状の石碑か墓
高坂昌信は甲斐の豪農(春日氏)の生まれで、武田信玄の近習となり信濃高坂家の名跡を継いだ。その後、海津城主となって川中島の戦いなどで戦功を挙げ、勝頼にも仕えて海津城で亡くなった。墓は海津(松代)城の3㎞ほど南東の明徳寺にある。
今朝、守谷市のあたりは霧がかかっていました。つくば方面も霧だったという話を聞きましたので、茨城県南部は霧に包まれていたのかなと思います。かなり濃い霧で、まさに「五里霧中」。先日、授業で取り上げた四字熟語を思い出しました。秋には時々見られますが、真冬には珍しいような気がします。理科の学習では、中学2年生で学習する内容。空気が露点に達して水蒸気が水滴になり、空気中に浮遊している状態という説明になりますが、ちょっと味気ない。歴史の物語で言えば、川中島の戦い、道明寺の戦
※武田信繁公首清め井戸…典厩寺境内内にあります信繁公は、信玄の退却を見届け、川中島八幡原信玄本陣まで移動、そこで壮烈な討ち死にを遂げます家臣たちは、信繁公の首と胴体を鶴巣寺(典厩寺)まで運びこの井戸で首を清めたと伝わっています信玄公は、信繁公の変わり果てた姿を見て、信繁公を抱きしめ号泣したと言われています武田信繁公の墓典厩寺2️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615
川中島の戦い旭山城と葛山城の睨み合いの完成#川中島の戦い#武田信玄#風林火山#上杉謙信#お城#ジオラマ#鍬匠甲冑屋
第二次川中島の戦い旭山城と葛山城の製作の続き#川中島の戦い#武田信玄#上杉謙信#旭山城#葛山城#ジオラマ#鍬匠甲冑屋
今回、同時製作として姫路城A2正方形(乾燥中)、熊本城その2、岡山城(ケース待ち)、犬居城、旭山城と葛山城、予定として凌雲寺、萩城を同時製作しようとしてます。それが終わると津山城、金閣寺、安土城、今治城などが続きます。途中、合戦ジオラマも入ります。画像は葛山城となります。
川中島の戦いの舞台、旭山城と葛山城A3サイズの縄張り製作(こちらは旭山城)