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日之出旅館小田原で見てみたい旅館でした早めに着いたので路地裏を駅に戻りながら散策・・・なにかと思いました・・・行ってみたかったけど複雑な路地筋で予定に入れませんでしたが偶然花との対比でわかると思いますが大きさに愕然気が沈みました解りづらいでしょここ・・・づづく
横須賀にある浦賀城址へ行ってきました~浦賀城は小田原北条家の三代目北条氏康が三浦半島を手中にしたとき房総を支配していた里見家からの攻撃に備えるため築城した三崎城の出城です。入口は東叶神社鳥居をくぐります。拝殿です。拝殿横の石段を上っていきます途中にあるカフェ。休憩に立ち寄りたくなりますがぐっとガマン。石段を上り続けます。上りきったと思ったらまた石段上りきったと思ったらまた石段ようやく奥の院到着です。この奥で
小田原に本店のある「和菓子・菜の花」さん名物は栗が丸ごと入った「月のうさぎ」(菜の花HPよりお借りしました)そしてバターとあんが一緒になったどらやき「小田原うさぎ」(菜の花HPよりお借りしました)小田原以外にも箱根やテラスモール湘南にも店舗があります箱根に旅行に行かれて菜の花さんのお菓子を買った方もいるのでは小田原本町にある「どらやき屋・菜の花」さんへ行きました
今回は開催にあたり、大きな範囲でお護りくださっている神様にもご挨拶をしてきました!大磯町にある『六所神社』です。かつての日本の地方行政区分では、神奈川県の川崎市と横浜市を除いた地域と熱海市泉を『相模国さがみのくに』としていました。その相模国の総社が六所神社です。第10代崇神天皇の時代に、出雲国より移住しこの地を開拓した人々は、この地を柳田郷と名付け、出雲の祖神である櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)須佐之男命(スサノオノミコト)大己貴尊(オオナムチノミコト=大国主命)を祀って
お盆休みの真っ只中特に人並みに連休はないのだけれど、ある休日を利用して…朝から夏の大陽が降り注ぐ中、いつも通勤🚃より、若干、駅到着は遅く…まずは、横浜駅のBECK´Sでモーニング☕この日の予定を確認しつつ、食後は京浜東北線で…お隣の東神奈川駅へと向かい、横浜線に乗り換えて…小机駅に到着横浜総合競技場の最寄り駅である小机には、前年の9月、ワールドカップラグビー🏈の余韻に滴りたいがために訪れたが…競技場のある反対側で降りたのは、はじめてかも知れないでこの日最初に訪れたのが…
二泊三日で、小田原から大磯あたりを観光してきました。まずは、小田原城です。小田原というと、関東からだと箱根や伊豆へいく途中の場所というイメージですが、忘れてはいけない名城小田原城があります。北条早雲(伊勢宗瑞)に始まる小田原北条氏の居城であったところです。JR小田原駅から小田原城を眺めたところです。けっこう綺麗に観えます。お濠の様子です。お濠には鴨が泳いでいます。馬出門(うまだしもん)です。平成21年に復元されました。銅門(あか
美術/東京毎日新聞館蔵品展「狩野派学習帳今こそ江戸絵画の正統に学ぼう」.11日~8月10日、9時半~17時、板橋区立美術館(板橋区・地下鉄西高島平駅)。幕府や諸大名の...能満寺松本住職高岳院再建へ始動「まちおこしの一助に」タウンニュースまた江戸時代の書物によると「伯母様」という地名は、この一帯が小田原北条氏の家臣であった布施弾正左衛門の伯母の所領地だったことに由来する。松本住職...大和煮の老舗「江戸三・大和屋」が新店いなりずしと弁当を主力に船場経済新聞
八幡山古郭小田原北条氏(後北条氏)の初代・北条早雲が初めて持った城は駿河国の興国寺城(1487年(長享元年))。1491年(延徳3年)には、伊豆国に進出して韮山城を居城とします。韮山城を拠点に相模国へ進出した早雲は、1495年(明応4)、小田原城を奪取し、相模国を平定しました。※ただし、早雲が小田原城を居城としたことはありません。その後、北条氏は武蔵、下総、駿河にまで領土を拡げ、三代氏康の時代になると、小田原城は難攻不落の城と呼ばれるようになります。1590年(天正18年)の豊臣秀吉
今日2020年6月22日は、仕事で、小田原に出撃。仕事に向かう途中やその合間に、いつもの歴史散策をしてみましたよ。まずは、「北条氏政・氏照の墓所」。戦国時代、小田原城を本拠とした後北条氏第4代氏政公と、その弟・北条氏照の墓石。小田原駅のすぐ近くの繁華街の中にあるので、ビックリです!一仕事終えて、その道すがらに「松原神社」。小田原の総鎮守。歴史ある神社。そして、「小田原城」。ここは外せませんね。小田原城
こんにちは、リンクリング代表の畑中ですリンクリングは、20~40代が中心の一人参加型の会員制社会人メンバーズクラブです気温が高い日が続きますね皆様お元気にお過ごしですか!?朝、キジバトののどかな鳴き声に癒されています鳴く理由は、オスからメスへの求愛行動や巣にぴったりの場所を発見したという合図ともいわれていますね毎日いろいろな野鳥の鳴き声が聞けるので、朝が楽しみですいよいよ梅雨入りしましたね梅雨は、水不足を回避できたり、作物の成長にも大きく寄与します自
武田信玄の娘黄梅院は、信玄と今川義元、北条氏康が三国同盟を結んだことにより、氏康の子氏政に嫁ぎました。信玄も大切にした娘で、冨士御室浅間神社には、黄梅院の安産を祈願した信玄の願文が残されています。冨士御室浅間神社黄梅院と氏政の夫婦仲は良好だったといいますが、1568年(永禄11年)、信玄が駿河に侵攻したことにより三国同盟が破綻し、黄梅院は甲斐に返されてしまいます。そして、翌年6月17日、27歳で亡くなったといいます。後北条氏(小田原北条氏)の最後の当主となった北条氏直は黄梅院の子です。
まだ気は抜けないコロナ騒ぎ県外への外出は避けて石垣山一夜城歴史公園へ🚗小田原市環境協会HPより豊臣秀吉が小田原合戦の本営とした城の跡地。一夜のうちに城を出現させたように、築城したという伝承に基づいて、この名がつきました。【POINT】・石垣山城が日本城郭協会が選ぶ「続日本100名城」に選定されました。・関東で最初に造られた総石垣の城。・小田原城下や相模湾、天気の良い日は東京スカイツリーも見ることができます。・一夜城ヨロイヅカファームで地元野菜やスイーツが楽しめます。▼石
横浜に城のイメージはない。江戸に近い横浜には、江戸時代以降に造られた城はないから、白亜の天守、豪壮な石垣、満々と水を湛えた堀などとは無縁だ。だが、戦国時代以前の城跡は、何箇所か確認することができる。今回訪れたのは、センター南駅に近い”茅ヶ崎城”。駅から徒歩5分程度、城跡は公園に整備されている。住宅街の中にある緑の小丘、それが城跡だ。茅ヶ崎城の起源は定かでないが、戦国時代にこの付近一帯を制していた、小田原北条氏により築城されたとの説
今日は、小田原市最大のイベント「北條五代祭り」が開催されるはずでしたが・・・新形コロナウイルス感染拡大を防止するため中止となってしまいました。☆☆☆☆☆北条早雲は、室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏から出た戦国武将。いろんな呼ばれ方をしてきた本名ですが、現在は伊勢盛時というのが定説となっているようです。後北条氏(小田原北条氏)の祖。興国寺城址(沼津市)1487年(長享元年)、駿河国の興国寺城を手に入れて、初めて城主となります。
さあ始まりました!日本の名城紹介第1城目は小田原城です。基本データ築城主:大森頼春築城年:1417年ガイド小田原城は戦国期最大の総構えを備えた小田原北条氏の本城として有名だ。小田原北条氏時代の総構えは山側によく残っていて、畑や山に延々と伸びる堀や切岸を歩いてたどれる。近世城郭遺構も整備が進み、すべて見るのには1日では足りないほど!僕の攻め方正面入り口を突破すると馬出門が見える。馬出門は門や土塀で土地を囲み、そこに敵を閉じ込め多方向から攻撃できる、枡形の構造を持
戦国時代、関東地方に君臨した小田原北条氏の居城は、城下町を囲い込んだ、惣構の巨大城郭でした。現在の小田原城址公園は、江戸時代、小田原北条氏の居城の一部を利用して築いた近世城郭。山上には、戦国期の遺構が残ります。大堀切と称する、雄大な空堀が迷路のように、張り巡らされています。見上げると虎口。深くて、幅も広くて、土の壁も急傾斜で高い。随所に案内板が設置されています。どこがどこの堀なのかは、訪れたのが何年も前なので、記憶にございません(笑)ま
7:18A.M.もやのなかに立つ電波塔に着く。ひさしぶりにここにやってきた。ここから北へ向かうトレイルがあるが何度か行ったことがある。途中、ちょっと雰囲気が怖いところがあったっけ、、千人塚と言われる場所で、皆川氏の兵と小田原北条氏の兵とが戦い、死んだ者が埋められてるとか、、元の登山道にもどる。7:35A.M.いつもの稜線上の、「駒の爪」にくる。雨なのでいつもの枝にとびつかない。枝にくくりつけられた温度計を見ると、4度だった。風も少し吹いているので、体感温度はそれ以下だ
小田原・松原神社5月例大祭の神輿は中止カナロコ(神奈川新聞)同神社の創建年代は不明で、一説には久安年間(1145~51年)ともいわれる。戦国期には小田原北条氏の崇敬を受け、江戸期も歴代藩主が保護した。例大祭の...人形に感謝伝える熊野神社で祭事タウンニュース人形やぬいぐるみの魂をお払いし、感謝の気持ちを込めてお別れする祭事が3月28日、阿久和東の熊野神社(相澤利彦総代長)であった。毎年恒例の催し。感謝の思いで人形祭4月26日神鳥(しとど)前川神社タウンニュース
埼玉県小川町の腰越城跡。パトリアおがわの駐車場側から見たところ。登城口には、看板があります。登城口。杖も備えられています。最初に見えてくる遺構の堀切。確か、この堀切は、最初の堀切と二重堀切になっていたかと。腰郭。整備されていて見学しやすいです。囮虎口に至る、竪堀状の通路。石垣。堀切(階段付き)。堀切先の竪堀状に落ちていくところです。虎口かな。主郭の様子です。石碑が建っています。城下が一望できたのですが・・・。なぜか画像が
足柄城址が在るのは、所謂、足柄峠。ここには、平安時代前期から小規模な砦が存在していたらしい。戦国時代になると、小田原北条氏によって改修が施されたそうだ。城域に入ると…↑“一の郭”。↓そこから人為的なV字谷“空堀”を越えると…↓↑“二の郭”。↓“二の郭”から“一の郭”を振り返ると…↓
小田原城とセットで訪問したいのが石垣山城.秀吉が小田原北条氏を攻略する際に造られた城です.小田原駅から観光周遊バスで20分程度.穴太衆による石垣が残っています.荒々しくて見事です.小田原城攻略の際には、一晩で城ができたように見せかけたため、石垣山一夜城とも呼ばれます.ボクの家の近くにも当時の木下藤吉郎のつくった墨俣一夜城があります.信長の美濃侵攻の足がかりとなり、秀吉の立身出世のきっかけとなった城です
最近気になった新聞記事。夜空にきらめくオリオン座を構成している星の1つ「ペテルギウス」、近い将来大爆発を起こしてその終焉を迎えるのではといわれているそうです。仮にそうなれば、オリオン座付近の夜空は満月よりも明るくなるとのこと。この話から山口百恵さんのラストソング「さよならの向う側」を思い出した私、それだけで年齢が類推されてしまいそうですね(笑)。さて、相模川河口から平塚宿を経て北上を続けてきた「八王子道」、厚木市酒井地区に到達しました。まず出迎えてくれたのは「小田原橋」
ここのところ、大山が雪に覆われる光景をよく目にします。関東地方の雪は、南岸を通る低気圧に北からの寒気が入り込むために降るパターンがほとんどだそうです。一方、山麓の厚木・伊勢原に積もるほどの雪は年に1回あるかないか。大山が壁となってくれて北からの寒い空気をブロックしているんですね。温暖な気候は全て大山のおかげです(感謝)。さて、本題「八王子道」に戻って。前回訪れた「寄木神社」から八王子道を北上、「東海道新幹線」高架をくぐると街道脇に「真芳寺」が見えてきます。その寺域内
2014年7月27日静岡県掛川市遠江・掛川城遠江・掛川城史跡指定:県指定史跡別名:雲霧城,松尾城形態:平山城(56m/30m)歴史永正9年朝比奈泰能によって築かれた。今川氏が東遠江支配のため朝比奈氏に掛川古城を築かせ、さらにこの地に新城を築かせたのが始まりとされる。永録11年朝比奈泰朝は、武田信玄によって駿府城から追われた今川氏真を掛川城へ迎えた。永録12年徳川家康によって攻められ、約半年の間籠城したが和睦開城となり、今川氏
最寄り駅から職場に向かう道なりにあるコンビニ。店先に細長いパッケージに入ったポテトチップ・チョコチップなどのお菓子が並べられています。昨日の帰り道のこと。目の前をカラスが舞い降りてきて、個別包装された商品をくちばしでつまみ上げて電線の上へ。ごく短い間の鮮やかな「犯行」に、私は目を奪われてしまいました。さて本題の「八王子道」ですが、平塚宿を出発して「田村」まで到達し現在も滞留中。八王子道と「中原街道・(田村通り)大山道」とが交差する「田村十字路」に、十王堂跡の石碑がありました。
8月の松山城につづき、小田原城に登城して来ました1月13日、成人の日、晴天白いお城が青空に映えます成人の日なので、晴れ着姿の新成人たちがたくさんいらっしゃいました晴れ着姿に小田原城、映えてます御成人、おめでとうございます小田原城は15世紀中頃大森氏によって築城されましたその後、北条早雲を祖とする小田原北条氏の本拠地となりました現在、本丸などを含む一帯の小田原城址公園は国の史跡に指定されています小田原城に初登城して来ました天守閣最
正月四日でしたか、ご近所、読売ランドの小沢城址に行く。何回も行ってるけど…。ランドの丘の湯に車を駐車。正月城址探訪&温泉です。丘の湯、文字通りの丘の上でして…結構、高い所にあるです。北側、京王読売ランド方面の町並み。丘の湯から尾根上歩いて約十分、巨人のランドG球場です。誰も練習しとらんな…笑。左の白い建物、室内練習場の奥に小沢城址の入り口あり。↓左のフェンスの開いてるところ…です。貼り紙あり…昔はなかったです。森の中、歩くこと約三分…平坦地にでる…ここは馬場跡らしい
“明智光秀は医者だった?”古文書公開熊本県立美術館NHKNEWSWEBことしのNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公、明智光秀が、織田信長に仕える前は医者だったことをうかがわせる古文書が、熊本市で公開されています。「麒麟がくる」の世界、甲冑や光秀模型で体感京都・亀岡に大河ドラマ館47NEWS戦国武将・明智光秀を主人公にしたNHK大河ドラマを紹介する施設「麒麟(きりん)がくる京都大河ドラマ館」が9日、京都府亀岡市の現地で報道関係者向けに...NHK会長撮り直し
日本100名城の1つ、名胡桃城。真田昌幸の出城です。父幸隆から岩櫃城を受け継いだ真田昌幸は、武田勝頼の命令で名胡桃城を奪い、沼田城も奪いました。天下統一した豊臣秀吉は大名間の戦いを禁止する惣無事令を発令します。沼田領については裁定の結果、昌幸が「祖先墳墓の地」(=ウソですが、そう言い張りました)であると主張した名胡桃城を含めた全体の三分の一は真田領に、それ以外の沼田城を中心とする三分の二は北条領と定められましたが、沼田城代の北条氏家臣が名胡桃城を占領した惣無事令違反が小田原征伐(=小田
静岡県伊豆市土肥日蓮宗清雲寺小田原北条氏時代伊豆水軍で活躍した土肥城主富永山城守の菩提寺です。清雲寺のHPはこちら90枚の板絵は日蓮上人の一代記を描いた畳一畳大ほどの極彩色の板額絵です。順番に拝見することで日蓮大聖人の一生を知ることができます。これは伊豆市の文化財です。令和2年から御朱印を作られたそうで第1号をおわけいただきました。新年から良いご縁をありがとうございました。伊豆市土肥へお越しの際はぜひお立ち寄りください。