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変わる世界秩序に食らいついた石橋湛山のもがき広く、深い時代認識が「小日本主義」を生んだ変わる世界秩序に食らいついた石橋湛山のもがき――石橋湛山という人物をどのように評価していますか。日本中が大日本主義に熱狂していた時代に、石橋は『東洋経済新報』で「一切を棄つるの覚悟 太平洋会議に対する我が態度」(1921年7月23日号「社説」)や「…toyokeizai.net
今年は石橋湛山元首相没後50年となる。在任期間は短かったものの理念が色あせる事はない。彼が戦前、戦中を通じて一貫して唱えた、植民地放棄や平和な貿易立国を目指す「小日本主義」が実現していたら、と思う。
<第55代石橋湛山>(1956.12.23~1957.2.25)短命内閣〔2ヶ月〕。大日本主義ではなく小日本主義〔農業中心〕。
新元号「令和」の考案者といわれる万葉集研究の権威・中西進氏(大阪女子大名誉教授)が「令和」がもつ本当の意味について語っている(日経新聞2019年5月1日朝刊)。「“令(うるわ)しい”という概念です。“善”と並び、美しさの最上級の言葉です。これと“和”と組み合わせることで、ぼんやりした平和ではなく、うるわしい平和を築こうという合言葉になる」「天皇陛下(30日退位された上皇さま)が“平成は戦争のない30年間だった”とおっしゃいましたが、それをグレードアップするのが今日の使命
お知らせ「教科書の研究」シリーズは、電子書籍になりました。どうかこちらをご覧ください。よろしくお願い申し上げます。http://ebooks.shueisha.co.jp/detail.php?book=sg948459野島博之先生制作:りかりかりん番外編野島先生が出来るまで(๑˃̵ᴗ˂̵)❤️❤️
だいぶ前に、第1回を書いてからだいぶ間があいてしまったこのシリーズ。何人かいる尊敬する政治家の中でも、筆頭格が石橋湛山です。石橋湛山(1884-1973)湛山は、東京都生まれ。学生時代は山梨で過ごした後、早稲田大学を卒業します。東洋経済新報社に入り、ジャーナリストとして活躍します。日本の帝国主義的な植民地政策に反対し、その放棄を謳った「小日本主義」を軸に議論を展開し、リベラルな政治的立場を鮮明にします。しかし、時の政権に批判的であったため、妨害を受けることもあったようです。
■小日本主義と金解禁論争「小日本主義」の一節をみてみよう。何故に戦争は愚にして無益なる。曰く戦争は、有形的にも無形的にも、何等の利益を生むものにあらざればなり。……論より証拠、我が国は日清戦争に台湾を得、日露戦争に樺太朝鮮を併せて、いくばくの利益を得たる。1914年支那本土からの(満蒙の)分離独立を希望し、援助する。……支那はもちろん非常な反対を試みるに違ひない。否、現にその運動を起こしつゝある。満蒙の住民といえども、かような離縁を、隣家の日本から希望せられ、ないし
■リベラリズムの形成硬質のリベラリズムのもつ気骨を感じさせるジャーナリスト・政党政治家。石橋湛山は、大正期から昭和の戦前・戦後期を通じて、変わらぬ座標軸を抵抗・改革の論理として保持しながら、常に現実と切り結びつつ、しかも社会のほぼ第一線で活動しつづけるという荒業を見事にやってのけた。近現代史の舞台には、時代の雰囲気に飲み込まれてしまった右往左往型の知識人や権謀術数の能力だけを肥大させた構想力欠如型の政治家、あるいはまた、情況への一途な突進を試みて挫折した暴走型の社会運動家などが多数
2-4政党内閣の継続と外交の危機②(浜口雄幸内閣、SNG下p.92~p.93)2-5大正・昭和初期の文化(SNG下p.94~p.96)➊ロンドン海軍軍縮会議における主要な合意内容を、簡潔に説明せよ。➋統帥権干犯問題における主要な争点を、簡潔に説明せよ。➌大正・昭和初期に、大衆文化の形成とマルクス主義の隆盛という特色をもつ文化が生まれた背景を、簡潔に説明せよ。→参考:一橋大論述新研究21(08-Ⅱ問題)→参考:一橋大論述新研究23(08-Ⅱ問2