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戦いや学問、富や財産の守護神!毘沙門天様!毘沙門天(びしゃもんてん)様は、日本の七福神様の一つであり、戦いや学問、富や財産の守護神として崇められています。彼はしばしば武装した姿で描かれ、手には宝塔(ほうとう)を持ち、または蓮華座(れんげざ)に座っています。毘沙門天様は、戦いの勝利や学業成就、財産の増加など、さまざまなご利益があるとされています。彼はまた、悪を退治し、人々に正義や道徳を示す存在としても崇拝されています。彼の姿や神話には興味深い要素が含まれています。
【御書本文】末法に入つて法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり(阿仏房御書全1305新1732)【通解】末法に入って、法華経を持つ男女の姿よりほかには宝塔はないのである。もし、そうであるならば、身分の貴さや賎しさ、立場の上と下といった差別なく、南無妙法蓮華経と唱える人は、その人の身が宝塔であり、また、その人の身が多宝如来なのである。
大学時代の女子友と「日光・湯西川温泉の旅!」2024年2月9日(金)栃木県が誇る、世界遺産日光に二社一寺。すず女子(大学の鈴木ゼミの女子友)たちに、栃木県は魅力的な楽しいところと、擦りこむべく、日光東照宮を徹底ガイド!すみません。まだ続いてるんですー!前回はこちら。『すず女子旅@日光東照宮の豪華絢爛さに感嘆!』大学時代の女子友と「日光・湯西川温泉の旅!」2024年2月9日(金)栃木県が誇る、世界遺産日光に二社一寺。すず女子たちに
2024年1月8日(日)に、東北本線白河~郡山間の駅巡りに行きました。自宅から香里園駅まで歩いて行き、そこから、京阪本線準急で京橋駅まで乗り、そこで、大阪環状線に乗り換えて大阪駅まで乗り、大阪梅田WILLERバスターミナルまで歩いて行きました。そこから、WX251便で東京駅鍛冶橋駐車場まで乗りました。観光バス型でした。そこから、東京駅まで歩いて行き、東京駅のマクドナルドで朝マックをしました。その後、東京駅から東北新幹線やまびこ204号で新白河駅まで乗り、そこで、東北本線に乗り換えて、泉崎駅まで
朝日新聞のウソを2回挟みましたが、「年金爺さんまた100㎞ライド」に戻ります。介護予防のサイクリングとボケ防止の石造物巡りです。常明院魚游寺に伺ったのは廃覚動寺多宝塔を見学するためでした。この山門を抜けると石造多宝塔があるはずです。山門をくぐってすぐ左手に石造多宝塔がお出迎え。ただし、こちらは背面です。【覚動寺は乗明院の末寺であったが明治時代に廃寺となり、後に跡地は昭和大橋の建設地となった。廃寺にともない覚動寺にあった宝塔は乗明院に移設された。南北朝時代の永和4年
こんにちは~東照宮の続きです客殿をあとにしてここからは巫女さんとも別れて自分達だけで参拝になりますこちらが有名な眠り猫ですね裏側は雀なんですね眠り猫と雀の門をくぐると207段の階段です他の参拝者が写っちゃうと悪いので隅っこを運動不足で足がガクガク腿がパンパンでした奥宮拝殿ですねここに徳川家康公が眠っているんですね奥宮宝塔ですこんな物もありましたこの場所にあるのでお願い事が叶いそうですよねお願いが出来るみたいです(笑)いろいろありますがあれをお願いしました奥宮を下って
2024-01-21またまた常夜灯〜西方院スタッフさん?が立ってて、「中で説明してますので、是非どうぞ。あ、お名前書いてください〜」中に入りました〜けど、説明の方は、他のお仲間さんに説明中だったので、まろんは、ご挨拶して出まーす階段下りますよ〜向こうに見えるのが叡福寺かな?階段下りて道を渡って〜到着ぅ〜叡福寺階段上がります年代モンに見えます聖徳太子の御廟があるところお邪魔しまーす左手に宝塔御朱印をいただきに寺務所へ行ってみたけど、誰もいらっしゃらなかったのん
高層の木造建築を建てる場合には中央に心柱を立てるのが当時のやり方でしたしかし安土城天主の中央の一つだけ礎石がなく空いた穴があるだけでこの穴の上に宝塔があり穴には壺が入っていたと推測されているようです。しかし発掘調査で穴には壺のカケラもなかったのでしょうか?
高崎市白岩町の長谷寺。白岩観音という呼び名の方が一般的かもしれません。寺伝では文武天皇朱鳥年中(686年)開基となっていますが、不詳です。とにかく古い。江戸時代までは修験道寺でした。明治時代に天台宗に改宗、第2次大戦後金峰山修験本宗になりました。年金爺さん100㎞ライドで高崎市の宝塔群を巡った時、この寺の3基の宝塔が漏れていたので、後日車で伺いました。逆光になってくすんでいますが。台石、右側、裏側、左側には何も彫られていないようです。菅谷大壱寺の3基の宝塔と
本郷安養寺の宝塔は視線よりだいぶ高く、分かりにくい所にあります。(正面)高崎市の文化財HPより解説文を写します。【安養寺跡の宝塔は本郷町字寺内にある高さ220センチの大きな宝塔で、台石には大永元年(1521)か天正9年(1581)のいずれかに判読できる銘があります。塔身の形状は上部のくびれがほとんどなく、全体は卵形で笠石はそりもなく直線的で、切り口も厚く垂直で、室町初期あるいは鎌倉時代の様式を持つ質朴重厚なつくりです。】正面台石に大永元年(1521)か天正9年(1581)の銘が
年末の高崎行きサイクリングでパンク(短い距離で2度も!)で諦めた、菅谷大壱寺の宝塔です。後疋間の宝塔とならび「完形・年号あり」の宝塔です。宝塔3基をアップ。解説板には、以下のように年記銘が示されています。・康永2年(1343年)・永和9年(1383年)・明徳4年(1393年)南北朝時代が1336~1392年ですから、南北朝時代の宝塔といってよいと思います。「向かって右から」とか基準が示されていれば良いのですが。向かって左から文字が読めません
歴代僧侶の墓区画に、万福寺の宝塔があります。天台宗下柴山竜学院万福寺墓地内にある赤城型の高さ145センチメートルの宝塔です。基礎に「并諸檀那奉逆修応永廿八年拾月」(1421)と刻まれています(高崎市の文化財HP)。并諸檀那奉逆修・・・諸有力者の逆修を併せ奉る長野氏が一帯を治める前の時代のようですから、里見氏の有力侍の安寧を願うというような意味でしょうか。
合祀墓、というのはこのところ増えてきているお墓の形態のひとつです。いわゆる永代供養墓の一種でもあります。「合祀」とはどういうことかと言いますと、個人が区別される個別の納骨スペースを設けずに、どなたのお骨も一箇所に納められることを表現します。最近は個人や家単位でのお墓を作らず、こういった合祀形態での供養を求められる方が増えているということで、お寺さんなどからご相談いただくことも多くなっています。さて、このほど合祀式の墓所を作ろうということになったのは、弊社のすぐ近く、いつもお世話に
後疋間の宝塔。3基のうち左右のものがそれです。中央の石殿は次回のブログで。向かって右の宝塔。笠の上の相輪部は原形とは別のものが乗っているようです。町屋の宝塔(1439年、永享11年)や楽間の宝塔(1430年、正長3年)のような相輪が乗っていたと思われます。正確に測ってはいませんが、直感的には高さ160cmくらいはありそうです。当時の相輪部が乗っていれば6尺(180cm)くらいはあったのでしょう。それ以外は完形です。町屋の宝塔・楽間の宝塔は当時上州で勢力のあった長野氏
~調べて清める~心霊内科へようこそ!恕慰(じょい)ほの花です♡「はじめまして」の方は自己紹介①②をお読みください。自己紹介①自己紹介②プロフィールショート動画昨日の続き『怒涛の東京・日光旅日記<パート1>』~調べて清める~心霊内科へようこそ!恕慰(じょい)ほの花です♡「はじめまして」の方は自己紹介①②をお読みください。自己紹介①自己紹介②プロフィールショート動…ameblo.jp20日浅草泊だったんだけどチェックアウト後まずは
昨日はMHさんと。"親子デート"でコチラに行ってきた↓Horusの地元、西東京は保谷から電車で3.5時間位で着く「東武日光駅」。ここからMHさんと歩いて、日光名所に向った。駅から歩いて15分位歩いた所にあるのは↓「神橋」と呼ばれる橋だ。日光を巡る前に。先ずはここで、日光の神様達に挨拶をする必要があるそうだ。…お金の関係で、「神橋」の上には乗れなかったので。橋の端から、日光の山の神様達に挨拶をした(^_^;)そのまま歩く事暫く。コチラに向った↓「日光山輪王寺」だ。ここは"
おうちに帰ると金剛峯寺さんからお手紙が令和の宝塔が無事に奉納されたそうですーうれしーいっ
こんばんは😄今朝は突然の雨☔で、ビックリしました😅少し暑さも半減したようにも感じましたが、すぐまた太陽が顔を出し、やはり暑かったですね(-_-;)さて、日光東照宮の奧社へ奥宮に続く参道が、なんと階段207段(>_<)多分これが最後かなと思いながら、昇りました😅すれ違う方々は、外国の方ばかりでした😅休憩しながら、15分ぐらいかかったでしょうか(>_<)暑くて、何度もお茶休憩(´▽`;)ゞ1段ずつ、1枚石だそうです🤩息が(;´Д`)ハァハァ写真もぶれてます(-_-;)奥宮宝
『ブログの【全体目次】ページとなっております。ナビ上で、選び安くしたページです❣️Contents』ご訪問ありがとうございます😊ブログの目次となっております。【教学】の目次ページをこちらからご覧になれます。教学の目次ページをホームページよりご覧になれます…ameblo.jp【法華経】見宝塔品(第十一章)その6「我が身が宝塔」と見る妙法流布の行動者こそ宝塔【法華経と現代】(宝塔品の儀式と御本尊。上)大聖人の顕された御本尊の相貎(そうみょう)で言えば、中央の首題に南無妙法蓮華経の
昨夜は、夫がご飯要らないとの事で、私は残り物で済ませましたので、先日の日曜日のお昼ご飯を載せさせて頂きます🙏わざわざ見て頂くほどでもなく恐縮です。器が20年以上の年季で、小さいんちゃう?と、言われたから、新しい器を買いたいと思います。今回は、これで。香住産笹カレイツイッターを見ていたら。チベットに、400年に一度咲く、宝塔花マハメルという花が、今年、咲いたそうです。400年に一度ってどうやってわかったんかな
南小国町満願寺に所在する県指定重要文化財の満願寺の宝塔です。説明板によると、この宝塔は昭和10年の県道開設の時、満願寺字川上の道端より発掘され、満願寺境内に安置されたものだそうです。笠石の裏に「石塔参十三人文中二二年二月日」と刻まれているほか、墨書もあります。満願寺の山門です。入って左側に宝塔があります。※写真は2020年2月撮影
産泰神社の次は二宮赤城神社へ。赤い鳥居。参道。参道途中の鐘楼。神代橋。石灯籠。手水舎。随神門。社殿前の狛犬。拝殿。社殿全体。本殿。本殿を囲むように石祠や石塔、石碑などがたくさんありました。境内社。神楽殿。可愛いタケノコの御朱印を頂きました。参拝したのは4/2でしたが日にちが違う〜💧
2023卯0372022年10月29日(土)『2022年秋聖徳太子まほろば御朱印巡りPart2』2日目大阪の社寺を巡ります最初は聖徳太子御廟所叡福寺※聖徳太子御廟所上之太子叡福寺叡福寺は、大阪府太子町にある聖徳太子の御廟を守る、四天王寺、法隆寺とならんで、太子信仰の中核となった寺院です。eifukuji-taishi.jpを参拝御朱印帳を購入限定を含む御朱印五種を拝受しました※公式ホームページにジャンプします上之太子磯長山叡福寺〒583-0955大阪
二宮赤城神社の手水舎、お稲荷様御神燈の力神様達茅葺十二天様十二支の塔などを記事にしてきましたその他の石造物などのお話です天満宮白馬に水色のブチ本殿この並びに。。↑狐の彫られた稲荷宮がありました南北朝時代のものとされる宝塔ですどこか近くにあったものだろうか。何か立派にまつられています秋葉山五輪塔と石仏。薬師如来かしら広々した境内です神楽殿と赤い屋根は式三番叟の舞台です古式ゆかしい裃姿で披露される式三番叟。ずっと継承されています2023年
熊本市南区城南町宮地に所在する町指定有形文化財の七所宮の石造宝塔です。七所宮(宮地神社)の境内に所在します。天福二年(1234年)の銘文を持つ宝塔です。以前は境内隣地にありましたが、現在は境内の建物の中に置かれていて、ガラス越しに見ることができます。七所宮です。境内北側のこの建物の中に宝塔が置かれています。天福二年の文字がくっきり刻まれています。※写真は2022年12月撮影
天台宗石塔寺創設年代・・・奈良時代創設者・・・・聖徳太子形態・・・・・寺遺構・・・・・三重石塔・宝塔・五輪塔三重石塔石塔群への石段石仏石塔・石仏石塔・石仏石塔石塔石塔・石仏石仏石垣に組み込まれた石塔略史奈良時代の聖徳太子開基の寺院。その後一条天皇の勅願寺となり隆盛を極め、80余坊の大伽藍を築き栄えたが、戦国時代に織田信長の焼討ちにより、七堂伽藍、木造建築物、
和水町江田に所在する県指定重要文化財の熊野宮宝塔です。菊池川の左岸にある熊野神社の境内に所在します。説明板によると、この宝塔は貞和5年(1349年)に造られた南北朝時代の代表的な宝塔で、均整の取れた形態を持っています。高さは146.5㎝で塔身は有頸の棗形で、上部に円筒形の穴があります。宝珠は後補で、本来は相輪が乗っていたと考えられます。塔身には銘文が刻まれています。勧進は實賢と刻まれていて、近くの中道宝塔と同一人物の勧進です。
山鹿市菊鹿町相良に所在する県指定重要文化財の笠忠平の宝塔です。相良観音の近く、吾平阿蘇神社の北側に所在します。『山鹿市の指定文化財』によると、この宝塔は日本でも最古の年号を持つ宝塔として知られています。塔身の隅切した面に西郷(菊池郡?)の住人である笠忠平が78歳で出家し、84歳で亡くなったこと、正治2年(1200年)2月7日に死去して、その年の閏2月彼岸の5日目に塔婆を立てたことが銘文として刻まれています。現状は宝篋印塔の基礎石を笠代わりにのせていて正しい姿ではありません。全体的に
熊本市東区戸島本町に所在する戸島神社入口五輪塔残欠です。文化財の指定は受けていません。戸島山に位置する戸島神社の入口(麓)に所在します。五輪塔の残欠と宝塔を組み合わせて一つの石造物としています。銘文などは確認できません。宝塔身には四方仏が彫られています。また覆屋内には戦国末から江戸初期くらいの空・風輪などが置かれています。※写真は2021年2月撮影
氷川町栫に所在する町指定有形文化財のオサキ墓地宝塔五輪塔です。九州自動車道脇に所在します。説明板によると、昭和52年に高速道路開削の時に烏八臼(うはきゅう)を刻む五輪塔などが発掘され、現在この場所に集められています。宝塔もあります。烏八臼を火輪部に刻む江戸時代の有角五輪塔残欠です。烏八臼を刻んでいます。※写真は2020年4月撮影